日本の森林率は先進国トップのフィンランドにやや劣るだけだが、人口密度は20倍。この現代世界の奇跡はどのように生まれたのか?
(美しき「緑の列島」の奇跡)
海外から帰国する際に、機窓から青い海に囲まれた海岸が、緑に覆われた様を見ると、母国に帰ってきた、とホッとする。こういう光景は、あまり外国では見られないからだ。同じ感想を日本の森林に関する歴史を書いたコンラッド・タットマン・元エール大学教授は次のように書いている。
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外国人旅行者が日本を訪れてまず目を見張るのは、列島の端から端までつながって空に突き出る山並みが、青々とした森林にくまなく覆われていることである。日本人もその豊かな緑を意識して自分の国のことを「緑の列島」と呼ぶことがある。
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日本列島の緑の豊かさは、森林率にも歴然と現れている。68.5%という数字は、先進国ではフィンランド(73.1%)、スウェーデン(68.9%)に次ぐ世界第三位である。しかも、日本はフィンランドと同じくらいの国土面積に、20倍ほどの人口を抱えていることを考えれば、この数値はほとんど奇跡である。
タットマンは、この「奇跡」を次のように描写する。
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古今東西の歴史を一瞥(いちべつ:ちらっと見ること)すると、日本よりも人口密度が低く、より温和な自然条件に恵まれていながら、国土を荒廃させた社会がいくつもある。北西ヨ-ロッパのヒースと沼沢地にそれを見ることができるし、地中海地方にも荒廃した沿岸が広がっている。朝鮮半島の中南部や中国の山々はすっかり収奪された。アフリカのサヘル地域(サハラ砂漠南縁部)は今や死に瀕している。
さらにまたラテンアメリカや東南アジアでは明日への配慮を欠いたまま森林が剥ぎ取られ災害が頻発するようになった。
地理的条件と歴史との特異な相互作用を考えれば、日本の国土が荒廃しなかったのが不思議なくらいだ。
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氏は、この「不思議」の理由に関して、次のように述べる。
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この豊かな緑は単なる自然の恵みでもなければ、また日本人の特別な美的感覚を示すものでもない。この列島が一つの大きな保護林のように守られてきた背景には、何世代にもわたる人びとの大変な努力が隠されている。
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(70年前の日本列島は「はげ山」状態だった)
現在の国土を覆う豊かな緑は、実はこの70年ほどで造られたものだ。1950年頃の全国各地の写真を見ると、山には木は無く、ほとんどはげ山状態だ。江戸時代の様子を、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」で見ても、鬱蒼(うっそう)とした豊かな森はまったく描かれていない。
「かつての里山は豊かな森が広がり、人々はその恵みを受けて暮らしていた」と信じている人が多いが、森林環境学を専門とする太田猛彦・東京大学名誉教授は、こう語る。
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かつての里山は「はげ山」か、ほとんどはげ山同様の痩せた森林-灌木がほとんどで、高木ではマツのみが目立つ-が一般的であった。少なくとも江戸時代中期から昭利時代前期にかけて、私たちの祖先は鬱蒼(うっそう)とした森をほとんど目にすることなく暮らしていたのである。
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我が国土は、かつての「はげ山」状態から、わずか70年ほどで、現在のような「緑の列島」に変貌を遂げたのである。この変貌がなければ、日本列島も、タットマンの言う世界各地の「荒廃した国土」になっていた可能性が高い。
こういう奇跡的な変貌がどのように生み出されたのか。まずは日本人が森林とどう共生してきたのか、歴史的に見てみよう。
(古代の建築熱で消滅した畿内盆地の山林)
縄文時代には、豊かな森林で採れる木の実や果物、小動物が、重要な食料だった。人間は、森の恵みをいただきながら、自然に生かされていた。日本列島の人口は約5~4千年前の縄文中期の最も多い時でも、26万人程度だったと推定されている。
樹木は住居や丸木舟を造ったり、煮炊きをしたり、土器を焼いたりするための燃料として使われたが、大規模に森林を切り拓くようになったのは、水田耕作が広まった弥生時代からである。
飛鳥時代(592年~)以降は、奈良や平安京とその周辺に寺院、神社、宮殿などが建設され、それを取り囲んで庶民の家が10万戸の規模で造られた。平安初期の西暦800年頃の人口は600万人ほどと推定されている。
古代には、遷都が頻繁に行われたが、その一因として十分な木材が近くにあるかどうかが、立地選択をある程度、左右していたようだ。たとえば、孝徳天皇の頃の都とされていた難波は、旧大和川や淀川を経由して木材を簡単に手に入れることができた。また、天智天皇が667年に遷都した琵琶湖畔の大津も、木の豊富な近江西部の森林に近かった。
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この建築熱が社会と生態系にもたらした結末は深刻だった。畿内盆地に隣接した山地にあってアクセスできる原生の高齢林はすべて伐られてしまった。[タットマン]
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(全国的な森林喪失と「治山治水」思想)
14~15世紀の室町時代から18世紀の江戸時代中期までの4、5百年間に、人口は3千万人台に到達した。これを支えたのが、土地の開墾による農地の拡大である。その分だけ、森林が減った。什器や道具類、家屋、門、塀、橋、灌概施設などを造るために、木材が消費された。さらに冶金、製陶、製塩などでも木材が燃料として使われた。
戦国時代には、安土城や大坂城など、多くの巨大な城の建設に大量の木材が使われた。また平和な江戸時代に入ると、各地で城下町、邸宅・家屋、社寺の建築が広範囲に進められた。そのため、江戸時代中期までに、九州から東北にかけて森林消失が広がった。
この結果、全国的に木材の窮乏と価格高騰が進んだ。さらに山地での乱伐で、洪水の氾濫や山崩れなどの自然災害が多発した。その対策として、17世紀後半からは幕府や各藩によって、山林の伐採禁止などの処置がとられるようになった。
同時に、当時の儒者などから「治山治水」の思想が唱えられるようになった。代表的なのは岡山藩の熊沢蕃山(ばんざん)で、下流河川での災害は上流山地での森林の荒廃によるものであり、治水の根本は上流での森林保護にあるとした。
「治山治水」は経世済民の思想として全国に広まり、現代の日本人がこぞって「木は伐ってはいけないものだ。木をもっと植えなければならない」と考えているように、日本人の伝統的な考え方の一つとなった。[太田猛彦]
こうした状況の中で、ドイツとほぼ同時期に世界で最初の人工林が造られるようになった。特に現在でも各地に残る海岸の松林は、「白砂青松」として日本人の美意識を形成しているが、そのほとんどは、この時期に造成されたものだという。
(一進一退の治山治水事業)
しかし、こうした植林努力は一定の成果を上げつつも、森林の回復には至らなかった。明治時代に入ると、工業化の進展、医学の発達などにより、再び人口が増加し始める。住宅の建築材の需要が増大し、産業用燃料はまだ薪炭に依存するところが大きかったため、森林の伐採が進んだ。
明治27(1894)年の国土利用状況の調査結果を見ると、森林が55%だが、そのうち樹木で覆われているのは30%程度、残りははげ山ということで、実質的な森林率は17%程度。すなわち現在の4分の1程度の水準である。
明治政府は森林に防災機能を持たせる「保安林制度」などを始めていたが、明治43(1910)年の大洪水の発生を機に、翌年から第一期治水治山事業が始められた。これにより17世紀以降、荒廃を続けていた森林は、ようやく回復基調に入った。
しかし、大東亜戦争により国土の荒廃がまた進んだ。戦後日本で復興に使える自前の資源は木材しかなかったので、国策として引揚者を大量に受け入れ、奥山の天然林の伐採を促進した。
このような森林破壊により、昭和22(1947)年のキャスリーン台風から昭和34(1959)年の伊勢湾台風まで、毎年のように大規模洪水や土砂災害が続いた。
(高度成長と並行して進められた国土保全事業)
こうした災害を防ぐために治山治水緊急措置法(1960年)などが定められ、河川事業も含めて、その後の国土保全政策の基本方針とされた。おりしも高度経済成長に入り、木材需要がいっそう伸びた。それに対応すべく、林道を敷設して奥地林を大規模に伐採した後で、ヒノキ、カラマツなどを一斉に植える「拡大造林」政策がとられた。これが今日の花粉症の原因となったのだが。
さらにこの時期は、科学技術が発達して、山腹工事における緑化工技術(木と草によって早期・確実に、面的・立体的緑化を行い、環境・土地および景観の保全を図る工法)、海岸林造成技術などが登場して、効率的な植林作業が進んだ。
同時に高度成長に伴う国家予算の伸びによって、大規模な対策実施が可能となった。太田教授は、高度経済成長時に勧められた国土保全事業に関して、次のように語っている。
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つまり、国土保全事業は一方で道路や鉄道の建設、住宅団地建設などの開発事業と競合しながら、そしてみずからも開発事業の一部を担いながら、荒廃した国土の回復に努めたのである。
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国土保全事業の成果は、土砂災害犠牲者数の大幅な減少に見ることができる。かつては昭和42(1967)年、47(1972)年など、多い年には400人以上の犠牲者が出ていたのに対し、昭和57(1982)年には300人超、平成5(1993)年には200人弱と減少を続け、以後100人以上の犠牲者が出る年はなくなった。太田教授はこう結論づける。
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稲作農耕民族の日本人がその国士で生き抜くうえで、必然の結果であったと思われる山地・森林の荒廃、それによって引き起こされた土砂災害や洪水氾濫が、少なくとも三百年を経てここに克服されたと断言してもよい。治山・治水事業はここに新しい局面に入ったのである。
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先人たちの三百年の苦闘を経て、ようやく日本列島は巨大な人口を支えつつも、森林を回復しうる軌道を見つけたのである。
(国民生活から切り離された森林)
しかし、60年代以降の変化は、二つの海外からの援軍によるところが大きい。
第一は、日本経済のエネルギー源が、薪炭から石油・天然ガスに変わり、森林への依存が大きく減ったことである。これにより、今まで薪炭を供給していた里山が不要になってしまった。
第二の変化は、安い外国産の木材の輸入である。拡大造林政策は木材の供給を増やしたが、それでも高度成長期の木材需要には十分ではなかった。その不足を埋めたのが輸入木材だった。昭和39(1964)年には輸入の完全自由化が達成され、東南アジア、欧州や北米産の安価な外材が使われ始めた。
価格の高い国産材はじりじりとシェアを落とし、60年代前半には6千万立米もあった木材生産量は、現在は3分の1にも満たず、9割を超えていた木材自給率も2割前後まで落ち込んだ。
この二つの変化によって、日本の森林は国民生活とは大きく切り離されてしまった。ドイツ、フィンランド、スウェーデンなどの欧州林業国では、年間の樹木の成長量の60~90%を伐採して使用しているのに対し、日本はわずか25%である。
人工林にも間伐の手が入らず、光が十分に差し込まないために、木は光を求めて、上へ上へと伸びて、痩せ細った丈の高いだけの木になってしまう。それでは台風や豪雨に弱くなってしまう。
今日の日本が「緑の列島」になったのは、60年代までは我々の先人たちの苦闘が実を結びつつあったのだが、それ以降、現代の我々は無為無策のままで、ただ海外からの援軍に頼ったのである。
(「緑の列島」は造花?)
しかし、この二つの援軍は、両方とも我が国と世界の持続可能性から考えれば、頼り続けるべきものではない。まず石油や天然ガスのような地下鉱物資源を採掘・消費する事は、外国の自然を破壊する行為である。しかも、その輸入には長距離の輸送で厖大なエネルギーを消費している。
外国材輸入も、東南アジアの熱帯雨林か、欧米の針葉樹林を収奪する。海外からは、日本は自国の森林を温存しつつ、海外の森林資源を収奪する「環境テロリスト」ではないかとまで勘ぐられている。
他国の自然を収奪しているだけではない。輸入エネルギー、輸入木材に頼っているという事で、我が国の国民生活は大きなリスクを抱えている。戦争、天災、疫病など、何らかの理由で輸入がストップしたら、国民生活は大打撃を受ける。
現在の「緑の列島」は先人たちの3世紀の苦闘で育てた土壌の上に、近年の海外依存という造花を飾ったものなのだ。それを本物の「緑の列島」にするためにも、現代の我々が先人の苦闘を引き継いでいく必要がある。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
---owari---
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