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日本民謡の「はやしことば」は何語か?(後編)

2016年04月27日 | 日本

さて、話は青森県で唄われる「ナギャド・ヤラ」についてです。

この唄は、青森県南部から岩手県北部にかけての地域及び秋田県鹿角地方の旧南部藩領内に伝わる盆踊りでの    「はやしことば」の歌詞からとられた名称です。

 

お盆のとき、日本人は「盆踊り」をします。これはじつは、仏教の踊りではなく、古代から日本で行なわれていた「歌垣」と呼ばれる踊りなのです。

歌垣は、大和時代から行なわれていたもので、奈良朝時代に至って特に盛んになりました。全国の男女の間に流行し、男女はそこで歌い、踊り、見合いなどをして結婚を約束したのです。

 

踊りの仕方は、男女が交差し、円形の輪をつくり、一人の音頭取りの唄につれて拍子をとりながら踊り、人数の増加するに従って二重、三重の輪をつくる、というものでした。

こうした風習は、古代イスラエルのものと全く同様です。古代イスラエルにおいては7月15日の夏祭り(北王国では8月15日)に、男女混合の踊り会があり、未婚の娘たちや男子たちは、その夜の踊りと出会いの時を楽しみにしていたのです。

 

現在行われている「ナニャドヤラ大会」で見られる歌詞は以下の通りです。

 

ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ

ナニャドヤレ ナサレデ ノーオ ナニャドヤレ

ナニャドヤラヨー ナニャド ナサレテ サーエ ナニャド ヤラヨー

ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ ナニャド

 

あまりにも意味不明な歌詞のために、古来からさまざまな研究者が興味を持ち、数多くの説が発表されている。

①柳田國男説

民俗学者の柳田國男が現地に立ち寄り、そこで村の娘に教わったというその歌詞は

「なにヤとやーれ なにヤとなされのう」

これを柳田は「何なりともせよかし、どうなりとなさるがよい」と、祭りという特別な日に、男に向かって呼びかけた恋の歌、としている。

②道歌説

青森県八戸市の中里義美の説。

「なせばなる、なさねばならぬ何事も」のいわゆる道歌が、南部地方の方言によって今の形になったとする。

③ヘブライ語説

岩手県一戸町出身の神学博士・川守田英二が大正時代に唱えた説。青森県新郷村(旧戸来村)に伝わる「キリストの墓」伝説にからめて解釈された。ヘブライ語で読むと民族の進軍歌になる、とした。この衝撃的な説は1950年代に一度全国的に有名になったのです。

④梵語説

南北朝時代、長慶天皇が足利氏に追われ、三戸郡名久井岳の近くに隠れ住んだ際に、味方に無事を知らせる内容を里人に唄わせたという説。

なにゃあどやらよ(任耶阿堵野羅世)

なにゃあどなされいのさえ(奈任耶阿堵長谷嶺居野宰叡)

この「長谷嶺居野宰叡」が「長谷よりほかに住む都がない」という意味になるという。

 

青森県の新郷村と言う所には、伝・「キリストの墓」がある。

新郷村は古くは「戸来村」と言われていて、ヘブライに漢字を当てると「戸無来」となり、無は無いから取ると戸来村となる。

 

新郷村に入ると「ようこそキリスト村へ」と言うアーケードが迎え、案内に沿って山を登ると十字架が二つ立っている。

その十字架はキリストと、キリストの双子の弟の墓だと伝えられている。

 

案内板には「ゴルゴダで処刑されたのはキリストの双子の弟イスキリの方で、兄は生きてこの地まで逃げ、この地で生涯を全うした」というのだ。

 

伝説の域を出ないのと、ことの信ぴょう性は低いが、キリスト本人が渡来して来たのか、信者が「キリストは我等と伴にあり」と信じて墓を作ったのかは定かではない。

 

キリストはインドの地まで来たことは記録にあるが、この日本まで来たことは史実に残っていない。しかし、キリストは死後復活しており、その復活40日の期間のなかで出現することは可能だったと私は思っています。

 

そして、この地で「キリスト祭」という年中行事が行われており、近くには竹内文書写本・「キリストの遺書」など関連資料を展示する資料館「キリストの里伝承館」が建っています。

 

2004年6月6日の第41回キリスト祭にはイスラエル駐日大使が出席し、エルサレム・ストーン(エルサレム市街の建築物外壁に使われる白い石灰岩)が寄贈されているのです。

 

この新郷村の民は、「キリストの墓」の周りに円を描いて「ナニャドヤラ」の盆踊りを歌い踊る。

つまり新郷村にはイスラエルの風習と思われるものが残っており、その代表的なものが「ナニャドラヤ盆踊り」と言われている。

 

地元の年寄りでも意味は分からなかったが、川守田氏は「ナニャドヤラ」の歌詞を古代ヘブライ語の進軍歌と訳したのです。

 

つまり、ナーニャード・ヤラヨウ(御前に聖名をほめ讃えん)、ナーナャード・ナアサアレ・サーエ(御前に毛人を討伐して)、ナーニャード・ヤラヨ(御前に聖名をほめ讃えん)と言う意味であると発表したのです。

 

川守田氏の説に拠ると青森県から岩手県にかけて散在する地名の一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)、そして十和田は、失われた渡来ユダヤ十支族に関係があるとしている。

 

紀元前六百八十六年頃に流浪の民となって世界に散らばったヘブライ(ユダヤ)人が、「古代この地に来た」と言う事は否定できない。

 

日本列島から遠く離れたヘブライ(ユダヤ)発祥の地(現イスライル)を思えば、この話しはにわかに信じ難いかも知れない。

 

だが、流浪の民がユーラシア大陸を東方へ伝い彷徨(さまよ)い、渡海して日本列島に渡って来ても不思議は無い。

 

その痕跡はこの新郷村に止まらず、「ナニャドヤラ」の踊りは下北半島でも踊られているのです。

 

また、新郷村にはユダヤの紋章(ダビデの星)と似た家紋を持つ旧家(旧家沢口家)があり、生まれた子供を初めて屋外に出す時、額に消し炭で十字を書く風習が残っているのです。

 

奥州(東北)と切っても切れないのが東北蝦夷(エミシ)の安倍氏(安倍御門)である。

その安倍氏族・安倍晴明が使う判紋(五芒星)がユダヤの紋章(ダビデの星)と酷似しているとなると、これはもう偶然とは言い難い。

 

キリスト信仰には「復活」があり、この陰陽道五芒星がユダヤの紋章(ダビデの星)と酷似してなお意味まで一致しているのです。

 

また、ねぶた祭りで有名な青森市で、ねぶたを囲んで踊るハネトの掛け声「ラッセラー・ラッセラー・ラッセ・ラッセ・ラッセラー」もまた、ヘブライ語なら理解できるのです。

川守田氏の訳では、その掛け声を「動かせ・動かせ・高きへ進め」と訳せると言うのだ。

 

弘前のねぷたの「ヤーヤードゥ」は「エハボを讃えよ」となり、全国の祭りで山車を引く時「エンヤラヤー」と言う掛け声はヘブライ語「エァニ・アハレ・ヤー」に訳すと「私はヤハウェを賛美する」となると言う。

 

また川守田氏は、日本各地に伝わる民謡の囃子言葉のほとんどが同じように「古代ヘブライ(ユダヤ)語ではなかろうか」と言うのです。

 

紀元前の日本古代史の中に渡来ヘブライ(ユダヤ)人の失われた歴史が在り、日本の古代信仰にその影響を残したと考える方が理解しやすいのではないでしょうか。

私が子供のころに住んでいた播磨地方では有名な「灘のけんか祭り」があります。

その隣町の私の町にも屋台があり、その大きな屋台(重量は約2トン)を人が担いで、お宮(神社)まで2時間以上かけて担いで運びます。

 

その時の掛け声が、この民謡の「おはやしことば」に一致するのです。

ソーラ ヨー イトン セェル (SWRH・IW・ITN・SWR)

(見よ、ヤーエ渡したまえり、仇敵を)

 

昔から意味もわからずに唱えていたのです。しかし、その掛け声の響きや調子は本当に格好がよく、力が入り、とても歌いやすく、気分が乗ってくるのです。

 

また、播磨地方(高砂市)にある荒井神社秋祭りでは、屋台がお宮入りした後に、少女が扮する着飾った舞子が踊りを舞い、乗り子、練り子の囃子や唄と掛け合いながら寸劇を展開していく。私が見た時は、異国風の少女の服装が中国朝鮮の衣装でもなく、古代の日本の衣装でもない。

これは「任仁輪加太鼓」と呼ばれるものであるが、私は渡来人の雰囲気を感じたのです。

 

ここでもう一度思い出して頂きたいのが、京都の平安京を造り、日本の神社の建立に大きくかかわっている渡来人である秦氏の存在です。秦氏が古代のヘブライ人であったならば、神社のお祭りにヘブライ語が使われることは考えられます。それは、屋台を担ぐ掛け声であったり、唄のおはやしであったりであれば、そんなに違和感はなく、溶け込んできたのではないでしょうか。

 

祭りの後の宴会の席で唄う歌のおはやしに、ヘブライ語が入っていても不思議ではない。

私たち日本人がヘブライ人ということではありません。

日本人とヘブライ人が異人種交流のよき種を作り、今日まで大きく育ててきたのではないかと言いたいのです。

それが21世紀を輝かす日本文明であると言いたかったのです。

 

---owari---

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