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昭和天皇を心から尊敬したマッカーサー元帥

2017年03月25日 | 日本

昭和天皇が米国大使館の大使公邸にGHQ(連合国軍総司令部)のマッカーサー元帥を初めて訪問されたのは、終戦直後の昭和20年9月27日のことである。この会見がもたれるに至った経緯については種々の推測があるが、「天皇御自身の発意であり、マッカーサーの側ではそれを待っていたとばかりに歓迎したというのが実相だった」といってよさそうだ(小堀桂一郎『昭和天皇』)。

 

天皇にお供したのは、石渡宮内大臣、藤田侍従長、筧行幸主務官、奥村外務省参事官など6名。しかし、会見に同席したのは通訳の奥村参事官のみだった。

 

会見後、奥村は会見の内容についてメモを作成した。それは、外務省から藤田侍従長のもとへ届けられ、侍従長から天皇へ手渡された。通常であれば、その種の文書は侍従長の元に戻されるが、そのメモは戻されなかった。会見の内容は公表しないというマッカーサーとの約束を守るための措置だったといわれる。

 

日本人が会見の内容を初めて知り、深い感動に包まれるのは、それから10年後のことだ。すなわち、「天皇陛下を賛えるマ元帥――新日本産みの親、御自身の運命問題とせず」という読売新聞(昭和30年9月14日)に載った寄稿が最初の機会となる。執筆者は、訪米から帰国したばかりの重光葵外務大臣であった。

 

重光外相は、安保条約改定に向けてダレス国務長官と会談するために訪米したのであるが、この時マッカーサーを訪ね、約1時間会談した。先の外相の寄稿は、その際のマッカーサーの発言を紹介したものだ。

 

重光によれば、マッカーサーは、「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに、はばからないのである」と述べた後、陛下との初の会見に言及した。

 

「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました」として、次のような天皇のご発言を紹介したというのである。

 

「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」

 

そしてマッカーサーは、このご発言に関する感想をこう述べたという。

「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがなうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」

 

この天皇のご発言を知らされた重光外相は、次の感想を記している。

「この歴史的事実は、陛下御自身はもちろん宮中からも今日まで少しももらされたことはなかった。それがちょうど10年経った今日当時の敵将占領軍司令官自身の口から語られたのである。私は何というすばらしいことであるかと思った」

それから9年後の昭和39年に『マッカーサー回想記』が出版されたのです。

 

昭和天皇とマッカーサー元帥の会見当日の様子をもう少し詳しくお伝えしましょう。

 

昭和天皇と側近はアメリカ大使館公邸を訪れた。大使公邸の玄関で昭和天皇を出迎えたのは、マッカーサーではなく、わずか2人の副官だけだった。

 

昭和天皇の訪問の知らせを聞いたマッカーサーは第一次大戦直後、占領軍としてドイツへ進駐した父に伴っていた時に敗戦国ドイツのカイゼル皇帝が占領軍の元に訪れていた事を思い出していた。

 

カイゼル皇帝は「戦争は国民が勝手にやったこと、自分には責任がない。従って自分の命だけは助けてほしい」と命乞いを申し出たのだ。

 

同じような命乞いを予想していたマッカーサーはパイプを口にくわえ、ソファーから立とうともしなかった。椅子に座って背もたれに体を預け、足を組み、マドロスパイプを咥えた姿は、あからさまに昭和天皇を見下していた。

 

そんなマッカーサーに対して昭和天皇は直立不動のままで、国際儀礼としての挨拶をした後に自身の進退について述べた。

「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります」

 

「しかしながら、罪なき8000万の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と願われた。

 

この言葉に、マッカーサーは驚いた。彼は、昭和天皇が命乞いにくるのだろうと考えていた。自らの命と引き換えに、自国民を救おうとした国王など、世界の歴史上殆ど無かったからだ。

マッカーサーは咥えていたマドロスパイプを机に置き、椅子から立ち上がった。今度はまるで一臣下のように掛けて昭和天皇の前に立ち、そこで直立不動の姿勢をとった。

 

マッカーサーはこの時の感動を、『回想記』にこう記している。「私は大きい感動にゆすぶられた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った」

 

35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は変わっていた。わざわざ予定を変えて、自ら昭和天皇を玄関まで送った。これは最大の好意の表れだったのだ。

 

この年の11月、アメリカ政府は、マッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請したがマッカーサーは、「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と本国へ回答した。

 

マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、この後合計11回に渡って会談を繰り返した。マッカーサーは日本の占領統治の為に昭和天皇は絶対に必要な存在であるという認識を深めるに至ったのだ。

 

当時、ソ連やアメリカ本国は「天皇を処刑すべきだ」と主張していたが、昭和天皇の態度に感動したマッカーサーは、これらの意見を退けて、自ら天皇助命の先頭に立ったのです。

また当時、深刻な食糧不足に悩まされた日本に対してアメリカ本国に何度も掛け合い食糧物資を支援させることに成功し日本の危機を救ったのでした。

 

前述した重光外相は訪米前に、昭和天皇に拝謁した。

昭和天皇は、「もし、マッカーサー元帥と会合の機会もあらば、自分は米国人の友情を忘れたことはない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝して、その健康を祈っている、と伝えてもらいたい」と、外相に伝えた。

 

重光は訪米すると、ニューヨークにいたマッカーサーを訪ね、昭和天皇の御言葉を伝えた。
マッカーサーは、「陛下は御自身に対して、いまだかつて恩恵を私に要請したことはありませんでした。とともに決して、その尊厳を傷つけた行為に出たこともありませんでした。どうか日本にお帰りの上は、自分の温かいご挨拶と親しみの情を陛下にお伝え下さい。その際、自分の心からなる尊敬の念をも同時に捧げて下さい」と伝えたという。

 

統一王朝として二千数百年以上、連綿と続く天皇の身を挺したお言葉と行動が、見識高いアメリカの総司令官マッカーサーの心に届き、その両者の畏敬の念が日本国の最大の危機を救ったのではないでしょうか。僭越ですが、両者ともに真の大物と言わざるを得ないのです。

 

---owari---

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは (このゆびとまれ!です)
2022-06-01 11:08:46
ご意見ありがとうございました。

『マッカーサー回想記』は、"Reminiscences" の題で1964年に米Time社から出版され、同年、津島一夫氏の訳で朝日新聞社からも出版されております。また、『マッカーサー大戦回顧録』の名で中央公論新社からも出版されていますので、書籍としてあるのは事実です。

ただし、「著者の個性が反映され、そのまま史実とは受け取れない記載が散見される」というご見解があり、歴史学者の方はお認めになっていないということでしょうか。この点はマッカーサーにしかわからないところなので、判断がつかないところです。

指田さんから、「マッカーサーが昭和天皇に感動したことは事実だと思います」とのお言葉には救われる思いです。ありがとうございました。
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歴史学者は認めていませんが (指田文夫)
2022-05-31 20:43:35
このマッカーサーの言葉について、歴史学者は誰も認めていません。きちんと本に書かれていないからです。
ただ、マッカーサーが昭和天皇に感動したことは事実だと思います。
それは、言葉でなく、行動です。

欧州では、ナチスが侵攻してきた時、多くの王様は自国から逃げました。だが、昭和天皇は、最後まで逃げませんでした。
もっとも、亡命する国は、満州国かタイくらいしかなかったのですが。
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