私の若い時に、会社の中で「音楽鑑賞会(通称MAC)」を立ち上げて、定期的にレコードコンサートを開催していた。このコンサートのオープニング曲には、当時、フレンチポップス界の巨匠「レーモン・ルフェーブル」楽団の「恋に祈りを」を採用していた。
この時代1960年代半ばから70年代にかけて、当時はフレンチポップス全盛の時代であり、「レーモン・ルフェーブル」楽団以外に、「ポールモーリア」楽団もあり、「恋はみずいろ」や「シバの女王」などの演奏曲が大ヒットした時代でもありました。
その時代のフレンチポップス界の歌姫と言えば、“シルビー・バルタン”でした。
特に65年初期のデビュー当時の“シルヴィ・バルタン”にとても魅力を感じます。
ふわっとカールしたショートカットに、バンビーのようなすき間のある大きな上前歯二本とすらっとした足にロング靴下は、今見ても魅力的です。本当にフランス人形のような美しさがありました。そして、彼女の歌はフランス語がとてもエレガントに感じられたのです。
当時は、イギリスのビートルズが世界で大流行し、フランス国内でもアメリカのポップスに影響を受けた若い世代が作る音楽が人気を博すようになりました。そのような新しい音楽の流れの中で、シルヴィ・バルタンの「アイドルを探せ」(1964)をはじめとして、フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」(1965)、マージョリー・ノエルの「そよ風にのって」(1966)、アダモの「ブルージーンと皮ジャンパー」(1964)、エンリコ・マシアスの「恋心」(1966)などが、日本でもフレンチポップスの花をいっせいに咲かせました。
フランスからはその後もミシェル・ポルナレフ、フランソワーズ・アルディ、ジェーン・バーキン、ダニエル・ビダルなどの歌手が日本で歌をヒットさせています。
さて、シルヴィ・バルタンですが、1944年8月生まれですから、現在71歳。17歳のときに最初のレコードを録音してから現在まで、50年以上もの長い間、常に音楽界の第一線で歌手としてのキャリアを積んできました。彼女の熱心なファンから言えば、残念なことに、日本では彼女のキャリアの中でも最初の10年くらいの間に出したヒット曲だけが人々の記憶に残り、その後の40年間の記憶は欠落してしまっているというのです。
確かに、日本で発売される彼女のCDのほとんどが若き日のヒット曲のベスト盤です。もちろん「アイドルを探せ」に限りない愛着と懐かしさ覚えることは、あの頃に青春を過ごした私たちにとって、とても自然なことです。しかし、シルヴィ・ヴァルタンは永遠のアイドル歌手でもなければ懐メロ歌手でもありませんと彼らは諭すのです。
それでも、素人のファンである私は、彼女を特異な存在にしている彼女独特のあのハスキー・ヴォイスと容姿やファッションで一躍若者のアイドルとなった当時のシルヴィに心を寄せるのです。
もちろん、現在、70歳を超えてもなお美しさと強さを兼ね備えたシルヴィには、豊かな人生を経験してきたからこそ生まれる美しさがあります。
シルヴィは日本の若い人には知られているのでしょうか。実は日本の若い人にも知られています。
レナウンのTVCM曲「ワンサカ娘」(66年)で一世を風靡したシルヴィも、長らく過去の人になっていましたが、2001年の映画「ウォーターボーイズ」の挿入歌に使われて見事に復活したのでした。CMにも使われて、「あなたのとりこ」が入ったアルバムは100万枚を売り上げたとのことです。
日本公演も1965年5月初来日してから2014年4月までに16回を数えている。
日本の印象について彼女は、「初めて来た頃はまったく英語が通じなくて、ホテルで朝食を頼むのにも通訳が必要だった。すごく遠くの国に来たって感じたわ。それからもう何十回と日本に来て、すごく近い国に思えるようになった。変わらないのは、日本の人々がクリエイティヴで、とても礼儀正しいこと。他人に対して常に敬意を持って接してくれるし、そんなところが素晴らしいわ」と語っている。そして、「日本は幸せの国」ですとも言っているのです。
日本びいきの彼女が自分の分身といい両手を広げて信頼する夫(トニー・スコッティ)との縁は、実は1981年3月の第10回東京音楽祭の席で出会ったものでした。
トニー・スコッティは東京音楽祭の審査員として常連で、シルヴィは審査員やプレゼンターとして招待されていたのでした。日本が取り持つ縁ということですね。
シルヴィはTVや雑誌インタビューでトニーについて訊かれる毎に笑顔でこう表現する「トニーのような男性に出会うのは難しい、彼は突然私の目の前に現れ大きな扉から入ってきた『un oiseau rare(珍鳥)』、私はもう戸に鍵を閉めてしまいました!」。それほど、お気に入りなのです。
彼女の趣味の一つが写真で、「対象は主に子供と動物」との事ですが、特に子供が大好きとのことでした。
フランス語の他、英語、イタリア語、スペイン語、ブルガリア語と5カ国語に堪能で、日本語を勉強していた時期もあるというのです。
人間の美徳は、優しさと 善良さであり、長所は誠実と寛大であることと答えている。
また、住みたいところは、パリの山岳地帯の湖の傍ということです。
そして、実社会のヒロインは「マザー・テレサ」だというのです。
シルヴィは、約40年ぶりの帰国で見た故国(ブルガリア)の貧しさに心を動かされて、同年1990年12月、実兄エディ・ヴァルタンと共にブルガリア赤十字社の元に人道支援非営利団体NGO 「Association Sylvie Vartan pour la Bulgarie」(シルヴィ・ヴァルタン・プール・ブルガリィ)を設立。主目的は子供達の救済でした。
若い頃から大変な子供好きで有名なシルヴィは、恵まれない子供達や老人救済を中心に、孤児院や産院含む病院に新生児医療機器・器具などの物資・設備を提供しているのです。
「私が成功したのは多くのファンが支えてくれたからです。私はこんなに恵まれているのですから少しは恩返しをしなければなりません。辛い人生を送っている人たちを支援するためにできる限りのことをしようと考えています。勿論限界もありますが、何かをするということはとても大切なことだと思うのです」と語っているのです。
クリスマスには子供達に贈物を届ける。
NGO事務局長は、「シルヴィは孤児院を訪れる度にその子供達皆を自分の養子にしたいと思っている」と微笑むのでした。
“永遠のアイドル”という呼称は、シルヴィに失礼なのかもしれない。デビュー当時の彼女だけがシルヴィではないと叱られそうである。
私たちはどうしても絵画”モナリザ“の微笑みの一瞬だけを切り取って、永遠の絵画として残そうとする。
その意味において、若きシルヴィに“永遠のアイドル”と名付けて、後世に残したいと世の男たちは思うのです。女性の皆さん、勝手な意見となりますが、ご容赦ください。
それでも、70歳になるシルヴィも魅力的です。どこかにアイドルの微笑みを残し、頼もしい母親の姿もあり、そこには歌手として第一線で輝いてきた女性の強さを感じるのです。
あのアイドル時代の清楚で、おとなしい、可憐なシルヴィが、50年を経てこのような力強い女性になることは想像できませんでしたが、これが本当の女性の強さを、生命力の強さをあらわしているのだと感じたのです。
私はシルヴィ・バルタン彼女自身が、モナリザにも負けない、輝かしい一つの芸術作品であると思っているのです。
---owari---
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