このゆびと~まれ!

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謎に秘められた天才・写楽!八十の別人説を生み出す

2018年10月30日 | 歴史

六大浮世絵師の一人に数えられる、東洲斎写楽は多くの謎に包まれた浮世絵師だ。

 

まずその活動期間が異常に短い。特異な表情の役者絵の雲母(きら)摺り大首絵二十八枚が刊行され、浮世絵界にセンセーションを巻き起こしたのは17945月。以降、わずか10ヶ月の間に140余点の作品を精力的に発表するが、翌年2月を最後にパッタリとその活動を終息、忽然と浮世絵界から姿をけしてしまうのである。

 

写楽の絵のすごいところは、他の浮世絵師の誰からも影響を受けておらず、また、後世、誰もその画風を受け継ぐ者がいなかった点に集約される。まさに一代限りの画風なのだ。

 

本名、生没年、家族などすべてが不明。ディフォルメの利いた作品の迫力もさることながら、この謎多き経歴も写楽の大きな魅力となっている。

 

写楽が有名になったのは、明治431910)年、ドイツのユリウス・クルト博士がその著書『SHARAKU』の中で、「世界三大肖像画家のひとり」と激賞したことに端を発する。当時の日本国内における写楽に対する評価は、「特異な絵を描く二流絵師」でしかなく、無名に等しかった。

 

ところが、ヨーロッパで写楽が絶賛されたことで、日本でも一挙に評価が高まる。いわば“逆輸入”である。しかし、もともと無名のこともあって、写楽に関する記録はまったくといっていいほど残されていなかった。

 

そのため、さまざまな写楽別人説が流布した。葛飾北斎、司馬江漢、歌川豊国、山東京伝、円山応挙、十返舎一九、蔦屋重三郎などの名があがり、共同制作説も含めると写楽別人説は八十にも及ぶ。まさに、諸説紛々。もちろん写楽本人説もある。近年は能役者・斎藤十郎兵衛説が有力視されている。

 

もとを正せば、この斎藤十郎兵衛説が唯一の写楽説だった。クルト博士の『SHARAKU』は「写楽は阿波の能役者・斎藤十郎兵衛」と記し、『浮世絵類考』(江戸末期)にも「写楽。天明寛政年中の人。俗称、斎藤十郎兵衛。居、江戸八丁堀に住す」と記述され、その説に疑いは挟まれなかったのである。

 

だが、研究が進むうちに、阿波藩の記録のどこにも能役者・斎藤十郎兵衛の名がなく、墓も大正時代に捏造されたものだと判明した。「斎藤十郎兵衛は実在していない」となったわけだ。そこで大騒ぎとなり、一体写楽は誰なのか、と八十もの別人説が出現することになった。

 

そして近年、「やはり写楽は斎藤十郎兵衛だった」という説が急浮上する。幕府の公式能役者名簿にその名が発見され、実在が確認されたのだ。生存時代が写楽の活動期に符合することも有力視される所以だ。

 

いずれにせよ、こうした写楽論は今後もさらに続くと思われる。ヨーロッパでの絶賛を契機に、無名の浮世絵師がここまでの論争を引き起こしたのは、文字通りの一大トピック。

 

こうなると写楽は、もはや浮世絵師を越えた存在だ。無名絵師・写楽をして世界の代表的画家に押し上げた要因は、数々の不思議をまとったその存在感なのかもしれない。

 

---owari---

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4 コメント

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Unknown (Unknown)
2018-12-21 20:30:25
>写楽が有名になったのは、明治43(1910)年、ドイツのユリウス・クルト博士がその著書『SHARAKU』の中で、「世界三大肖像画家のひとり」と激賞したことに端を発する。

それ、日本で写楽を持ち上げるためにでっち上げた伝説だと判明していますけれど。Wikipediaの写楽のページにも書いてある程度の話題・・・
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こんにちは (“このゆびと~まれ!”です)
2018-12-22 17:02:41
Unknownさんへ

写楽の記述について、間違いをご指摘いただき、有難うございました。

この点について調べさせて頂きましたが、ドイツのユリウス・クルト博士が著書『SHARAKU』の中で、「世界三大肖像画家のひとり」と紹介したという記述はありませんでした。

大正期に活躍した評論家の写楽研究本に記載した見解が、クルトの説と勘違いされ、その後、「クルトが認定した三大肖像画家」説が一人歩きを始めてしまったようです。

改めてブログ内容の訂正とお詫びを致します。

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どういたしまして (Unknown)
2018-12-23 09:55:15
“このゆびと~まれ!”さんへ

文献は疑わしいといって
あれほど真相探しが盛んだったのに
世界三大肖像画家の由来についてはほとんどの本やTV番組でノーチェックで信用されているんですよね。
24年前にはクルトの本の邦訳が刊行されているのに。
写楽の正体よりも、そちらの方がミステリーです。
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こんにちは (“このゆびと~まれ!”です)
2018-12-23 14:46:04
Unknownさんへ

クルト博士の著書『SHARAKU』は1910 (明治43) 年に、ミュンヘンの出版社から刊行されましたが、それから84年も経ってから初めて邦訳されたので、それまでの間に憶測や勘違いが評価として一人歩きを始めてしまったのでしょうね。真相を外さないように自省しなければなりません。
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