㉓今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、織田信長についてお伝えします。今回のシリーズは今日で終わりです。
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また明敏な信長は、それほどまでに光秀を追いつめておれば、当然彼の窮余(きゅうよ)の反撃があるかも知れないと、警戒するであろう。
光秀に信長襲撃をそそのかしていたのは、備後の鞆(とも)の浦に亡命していた足利義昭であったかも知れない。
本能寺の変の当日、光秀は信長父子を討ちとめたのち、備中高松で羽柴勢と対峠している小早川隆景に、つぎの密書を送った。
「急度、飛檄(ひげき:檄文を急いで回すこと)をもって言上せしめ候。こんど羽柴筑前守秀吉こと、備中において乱妨(らんぼう:強奪すること)を企て候条、将軍御旗を出され、三家御対陣の由、まことに御忠烈の至り、ながく末世に伝うべく候。然らば光秀こと、近年信長に対しいきどおりを抱き、遺恨もだしがたく候。今月二日、本能寺において信長父子を誅(ちゅう)し、素懐(そかい:平素からいだいている願い)を達し候。かつは将軍御本意を遂げらるるの条、生前の大慶これに過ぐべからず候。この旨、宜しく御披露に預かるべきものなり。誠恐誠惶(せいきょせいこう:心から恐縮し畏敬すること)。
六月二日
惟任(これとう)日向守(明智光秀のこと)
小早川左衛門佐殿(小早川隆景のこと)」
この密書は光秀の使者が、闇夜のため羽柴の陣所を小早川の陣所とまちがえたので、秀吉の手に入ったものであるとされている。
これは後世の偽書ではないといわれるものだが、光秀の決断にあたり、裏面から義昭がはたらきかけていたのではなかろうかと、想像できる文面である。
義昭は京都の公家、町衆と常時交流を保っていた。光秀は丹波を領国としたのちにも、京都に多くの重臣をとどめ、義昭と同様に旧来の勢力と密接な関係をつづけている。
朝廷にとって、天正十年六月初めに予定されている信長の中国、四国親征の途次の上洛は、彼が中央政権を確立するための、名目的地位を表明する機会として、重視すべき時期であった。
信長はこのときに、朝廷から推された征夷大将軍任官につき、奉答する用意をしていたと考えられる。
安土へ下向した勅使に格別の返答をしなかった信長は、上洛に際し自らの意向をあきらかにしなければならない。
勅使が安土に持参した誠仁親王(さねひとしんのう)の御消息にも、「よろず御上洛の時申し候べく候」と記されており、信長には奉答の必要があった。
彼がいかなる名目を欲していたかは知るすべもないが、天下を体現する自らの地位をどのように位置づけるかの、重大な意志表示である。
朝廷は、彼の返答がどのようなものかと、危惧(きぐ)の念を抱きつつ待っていたにちがいない。
信長はすでに、暦統一の件で朝廷を凌(しの)ぐ権力をめざそうとする意向をあらわしていた。
朝廷と、京都の永遠の繁栄を期待する町衆にとって、信長は不要であるのみか、危険な存在となっていた。
公家と町衆には、先祖代々幾多の戦乱に堪えぬき、京都で生きてきたながい伝統がある。
「信長は、四国、中国を平らげたのちは、城を安土から大坂へ移しょりますやろ」
「その先は、どこへいきよるやろか。しまいには唐、天竺へ城を持ちよるやら分らん」
彼らはひそかに、このような言葉をかわし、信長を危険人物と見るようになっていたであろう。
「いまのうちに、信長を退治するのが上分別というものどす」
「どうやって退治するのやろ」
「日向守はんをけしかけるのや。そうおしやす」
彼らは自分では動かない。
義昭のような人物を語らい、光秀をそそのかさせるのである。
光秀はこののち衰運に向うであろう立場にいる。彼が思いきって叛逆(はんぎゃく)し、信長を倒せば、朝廷、京都町衆はもとより、寺社勢力、信長に淘汰され、あるいは人材登用の恩恵に浴さず閑却(かんきゃく:なおざりにすること)されている地侍勢力が、こぞって味方につくとささやきかけるのがよい。
(『下天は夢か 1~4』作家・津本陽より抜粋)
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