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「上杉陣」「武田陣」⑤

2022年02月15日 | 歴史
今回のシリーズは、上杉謙信についてお伝えします。
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戦争とは、結局、人の力と力との高度なあらわれである。古今、いつの時代であろうと、その行動の基点から帰速まで、人の力にあることに変りはない。政略、用兵、経済、器能の働きはもちろん、自然の山川原野を駆使し、月光烈日の光線を味方とし、暗夜暁闇(ぎょうあん)の利を工夫し、雲の去来、風の方角、寒暑湿乾の気温気象にいたるまでのあらゆる万象を動員して、それに機動を与え、生命を吹き込み、そして「我が陣」となす中心のものは人間である、人間の力でしかない。

また、箇々のものも、他に求められるまでもなく、各々磨かなければ、時代の戦国を生きぬいては行かれない。
どしどし踏みつぶされ、落伍してゆく。

惜しまれるものの生命すら、顧みられず、また、顧みる混もなく、先へうごいて行く世だった。惜しまれもせぬものの生命などは、何ともしない。

わけていま、永禄四年ごろは、後の天正、慶長などの時代よりは、もっともっと人間が骨太だった。荒胆だった、生命を素裸にあらわしていた。

越後衆も甲府衆も負けず劣らず、そうであった。
対立して称(しょう)するところの「上杉陣」「武田陣」というその「陣」なるものは、そうした人の力のかたまりであった。平常の心の修養と肉体の鍛錬をここに結集して、敵味方に不公平なき天地気象の下に立ち、
「いで!」
とたがいの目的、信念をここに賭し、ここに試そうとするものである。

従って、その集結、その「陣」を構成している簡々の素質の如何によって、陣全体の性格と強靭(きょうじん)かまた脆弱(ぜいじゃく)かのけじめが決まる。

いま、千曲川をへだてて、雨宮の渡しにある武田の陣と、妻女山の上にある上杉陣とを、そうした観点から見くらべたところでは、いずれが強靭、いずれが脆弱とも思われなかった。どっちの陣営も、その旗の下にある宿将、謀将、部将、士卒まで、実に多士済々といってよい。

名君のもとに名臣(めいしん)あり、ということばから推せば、その偉さは、やはり主将の信玄にあり、謙信にあるのかもしれない。

越後の名臣と、世間から定評あるものは、宇佐美、柿崎、直江、甘糟(あまかす)だといわれているし、甲州の四臣として有名なものには、馬場、内藤、小畑、高坂がある。

また、過ぐる年の原之町の合戦では、単騎、上杉勢の中へ奮迅(ふんじん)して来て、二十三人の敵を槍にかけ、槍弾正(やりだんじょう)という名を詣(もう)われた保科弾正や、それに劣らない武功をたてて鬼弾正とならび称された真田弾正のような勇士も、その部下にはたくさんいた。

槍弾正も、鬼弾正も、甲州方の勇士であるが、上杉勢の下にも、武勇にかけてなら、彼に負けを取らないほどの者は、無数といっていいほどいる。

謙信が、人いちばん目をかけていた山本帯刀(たてわき)などは、阿修羅とさえ称(たた)えられた者であった。いつの戦いでも、退け鉦(かね)が鳴って味方が退き出しても、いちばん最後でなければ敵中から帰って来なかった。そしてその帰ってくる婆はいつも兜(かぶと)のいただきから草鞋(わらじ)の緒まで朱に染まっていた。また、どんな大将首を獲っても、腰につけて持って帰ることはしなかった。

---owari---
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