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物事には必ず第二幕、第三幕がある

2021年07月24日 | 政治・経済
明治維新は、西欧近代の圧倒的な力(帝国主義)に遭遇した日本が、それに抗して自らの独立のために行った「改革」である。では、平成に入ってからの「改革」とはいかなるものだったか。

私は、その善し悪しをここで結論づけることはしない。物事には必ず第二幕、第三幕があるはずで、「小泉劇場」と呼ばれた5年間だけを抜き書きしても、芝居にたとえればただの第一幕であって、日本人にとっては途中経過にすぎないからである。

そうした思考のできる人を日本では“大人”という。そこまで考えない人は子供であるか、ある種の原理主義者である。日本にその二種類の人がいることは悪くないことで、日本人は多角的思考と直線的思考の二つを併行して考える力を持っている。

身近な例を挙げよう。たとえば医療ミスがおきた場合、それを咎(とが)める一方、そのとき医師が置かれていた状況を考えようとする。相手の身になって考えるのが日本人である。悪意の存在を前提に他人と付き合うことがない。

そして物事には100%の成功も100%の失敗もないと思っているから、よほどひどい過怠(かたい)や悪意でもないかぎり、日本人同士のトラブルは決定的な破綻や対立にまでいかない。一方的に追及して完全勝利を収めるより、“水に流す”という和解が可能な社会をつくるように努力する。

こうした日本人のメンタリティを「世界に通用しない」としてアメリカのような対立社会や訴訟社会に向けて進めようとするのは愚の骨頂である。アメリカでは医療ミスが厳しく糾弾されるのに日本社会では曖昧だと非難する人がいるが、彼らの糾弾がフェアであるかどうかには疑問がある。

アメリカには、フェアであるかどうかは手続きにあると考えて、ことさらに対立を煽り、衝突を仕向けて巨額の謝金を稼ぐ悪徳弁護士が存在する。それはさすがにアメリカ社会でも問題視されるようになり、いまや弁護士は、人のトラブルに付け込む卑しい職業のように見られはじめた。いい加減、このへんで第二幕を考える必要がある。

司法制度改革で、仮に日本が訴訟乱発社会になったとき、喜ぶのは誰であろうか。訴訟社会をつくったアメリカでは第二幕が始まっている。それは、ルールや加入資格を決めた会員制の各種サークルをつくることだった。

会員制の病院が現れたり、医者が弁護士の家族は診察も治療もしないようになったりしたのが始まりである。閉鎖されたサークルのなかだけにしか安寧(あんねい)がないとしたら、アメリカは分断された集団が並立しているだけで、とても共同体とは呼べない社会になりつつある。

---owari---
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