⑮今回は「作家・童門冬二さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
このシリーズは今日で終わりです。
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織田信長の事業を継続した豊臣秀吉は、天下人になると芸術家を虐待した。虐待したというよりも、「芸術家も政治権力のもとに屈服すべきである」と考え実行した。千利休が殺されたのはそのためだ。
利休は、「織田信長様は、茶人という芸術家を尊敬した。つまり芸術の分野は、政治の分野と両立するものであって、上下関係はないとお考えになっていた。いってみれば芸術の分野はサンクチュアリ(他の力のまったく及ばない聖域)とお考えになっていた。それなりにわたしたち茶人にも尊敬してくださった。
ところが豊臣秀吉様は違う。秀吉様はすべての分野が政治権力に屈服しなければ気がすまなかった。わたしに対しても、家臣として仕えることを求めた。それはわたしにはできない。わたしは茶の世界における王者だからである」といった。
この千利休の考え方にもよくあらわれているように、織田信長と豊臣秀吉とでは人間性がまったく違う。秀吉はやはり農民の出身で天下人にまでのし上がったから、「天下人というのは最高の権力者である。政治だけでなく、芸術も支配する」という驕り高ぶった考え方を持っていた。
信長は、この時代では、「能力主義」をとりつづけた経営者だ。トップリーダーがこういう考え方をしていたから、かれのもとには有能な人間が多く集まった。信長は、「身分など関係ない。オレの天下のためにどういう力が発揮できるか、その能力本意によって評価する」と告げた。
しかしかれは、「オレは、天才は好きではない。それよりも苦労して身につけた努力による能力を高く評価する」と告げている。天才だった信長にしてはおもしろいいい方だ。しかしかれは事実、「天才よりも努力家を高く評価する」という部下の評価方法をとった。これによって、豊臣秀吉や明智光秀がのし上がってきたのである。
かれらは信長のいう、「流動者(旅人、悪くいえば放浪者)」の出身である。信長の右腕・左腕となった明智光秀や羽柴秀吉は、まさに流動者出身であった。信長にいわせれば、「このふたりは流動者出身であるだけに情報通である」ということである。明智光秀は当時の大名やその重役たち上層部にあかるく、秀吉は出身のせいか民の情報にくわしかった。信長は居ながらにして、「上と下の情報」に通じることができた。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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