⑭今回は「作家・童門冬二さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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天下人となった織田信長は、その後、
「芸術の産業化」
を自分の政策とした。すなわち、当時流行しはじめていた、
「茶道」
を軸として、経済政策に重きを置いた。つまり自ら茶道に関わりを持つ産品を珍重することによって、それをひとつの、
「日本人の価値観の転換」
に利用した。
彼が茶にまつわるいろいろな芸術品を大事にしたことが、経済政策を大きく変えていった。彼の部下大名たちも、土地を欲しがらなくなった。むしろ茶碗や茶釜や茶会の開催権を欲しがるようになった。そのため、住宅、庭、服装、食事、植樹、花卉栽培(かきさいばい:鑑賞用の植物という意味を持つ「花卉」を栽培すること)、書画骨董など諸芸術の発達など、思いもしなかった文化面に諸々の現象を生じた。
一連の彼のかもし出したこの状況を、
「安土文化」
といっている。信長の跡を継いだ秀吉も、
「桃山文化」
の実現によって、さらに絢爛豪華(けんらんごうか)たる文化状況を出現させた。
しかし、その根底では、単なる文化状況だけでなく、経済政策としても大いに経済の高度成長をもたらした。しかも、この二人の経済政策による高度成長は、内需だけであって輸出は関係ない。
したがって、こういう例は現在でも役立つ。ということは、
「ニーズは単にそのへんにころがっているだけではなく、経営者の才覚によって新しく創り出すことができる」
ということを物語るからだ。
織田信長と豊臣秀吉のすぐれているところは、
「卓抜した発想による経済政策によって、日本人の価値観を土地から文化に急展開させた」
ということだろう。
沢彦宗恩(たくげんそうおん:臨済宗妙心寺派の僧、信長の教育係)が、
「“井の口”という名を“岐阜”にお変えになり、あなたは周の王をめざすべきです」
といったのは、とりも直さず
「いま生きている人々のニーズを満たすような政治家におなりなさい」
ということだ。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
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