このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

敵対者同士の衝突がつくる新しい社会秩序

2021年07月25日 | 政治・経済
近年の日本におけるグローバリズムとは、結局アメリカといかに付き合うかということだった。私的な交際の経験からも、私はアメリカ人のモノの考え方には、第一幕しかないのではないかと思えるときがある。

たとえば、「テロとは断固戦う」といってブッシュ大統領はイラクに戦争を仕掛けたが、彼は第一幕だけしか考えていなかったのではないか。第二幕、第三幕があるとは考え得なかった。第二幕は双方の譲歩と和解の上に築かれると考えるのが大人であって、これを日本的にいえば「暗黙知」となる。

相手を永遠の敵と考えて、第一幕の勝利に双方が全力投球するシステムをアメリカ人は「アドヴァーサリー・システム」(adversary system)と称して“自慢”している。これを日本語に訳せば「敵対者同士の衝突がつくる新しい社会秩序」だが、敵対と訳したのはほとんど語訳で、何事も右と左、東と西、源氏と平家に分けて、互いに十分主張させるという意味である。

原告と被告、検事と弁護士、警察と市民、議会と大統領、州政府と連邦政府、生産者と消費者、男と女・・・・・といった二項対立を既定して、対立の結果を新しい結論として認める社会である。

このシステムには最終決定者が必要で、たとえば裁判所や大統領や市場がそれである。それから双方に「対抗力」がなければいけない。国民は大統領を選挙で選び、消費者はメーカーを市場で選ぶ。患者は医者を評判で選ぶ。そうした対抗力を保証するために、「情報公開」と「言論の自由」が社会成立の根本条件とされる。

「独占」や国家による「免許制度」や「補助金行政」は、アドヴァーサリー・システムを破壊する悪行となる。そのほか土俵の上の戦いをフェアなものにするために、アメリカ人は苦心惨憺(さんたん)している。これは、お互いに気心が知れない移民を寄せ集めながら新しい国家をつくる苦労である。

その点、日本では歴史と伝統があり、教育が普及しているので、第二幕のあることが誰にでも読める。それを考えて人々はほどほどに主張し、ほどほどの条件で万事落着とする。共同体の存在が暗黙の前提である。それが経済的にも精神的にも一番コストが安いと心得ている。

---owari---
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 物事には必ず第二幕、第三幕... | トップ | 活字メディアは社会にとって... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

政治・経済」カテゴリの最新記事