江戸時代に、お上のしたことに文句を言えば罪になるが、浄瑠璃や歌舞伎では遠まわしにお上の裁きを批判する題材が演じられてきました。
代表作は、「仮名手本忠臣蔵」です。
この作品は、人形浄瑠璃のヒット作から生まれた歌舞伎の最高傑作と言われているのです。
なぜ「忠臣蔵」の枕言葉に「仮名手本」が付くのか、私には分かりませんでした。
歌舞伎の演目と「仮名を習う時の手本」の関係が理解できなかったのです。
調べてみますと、赤穂浪士四十七士を「いろは」四十七文字になぞられたものですが、単なる数合わせではなかったのです。
「いろは」を七行で区切って書かれたものが、以下のようになります。
原文に即して七行詩にすると、各行の一番下の文字を読んだ時に「とかなくてしす」となります。
濁点はすべて省かれていますので、意味ができるように濁点をつけてから漢字にしてみると以下のようにすることができます。
「とかなくてしす」 → 「とがなくてしす」 → 「咎無くて死す」
つまり、罪もないのに殺されるという内容が出てきます。
このことを言いたいがために、また、お上からお咎めがないように「仮名手本」という言葉でつくろったのでした。江戸時代の庶民はみんなこのことを分かっていて、上演を楽しんだのです。
このお話は、割合に知られているというので、すでに皆様はご存知だったかもしれませんね。
江戸時代の庶民は漢字までは読めなくても仮名は、もう誰でも読めていました。いろは歌「いろはにほへと ちりぬるを」を算数の九九のように誰でも暗記していたのです。だから、庶民にとっては連想しやすい、親しみやすい、読みやすい、順番を覚えやすいといったことにつながります。
「いろは」は、もののはじめ、基本、物事を習うときの手ほどきの、代名詞となっていますし、また、江戸町火消しの「以呂波組」や「以呂波茶屋」のように、あるグループを呼ぶのに利用されたり、「以呂波番付」のように、いろはを番号のように用いていました。今日でもしばしば見るところです。
また、「咎無くて死す」ということについて、時代をさかのぼりますが、同じく浄瑠璃、歌舞伎の演目に
「菅原伝授手習鑑」というのがあります。
学才の菅原道真が政争に巻き込まれ、罪なき罪をかぶせられ流刑にされやがてその地で命を落とすのですが、霊として罪に落とした一族に祟るというものです。
この「手習鑑」=「いろは」の手本ということです。
ここには四十七の数字も表れてきませんが、このタイトルを分かりやすく置き換えれば
「菅原道真の咎無くて死んだことを伝え授ける」ということになります。
どうも単なるこじつけだけではなさそうです。
「いろは」に隠された「咎無くて死す」はいろいろなところで見ることができるようです。
さて、ではこの「いろは歌」はいつ、誰のために作られたのでしょうか?
「赤穂浪士」のために、作られたわけではありませんね。
これを紐解くものとして、「いろは歌」が文献上、最初に見出されたのは承暦3年(1079年)成立の仏教の経典『金光明最勝王経音義』(こんこうみょうさいしょうおうぎょうおんぎ)です。
この巻頭に万葉仮名で書かれています
『金光明最勝王経音義』とは、国宝『金光明最勝王経』についての注釈書である音義です。
音義とは経典に記される漢字の字義や発音を解説するもので、いろは歌は音訓の読みとして使われる仮名の一覧として使われている。ここでの仮名は借字であり、7字区切りで書かれている。それぞれの文字には声点が朱で記されており、それぞれの字のアクセントが分かるようになっている。
『金光明最勝王経』は一般的に読まれる経ではありませんし、通常に詠まれる経でもありません。
つまりこの経典はプロの僧侶が読むものです。このことから『いろは歌』の普及の為にこの経典に書かれたのではない事が判ります。
この経典は東大寺や国分寺で、全国規模の国家鎮護の法要に詠まれるものです。国家鎮護の法要をするという事は、国家に災疫があった時にするものです。災疫とは飢饉や疫病です。これらのものは怨霊の祟りの主たる現象ですから、国家鎮護の法要とは、怨霊封じや慰撫の法要という事です。その時に詠まれる『金光明最勝王経』には怨霊を封じ慰撫する力があると信じられていた経であることが判ります。
この経の音義の巻頭に『いろは歌』が書かれているという事は、『いろは歌』に呪力があるためにこの経で封じているとも推測できます。つまり『いろは歌』の主役は怨霊であるとも推理できるわけです。
『いろは歌』の主役が平安時代中期以前の怨霊化するような人物であると推理しましたが、困った事に平安時代中期以前には怨霊化しそうな人物が目白押しの時代なのです。
『いろは歌』の主役として伝わる人物の最古の人は聖徳太子です。私のブログ「奈良・法隆寺の謎」
で書きました様に聖徳太子は怨霊となる資格がある考えられます。まず、太子自身の死因は公式には伝染病にかかって亡くなった事になっていますが、同じ日に妻も亡くなっているのです。
これは暗殺としか考えられないことです。
その根拠の一つに、天皇や貴人で死後に「徳」の称号を与えられたのは、すべて不幸な死に方をされた人ばかりなのです(聖徳太子、孝徳、称徳、文徳、崇徳、安徳、順徳天皇など)。
太子死去の後に、太子の子孫全員(25人)が蘇我入鹿に殺害されているのです。これは立派な怨霊としての資格があります。しかし、私はあれほどの功績を遺した叡智ある天才の聖徳太子が怨霊になったとは考えられません。資格はありますが、怨霊そのものになったのではなく、その霊力を恐れた権力者がいたということなのです。
それでは他にどのような方がおられるでしょうか?
柿本人麻呂が作者だとする説もありますが、時代が飛鳥時代となり7行詩の様式と合わないということで可能性は退けられます。
奈良時代中期までは有間皇子や長屋王など、怨霊になったと思われる人物は多数いますが、ほとんどが都で殺されていますし、処刑までの期間が短いので『いろは歌』を作る時間がなかったと思われます。
『いろは歌』の構成からみて、作成にはある程度は時間が必要と思えます。聖武帝以前に無実の罪で殺されたと思われる人物は多数いますが、残念ながら短期間で殺されていて何処か地方に流されて殺された様な人物は歴史上には見当たりません。
では奈良時代後期から平安時代初期ではどうでしょうか。
奈良時代後期で怨霊と言えば早良(さわら)親皇がいます。桓武(かんむ)帝の弟で、父の命で桓武の皇太子なりましたが、造長岡宮使・藤原種継暗殺事件に連座して謀反の咎(とが)で捕われ、四国に流される途中で、無実を訴えて断食して飢え死にした人です。この人が無実であったのは、桓武帝が怨霊として非常に恐れていた事から判ります。歴史上で初めて怨霊となったと書かれた人物で、学界では、この早良親皇の怨霊化から怨霊信仰が始まったとされるのが定説です。
早良親皇の怨霊に対する恐れは、死後に崇道天皇という諡(おくり名)を贈与した事でもありますし、今の平安京遷都も怨霊対策と考えられます。早良親皇は大怨霊と言え、まさに『いろは歌』の「咎無くて死す」に値する人物といえます。
平安時代中期の始めには、もう一人大怨霊として有名な人物がいます。それは学問の神様として知られている天神様こと菅原道真です。
確かに『いろは歌』は菅原道真によって作られたという言い伝えもあります。道真ほどの才覚人ならば『いろは歌』を作り得たと考えられ、最有力の候補者と言えるのではないでしょうか。
早良親皇と菅原道真の二人が『いろは歌』の有力な候補者です。特に菅原道真ならば、『いろは歌』の様な歌を作れるとは考えられます。
しかし、早良親皇は無実を訴えるハンストによる飢え死にですから、自殺と考えてよいでしょう。道真は病死となっています。私には『いろは歌』の「咎無くて死す」は刑死の様に思えます。
早良親皇も道真も無実の罪を着せられてはいますが、刑死ではなく自殺と病死です。二人のどちらにしてもちょっとイメージが違う様に思えます。
『いろは歌』の最古の物が書かれている金光明最勝王経は平安中期に筆写された物ですが、『最勝王経』が盛んに詠まれたのは奈良時代(710~794年)、特に天平時代(729~749年)です。つまり万葉集が作られたとされる時代に近い時代なのです。
『いろは歌』が万葉仮名で書かれている事から、筆写する元の経にも『いろは歌』が書かれていた可能性が高いと思えます。この点から見ても時代はさかのぼるため、最有力と思われた菅原道真(845~903年)と早良親皇(750~785年)は『いろは歌』の作者ではないと考えられます。
『いろは歌』が奈良時代に作られたとすると、問題が出てきます。飛鳥から奈良時代にかけては怨霊化したと思われる人物で、流刑で刑死または獄死した人物がいないのです。
ここで、怨霊探しと「いろは歌」の作者探しに行き詰まったのです。
後編へ続きます。
---owari---
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