春日局は本名を「お福」といい、徳川三代将軍・家光の乳母です。封建社会の女性としては例をみない大出世を遂げた人物で、春日局とは朝廷から賜った称号です。
51歳の時に上洛して後水尾天皇に拝謁、「お福」は、このとき、侍臣を通して、「生まれはどこか」と聞かれた。お福は、「春日という土地でございます」と答えた。そこで天皇は、「今日から春日局と名のるがよい」といわれ、本名よりも彼女を有名にした「春日局」という名を、後水尾天皇から与えられたのです。寛永6年(1629年)10月のことであった。
お福の出身地は美濃(現・岐阜県)で、明智光秀の重臣、斎藤利三の娘である。斎藤家は武家の名門であり、ある日までは姫として過ごします。そのある日とは、お福が4歳の時に起きた戦国最大のミステリーとも言われる「本能寺の変」です。
本能寺の変において父・利三は明智軍の主力部隊を率いて織田信長を襲撃。ところが、山崎の合戦で光秀が秀吉軍に敗北するや、利光も捕らえられ処刑されてしまう。
お福は反逆者の娘として、肩身の狭い少女時代を過ごすこととなった。成長するや母の縁によって戦国大名、稲葉重通の養女となり、その子の正成と結婚。三子を生むが、浮気な正成との結婚生活は必ずしも幸福とは言えなかった。
1604年、そんな失意の日々を送っていたお福に一大転機が訪れた。将軍家が京都で乳母を募集していたのだ。お福はさっそく応募し、20人の中からただ1人、お上の審査において合格。江戸に下向して家光の乳母となったのです。
当時の身分高き女性たちは、自ら子育てをするような事はありませんでした。理由のひとつには、体力勝負の子育てはふさわしくないということが挙げられています。そのため、家光も例外なく乳母に養育されたのです。
ちなみに当時の乳母とは、世の女性たちの憧れの職業でした。ましてや家康の孫・家光の乳母であるならば今でいえば超エリート官僚といったポジションなのです。乳母の仕事は単に母乳をあげるだけではなく、教育方針まで幅広い分野で権限を持つことがありました。
お福は夫・稲葉正成との婚姻関係を維持したまま徳川家に奉公にあがりました。当初、乳母としての勤めは数年程度という予定でしたが、家康にその力量を認められたことなどから長期に渡り乳母として江戸に留まることになり、次第に将軍家の世継を育てることに大きな使命感を抱くようになったのです。
乳母となったお福は、今度こそ幸せを掴みかけたと思ったのは束の間、三代将軍を巡る争いに奔走することとなったのです。
家光(幼名・竹千代)には、弟の忠長(幼名・国松)がいました。家光が病弱で内気な性格であるのに対し、弟の忠長は丈夫で積極的な性格です。この事から、次なる三代将軍は忠長という声が江戸城内あちこちで聞こえるようになりました。
お福はこれを黙って聞くわけにはいきません。お福は誰もが驚く大胆な行動に出ます。
お伊勢参りと見せかけて駿府城(静岡)の家康まで、次期将軍は家光にと直接交渉に出向いたのです。こうしてお福は、次期将軍は家光である事のお墨付きを家康からもらい、ようやく安堵したのです。
家光は、生まれつき体が弱く性格も内向的でしたが、お福のアイディアから生まれた栄養満点の七色飯(なないろめし)によってめきめきと体力をつけ将軍への道を歩みはじめたのです。
また、家光が病の際は、自分は一生涯に渡り、薬を飲まない事を誓い、家光の快復を祈願したエピソードは有名であり、命を掛けて家光を守った事は実の親子以上の愛情をも感じるのです。
時が経ち家光が将軍として活躍する傍ら、今度のお福は徳川将軍家の血を絶やさぬように家光好みの女性探しに力を注ぎます。これがあの「江戸城大奥」であり、徳川の血筋を守るための一大組織を築き上げたのでした。
もうこの頃のお福(春日局)の勢いは止まりません。
実の息子である稲葉正勝は家光の家来になり、夫の稲葉正成は大名に取りたててもらっています。
彼女は、自分の息のかかった家光の側近群を育てあげたのでした。
後に、いちばん若手の老中になる堀田正盛という側近がいるが、これは夫・稲葉正成の前妻が生んだ娘の亭主です。しかし、春日局はこの人も江戸城に引きこんで、しかも自分の養子にしている。そのため正盛の出世はフルスピードで、高いポストをきわめていったのです。
こういうところを見ると、春日局の処世術もなかなか達者です。彼女は、大奥というところに特別な女性の権成社会を確立したが、それだけではなかった。政治の表舞台のほうにも自分の意のままになるような若者を次々と送りこんだのです。
また、この頃に朝廷から春日局の称号と従二位(じゅにい)という位の高い立場の人が貰える位まで手に入れたのです。
ところで東京都文京区に春日という地名がありますが、ここは春日局に由来しています。この地は将軍家光より拝領した土地で、春日局のお墓があります。今では文京区春日1丁目にある礫川公園に春日局の銅像が立っています。エリート官僚の中でも大出世した春日局は歴史に名を残しただけでなく、地図にも名前を残したのです。
春日局は家光いちずに生きてきたとはいえ、彼女は家光一人だけを念頭においているのではない。彼女が考えているのは、「徳川家の長続き」である。
徳川将軍家は徳川家の子孫で代々継がれなければならない。そして、その権威に対して、京都朝廷が再びカを増して、かつてのような強い存在になることは認められない。なんとしてもそれを食いとめなければならない。それが、女ながらに春日局の考えたことではなかったでしょうか。
武家の名門の姫として生まれながら、一転して逆臣の娘となった少女時代、その不幸な半生を苦労ながらに生き切ったからこそ、名将軍・家光を育て、徳川三百年の礎を築くことができたのではないでしょうか。
戦国最大のミステリー事件に翻弄されながらも、波乱万丈の人生を生き切った稀代の才女ではなかったでしょうか。
---owari---
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