日本剣道史上のスーパースターと言えば、ご存じ宮本武蔵である。諸国をめぐりつつ幾多の他流試合を行ったが、一度として負けることはなかったという。武蔵はただひたすら剣に強かったばかりでなく、美術的な才能にも恵まれていた。このことが武蔵の人間的魅力に奥行きを与えている。
それも五十歳を越えてからのわずか十年で、書画や彫刻に優れた作品を残したのだから、ただ驚くばかりだ。今日、重要文化財に指定される「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」もその一つ。
枯木の先で羽を休める一羽のモズはあたりに睨みを利かせるように厳しい眼光を放ち、画面は緊張感に満ちている。自らの孤高狷介(ここうけんかい)な姿をモズにダブらせたものであろう。
武蔵は1584年、戦国時代末期に生まれた。生地は美作国吉野郡宮本村(岡山県英田郡)と言われる。父親は新免無二斎(しんめんむにさい)といい、当時一流の兵法者であった。幼少時、この父親から剣の才能を見抜かれ、厳しく鍛えられる。
初めての他流試合は武蔵十三歳の時、村を通りがかった新当流兵法者と立ち合い、これに勝利している。十七歳の時には関ケ原の合戦に西軍の一兵卒として参戦した経験もある。その後、天下一の兵法者たらんと幾多の他流試合を各地で行った。生涯の試合数は六十数回にも及んだ。
と言っても、それらの試合はすべて二十代までに行ったもので、三十歳を過ぎてから剣をとって戦うことはなかった。たとえば、剣術道場・吉岡一門との三度に及ぶ死闘は二十一歳、佐々木小次郎との巌流島の決闘は二十九歳の時である。
ところで、六十数回も毎回異なる兵法者と試合して勝ち続けることが果たして可能だろうか。後世、「武蔵は弱い相手ばかり選んで勝った」と非難されもした。しかし、である。相手は『兵法者』を看板にしている剣客であって、素人ではない。六十数回戦った中には、吉岡兄弟や佐々木小次郎に準ずる剣客もきっといたはずだ。
さらにまた、当時の他流試合の作法を考えてほしい。今日の竹刀と違い、真剣か木刀を使っていたのだ。負ければ重傷を負うか、悪くすれば命の危険すらあった。多少、相手よりも力が強いとか、俊敏に動けるといったレベルでは到底、六十数回の試合を全勝で終えることは不可能だ。
このことは頭脳戦も含め、武蔵の実力が当時の兵法者のそれをはるかに凌駕(りょうが)していたことを物語っている。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます