⑬今回のシリーズは、徳川家康についてお伝えします。
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西軍有利となれば小早川秀秋の裏切りはなかったのであるから、東軍は一万五千という秀秋の兵力を得ることは叶わなかったはずである。
秀秋は、正午を過ぎてもなお、東西どちらにつくべきか迷っていた。つまり、それほどまでに両軍の勢力は括抗していたのである。
家康は、秀秋の陣所に寝返りを誘う鉄砲を撃ち込む。西軍もまた秀秋を促す狼煙(のろし)を上げていたが、秀秋はそれには反応せず、西軍、大谷吉継の陣へとなだれ込んでいった。秀秋の裏切りにより西軍は総崩れとなった。
これで勝敗は決してしまったのだが、このとき西軍がある程度の陣形を維持して戦場を離脱し、大坂城へ逃げ込んでいれば、再び徳川軍に対峙(たいじ)できたはずだ。
大坂城には毛利輝元が五万の大軍を擁し、立花宗茂と小野木公郷(きみさと)の軍勢三万に、関ケ原の敗兵を加えて十万にはなったからである。
西軍が十万の軍勢で大坂城に立て籠もっていれば、家康が十万や二十万の兵を率いて攻めたところで、城を陥落させることは不可能である。第一、東軍の主勢力には秀頼と戦う意思はないのだから、東西両軍は和睦して兵を引き揚げるよりほかなかった。
三成の状況判断の稚拙さに比べ、家康は最後まで周到であった。
家康は、西軍の退路をすべて遮断させ、必死に落武者狩りを行う。これによって、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊(えけい)が捕らえられた。
さらに家康は、輝元を大坂城から追い出すための工作を進める。井伊直政らが吉川広家らに宛てた書状の中で、毛利家所領の安堵を誓約しているのを見て、一族の毛利秀元らが龍城抗戦を主張するのを退け、大坂城を明け渡す。
途端に家康は、輝元が諸大名に宛てた家康征伐の書状を持ち出し、その所領を百三十万石から三十二万石へと叩き落とした。輝元は、まんまと家康に騙(だま)された。
これによって西軍は、最後の勝機を失うことになったのである。
歴戦の戦国武将たちは家康とともに博打を打った
関ケ原の戦いの主役というのは、みな豊臣恩顧(おんこ)の大名である。家康は、彼らを同士討ちさせることで漁夫の利を得たわけだが、決戦に勝った途端、自分に味方した大名に次々と恩賞を与え、いつの間にか自分が本当の大将になってしまった。そのすり替えのうまさは実に老獪(ろうかい)であった。
さらに、戦いから数年を経ると、家康は、大坂から西の外様大名を片っ端から改易(かいえき:所領・所職・役職を取り上げること)していく。その意味では、家康は恐るべき策士でもあった。
家康は、関ケ原決戦に向け、周到に策を巡らせていく。だが、決戦そのものは、家康にとっても勝敗の行方がわからない「大博打」であった。博打を打った結果、家康は勝利を手にすることができたのである。
黒田如水は、戦のときは頭で考えていては駄目だ、とにかく何がどうなるかわからないのだから、下駄と草履をバラバラに履いて、戦場へ出ろと言っている。
三成は、そのような実戦の現場感覚に遠かった。自分が西軍のリーダーであるにもかかわらず、決戦の前夜になっても、うろたえて判断に迷い、佐和山の居城と大垣城を往復している。そのため、家康も恐れたという歴戦の武将、島津惟新(いしん:島津義弘のこと。戦国時代・屈指の猛将。関ヶ原の戦では東軍への敵中突破など多数の武功がある)を失うこととなった。
対して、戦国のカリスマである家康は、全体の状況を四割まで把握できれば、あとの六割は出たところ勝負と思って突っ込むという「博打」を打つことができた。歴戦の武将たちというのは、命がけの大博打を打つことができる大将についていくのである。
三成が、豊臣政権における能吏(のうり)であったことは確かである。
だが、所詮、官僚の三成は、命がけで実戦の現場をくぐり抜けてきた大博打打ち家康の敵ではなかったのである。
(小説『武将の運命』作家・津本 陽より抜粋)
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