繰り返すが、日本には力がある。日本人は、訪れる国難のレベルに応じて自らを決せられる力、ポテンシャルを持っている。
だが、誰であれ指導者たらんとするならば、その力を活かす外交術を歴史に学ぶ必要がある。大東亜戦争時の指導者に最も欠けていたのがそのセンス、柔軟な感覚だった。
たとえば、1941(昭和16)年12月10日、日本海軍航空隊は、イギリスが誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスをマレーシア沖であっという間に撃沈した。時の首相チャーチルは、「日本人は不思議である。交渉ということを知らないらしい。交渉の最初はどこの国でも少しは掛け値をいうものだが、日本人は反論せずに微笑をもってそれをのんでくれる。そこでもう少し要求をエスカレートさせてみると、また微笑をもってのんでくれる。しかし、それを続けると、あるとき突然顔を上げたその顔は別人のようになっている。刺し違えて死ぬとばかりに攻撃してくる」と述懐(じゅっかい)した。
「それほどに苦しいのなら思いつめる前にいってくれればよかった。そうすればイギリスだって戦艦とシンガポールを失わずに済んだ」というチャーチルの後悔の言葉である。国家と国家が親善と戦争のあいだを「交渉」によって揺れ動くのは、政治家にとってはゲームの楽しみなのに、日本人には両極端しかないのか、という驚きの念がそこにはある。
日本ではチャーチルの人気が高いが、第一次世界大戦も第二次世界大戦もチャーチルの野心、そのゲーム感覚ゆえに起きたという見方があることを日本人は知っておいたほうがよい。
そもそもチャーチルがドイツを“挑発”したことが、ウィルヘルム二世にイギリスに対抗するための軍艦建造を決意させた。すると海軍大臣だったチャーチルは、「イギリスは常にドイツよりも多くの軍艦を建造する」と大演説をし、さらに「ドイツは戦争を準備しているから、いま戦わないとイギリスは負ける」と危機感を煽(あお)った。
そのうえで、小説のような未来戦争日誌まで書いて配った。ドイツの将来の動きを予測し、それにイギリスがどう対抗すべきかを説いて戦争の機運を高めたのである。ウィルヘルム二世と会うことを勧められてもチャーチルは応じず、戦争を待ち望む者であるかのごとく常に宥和(ゆうわ)主義に反対し、ドイツに対抗していった。
第二次世界大戦も同じで、ヒトラーを稀代の悪魔に仕立てると、ヒトラーからの和平提案はすべて断り、ヒトラーと戦う英雄としての自分を演出した。第二次世界大戦が終わると、今度は「鉄のカーテン」という言葉をつくり、「次の敵はスターリンだ」と旗を振った。
だが、さすがに三回目ともなると、彼にイギリスの命運を委ねようという機運にはならなかった。チャーチルのすごいところは、戦争指導者は“正義の戦い”の演出にも勝たなければならない、ということを理解し、それに勝利し続けたことである。それに欠けていた日本は、戦争に負けたうえに正義の演出でも惨敗した。
その結果、日本が教訓としたことは「国際的な孤立はいけない」「友好親善に努めなければならない」であった。国際親善に失敗すれば、たちまち孤立し、孤立すればいじめがやってきて、いじめに反発すれば直ちに国際紛争に発展し、武力を放棄して平和国家としての道を歩むことを決めた日本はそれに耐えられない。
だから国際親善を第一として周囲との摩擦回避に努め、相手の要求はのむことにする。「譲歩こそが日本の生きる道」となった。さらに経済大国となったことで、「お金で済むことなら」という“余裕”が、逆に日本の主張は無視しても構わないと他国に思わせる結果を招いた。
たしかに、「孤立」は誰でも嫌なものである。だが、孤立よりもっと苦しくみじめなことがある。それは屈従や隷属(れいぞく)である。そこまでいかなくとも、いじめられたり、無視されたり、からかわれたり、“貢献”を強要されたり、内政に干渉されたりということを戦後の日本はどれだけ経験してきたか、国際親善を求めるのはよいが、そのためにも、時々は程よい距離をとる、時にはNOをいってみるといった外交術、交渉術があることを知らねばならない。「災後派」の指導者には、こうしたゲームのセンスが求められる。
(日下公人著書「『超先進国』日本が世界を導く」より転載)
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