(誰に対しても時間は平等に与えられている)
次に私が感じたのは、「『時は金(かね)なり』という言葉の意味を知った」ということです。「時は金なり」はベンジャミン・フランクリンの言葉です。暦(こよみ)にもよく書いてありますし、ことわざにもなっていますが、この言葉の意味を悟(さと)ったのです。
一日は二十四時間しかなく、どのような人間であっても、これは変えられません。また、人間は、たいてい二万日少々しか生きられないものです。
人間は「時の女神」の下に平等です。成功する人にも、失敗する人にも、一日は二十四時間しか与えられておらず、「片方には二十四時間、もう片方には百時間が与えられる」というような不公平はありません。どのような人も、「この二十四時間を使って、成功するなり、失敗するなり、どうぞ、ご自由に生きてください」という条件を与えられています。
もし「平等性」というものがあるならば、それは、能力や才能に関してではなく、時間に関してでしょう。「一日は二十四時間である」ということにおいては、誰に対しても完璧(かんぺき)な平等性が与えられているのです。
私は、そのことを知りました。結局、偉人(いじん)だ何だと言っても、わずか数十年の人生であり、「一日の二十四時間を、どう使ったか。そして、人生の何十年かの間(あいだ)の時間を、どう使い切ったか。これで結果が決まるのだ」ということを知ったのです。
これは、若い人にとっては一つの軽い悟りだと思いますが、今の学生にも若手のサラリーマンにも通じるものだと思います。
一日は二十四時間なのです。この二十四時間を使って、社長になることもあれば、ヒラ社員のままで終わることもあるわけです。
「その二十四時間の中身をどうするか」ということについて、神が、あの世から声を出して叫(さけ)び、メガホンを使って指示を出したりはしません。「おーい!おまえ、時間を無駄(むだ)に使っているぞ! 頑張(がんば)れ! 働け! 勉強しろ! 遊んでいる場合じゃないぞ!」などという声が人間に聞こえてきたりはしないのです。
神は人間に二十四時間をポンと与えています。ただ、神は、その時間を減らしはしません。二十四時間を、十二時間にしたり、五時間にしたりはしないで、二十四時間を与えています。人間は、「これをどう使うかが課題だ」ということを知らなくてはいけないのです。
結局、人生は、「一日の二十四時間を、どう使い切るか」という問題の連続であり、その問題を正しく解いていくことが、人生に勝つ方法なのです。これを知らなくてはいけません。
そのためには、まず、一日の時間をコントロールし、「その一日に、自分として、どれだけプラスのものを残すか」ということが大事です。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます