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国際社会で自分自身を語れますか?(後編:父祖からの贈り物)

2023年03月12日 | 日本
今日も「国際派日本人養成講座」(編集長・伊勢雅臣さん)からお伝えします。
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(など なみかぜのたちさわぐらむ)
明治33(1900)年、ロシアは満洲に侵入し、5、6千人の清国民間人を虐殺する、世に言う「黒竜江上の悲劇」を起こします。明治36年には、韓国の鴨緑江河口を軍事占領し、要塞工事を始めました。朝鮮半島までロシアの勢力圏にされたら、日本の安全と独立は重大な危機に瀕します。現在の北朝鮮のような国が九州の目と鼻の先の釜山まで進出してきたと想像したら、その脅威は現代の我々にも容易に実感できます。

日本は清韓両国の独立と領土保全を要求して対露交渉を試みますが、ロシアは我が国の最終提案に回答せずに、急ピッチで戦争準備を進めたため、ついに明治37年2月6日、国交断絶を通告し、開戦となりました。

この時に、明治天皇は次の御製(ぎょせい)を残されています。

四海兄弟
よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ

日本を取りまく四方の海はみな兄弟同胞だと思っているのに、どうして波風が立ち騒ぐのであろうか。「など」という一語に、国家間の平和と友好を祈念されながらも、戦いのやむことのない国際社会の現実を悲しく思し召されている御心が窺(うかが)われます。

大東亜戦争開戦の際には、昭和天皇が再びこの御製を示されました。近代世界システムの荒海に投げ出された日本の宿命はこの一首に象徴されています。

(諸民族独立への希望)
日露戦争での勝利により、我が国はかろうじて独立を護ることが出来ましたが、それは同時に近代世界システムに虐(しいた)げられていた世界の諸民族に希望を与えました。

・フィンランド大統領パーシキピ
私の学生時代、日本がロシアの艦隊を攻撃したという最初のニュースが到着した時、友人が私の部屋に飛び込んできた。彼はすばらしいニュースを持ってきたのだ。彼は身ぶり手ぶりをもってロシア艦隊がどのように攻撃されたかを熱狂的に話して聞かせた。フィンランド国民は満足し、また胸をときめかして、戦のなりゆきを追い、そして多くのことを期待した。

・中国の国父・孫文
どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの奴隷にならなければならないと考えたのです。(中略)ところが、日本人がロシア人に勝ったのです。ヨーロッパに対してアジア民族が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてでした。この戦争の影響がすぐ全アジアにつたわりますとアジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります。

「期待した」「希望を抱いた」という言葉が注目されます。それは民族独立への期待、希望です。日露戦争を契機に、近代世界システムから諸民族独立へと、世界の潮流は大きく転換したのです。

(朝鮮、台湾に及んだ近代化のエネルギー)
ちなみに日本は朝鮮と台湾を植民地化した、という人がいますが、これは正確な言い方ではありません。もちろん、当時も植民地と思い違いをして、差別をしたり、搾取をした日本人もいたでしょう。しかし、政治面、経済面を見れば、イギリスのインド支配や、オランダのインドネシア支配とは、本質的な違いがありました。

正式な条約によって成立した朝鮮併合では、朝鮮国王は皇族に列し、貴族院議員も7人任命されました。スコットランドがイングランドと合併して連合王国となったのと同様です。また台湾は日清戦争の結果、日本に割譲されましたが、これはアメリカがメキシコとの戦争に勝って、カリフォルニア等の西部諸州を新領土としたのと同じです。スコットランドやカルフォルニアを植民地だと言う人はいません。

日本は、朝鮮や台湾を新付の領土として大切にしました。四国には大学がありませんでしたが、台湾、朝鮮には帝国大学を作りました。もう少し時間があれば、先行する北海道、沖縄、樺太の後を追って、衆議院議員総選挙も実施された筈です。

朝鮮は日本統治時代に人口が3倍にもなる経済躍進を遂げました。台湾にも東洋一のダムや港湾が作られ、世界有数の製糖産業が育ちました。独立維持のためには、社会、経済の近代化が不可欠であり、我が国の明治以来の近代化のエネルギーが、朝鮮、台湾に及んだのです。

(人種平等への旗手)
第一次大戦が終わると、日本は世界の五大国の一つと言われるまでになりました。しかし実態はどうであったか。

虐待をこうむっている有色人種のなかでただ一国だけが発言に耳を傾けさせるに十分な実力を持っている。すなわち日本である。日本は唯一の非白人一等国である。人種以外のすべての点で日本は世界の支配的大国と肩を並べている。しかし、日本がいかに軍事力で強大になろうとも、白人は日本を対等とは認めることはしないだろう。

植民地支配とともに、近代世界システムのもう一つの柱となっていたのが人種差別です。我が国は五大国の一つとして、「名誉白人」の地位に甘んずる事なく、人種平等への旗手として立ち上がったのです。その象徴的事件が、国際連盟設立の際に、人種平等条項を連盟規約として入れようという日本政府の提案でした。

我全権が最も注意と努力を要するものを問はば、(中略)人種的均等待遇に在ると答ふるならん。(中略)蓋(けだ)し国際平和を害し、四海兄弟主義を打破する重大なる要素は、人種の不均等待遇若しくは人種的軋轢たり。(中略)世界人口十四億五千万中九億即ち六割二分を占める有色人種の為めにも(中略)真実なる実現を期せず可からず。[朝日新聞]

こうした日本国内の世論に後押しされて、当代の指導的政治家、元首相・西園寺公望公爵に率いられた全権団は、アメリカ経由でパリに向かいます。ニューヨークでは黒人社会の指導者達から、「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、との嘆願書を渡されました。自国のウィルソン大統領が講和会議の議長役をするというのに、それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に嘆願したのです。

(米国黒人の怒り)
全米1200万の黒人が息を飲んで、会議の成り行きを見守っている。

われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で「人種問題」について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。

当時の黒人紙での報道です。しかし米国黒人の悲願は、自国のウィルソン大統領によって裏切られます。日本案は16票中11票の圧倒的賛成を得ましたが、議長のウィルソンは、全会一致の賛成が得られなかったので採択されない、と宣言して、参加者を驚かせました。

それまでの二回の票決は全会一致の規則は適用されていなかったのに、とフランスの代表団は抗議を行いましたが、「われわれの一部にとってはあまりにも障害があるので、規約にそれを挿入する事はできない」として、ウィルソンは聞き入れませんでした。

米国が黒人に平等な市民権を与えたのが、この40年も後の事ですから、この時点ではアメリカの世論も議会も人種平等の原則を受け入れる余地はありませんでした。怒ったアメリカの黒人達は全米各地で大規模な暴動を起こし、またインドネシア、インド、エジプト、チュニジアなど世界各地における独立運動が活発になりました。

また黒人と同様、ユダヤ人も当時の国際的な差別の対象でした。人種平等を国是とする日本政府は、ユダヤ人を平等に扱う事を方針として定め、ナチスドイツが極端なユダヤ人排斥を始め、周囲の国も難民を厄介者扱いした時に、その方針に基づいて、リトアニアの日本領事代理・杉原千畝は日本通過ビザを発行して数千人のユダヤ人を救い、満洲の特務機関長・樋口季一郎少将はソ連から脱出しようとして満洲国境で吹雪に閉じこめられた二万人のユダヤ人を救出しました。これらの行為は戦後、イスラエル政府からも顕彰されています。

(身を殺して仁をなした日本)
白人が自発的に有色人種を対等の者として受け入れることは決してないのだから、人種的劣等という憎むべき汚名を除去するためには力によるほかはない。(中略)潜在的な世界的混乱が予想されるし、やがて欧米世界に重大な結果を招来するおそれがある。

日本の人種平等条項提案が失敗した時に、オーストラリアの高官がこう警告しました。この予言は大東亜戦争として実現します。後にタイの首相となったククリット・プラモード氏は「十二月八日」と題する文章の中で次のように書いています。

日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったがためである。十二月八日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して、重大な決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。

(インドネシア独立に命を捧げた日本の青年達)
我が国が示した「重大な思想」とは、民族独立への理想です。大東亜戦争は、アメリカに追いつめられた日本が自存自衛のために立ち上がった戦いですが、その過程で、アジア各地の独立勢力との協力が広範囲になされました。その一例として、敗戦後も二千人余人もの日本軍将兵が現地に残ってインドネシア独立軍とともに、再び植民地化をめざすオランダ軍と戦った事実を挙げておきましょう。

スカルノ大統領特使として、平成七年五月二十九日の「アジア共生の祭典」に参加されたサイデマン外務省上級大使はこう述べています。

第二次大戦中、あるいはその直後、植民地の独立のために、外国の人々が力を貸してくれるということが見られました。私の国インドネシアの場合、多くの日本の青年たちがインドネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦ってくれました。そして多くの日本の青年がそのために命を捧げてくれました。今日このアジア共生の祭典において、私たちの独立のために命を捧げてくれたこれらすべての若者たちを偲びたいと思います。

(父祖からの贈り物)
近代世界システムの荒波をかぶりつつ、必死に独立を護ってきた日本の歩みは、好むと好まざるとに関わらず、世界の非白人諸民族に独立への希望を与える役割を担う運命にありました。あるいは東南アジアの華僑のように、欧米の植民地支配機構の手先となって安逸(あんいつ)を貪(むさぼ)るという道もありましたが、我々の父祖はそのような選択をしませんでした。先に引用した「四海兄弟」の明治天皇御製に見られる、世界の諸民族が平等に仲良くしていかなければならないという理想が根強く日本人の心の中にあったからです。

その理想はどこから来たのか、実は我が国はこの理想に基づいて建国されたのです。

日本書紀には建国の詔が記されていますが、その中で神武天皇は「恭みて寶位(たかみくら)に臨みて、元元(おおみたから)を鎮むべし(謹んで皇位につき、大御宝、すなわち人民が安寧に暮らせるようにしよう)」と即位の抱負を述べられ、さらに「六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめにした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと、亦可からずや」(国家をまとめて、都を作り、天地四方の人々が大きな一つ屋根の下で仲良く暮らせるようにすることは、素晴らしい事ではないか)」と語られています。

人民を大御宝とし、その安寧を国家の目的とするとは、現在の福祉や人権思想をも先取りした理想です。さらに「一つ屋根」のもとで、諸民族が仲良く暮らすというビジョンは、現在の国際社会がいまだに実現しえないでいる世界平和の理想を描いています。三千年近くも前に皇室がこのような現代社会でもいまだに実現できていない気高い理想を掲げて我が国を肇(はじ)められた事は、まことに驚くべきことです。

(自分自身をどう語るか?)
この理想は江戸時代には日本国内において相当部分実現されていたのですが、明治維新と共に漕ぎだした国際社会の荒海は、この理想と相容れない近代世界システムが支配していました。その植民地主義と人種差別とは、「大御宝」と「一つ屋根」という我が国の建国以来の理想とは本質的に相容れないものだったのです。我が国固有の理想を護ろうとすれば、近代世界システムとの衝突は避けられなかったと言えます。

そこに我が国近代の悲しい宿命があったわけですが、我々の父祖はその宿命に立ち向かい、大きな犠牲を払いつつも、世界の潮流を転換させる上で指導的な役割を果たしてきたのです。

フィンランド人を「スターリンのソ連とヒットラーのドイツに挟まれて、独立を維持した小さいながらも偉大な国民」と言うなら、我が国は「『大御宝』と『一つ屋根』の理想を掲げて、近代世界システムの植民地主義と人種差別主義に戦いを挑んできた国民である」と自分自身を語るべきでしょう。

そしてこうした父祖の足跡を我々が自分自身のものとして引き受ければ、現在の国際社会においても、取り組むべき課題がたくさんあることに気がつくはずです。真の国際貢献とは、まず我々自身が父祖から受け継いだ贈り物の真価を発見する所から始めるべきです。

---owari---
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