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国際社会で自分自身を語れますか?(前編:近代世界システムの荒波)

2023年03月11日 | 日本
今日は「国際派日本人養成講座」(編集長・伊勢雅臣さん)からお伝えします。
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国際社会とは、世界の国々が独自の個性を、固有の文化と歴史を通じて語りあっているお花畑だ。

(外国訪問、三つの工夫)
私は仕事柄、海外出張の機会が多く、アメリカ、アジア、ヨーロッパなど、すでに十五カ国ほどを訪問しました。その経験から、外国訪問を実りあるものにするために、次の三つを心がけるようになりました。

1)その国の言葉で最低、「こんにちは」と「ありがとう」を言えるようにする。
旅先ではいろいろな人々と接します。訪問先の企業の人々ばかりでなく、レストランやホテルの従業員、タクシーの運転手、こういう人々にも、かならずその国の言葉で「こんにちは」「ありがとう」と言うようにします。小さいながらも独自の言語を持つ国々では、「自分の国の言葉に関心を持ってくれたのか!」と喜んでくれます。また、言語は文化の最重大要素です。

たとえばオランダ語の"Dank u"は、英語の"Thank you"そっくりなことから、両国がいかに文化的に近い関係なのかが分かる、というような洞察も得ることができます。

2)その国の食べ物、飲み物を賞味する。
次に旅先では、なるべく現地の食べ物、飲み物を味わうようにします。食べ物、飲み物は、その土地の気候、自然の中から、人々が生みだしてきた文化、それも我々が生活の中で最も直接的に味わえる文化です。タイに行けば、蒸し暑さの中でとびきり辛いものを食べる、という実生活の次元から、その国を実体験するわけです。

3)その国の誇りとする人物を知る。
また出かける前に、その国の歴史を概観した入門書と、そこで最も尊敬されている人物の伝記や小説を読んでいきます。その国がどのような人を誇りとしているのか知ることによって、その国民の伝統精神や理想をうかがうことができます。

(国際化とはアメリカ人のようになる事?)
こういう姿勢で外国を旅すると、世界の様々な国々が、特定の自然環境や歴史的経緯の中でいろいろな工夫や苦心をしながら、お国柄を発展させている様子が理解できます。国際社会とは、このように世界の多くの民族が独自の個性を、言語や、料理や、歴史的人物を通じて語っている百花繚乱のお花畑のような所だと言えましょう。

「国際化」というと、アメリカ人のようになる事だと考えている人が多いようですが、それは大変な間違いです。アメリカ人は諸国民の中でも比較的外国への知識や理解に乏しい国民です。まず外国語を習う機会も必要性も限られており、世界のどこに行っても相手の方が英語を話すのを当たり前だと思いこんでいる人が多い。

民族料理には見向きもせず、他国の歴史や文化には何の興味も示さない、そういう姿勢では、国際社会の真の多様性は分かりません。まして日本人がそれを真似ても、二流のアメリカ人となるだけです。英語とハンバーガーとアメリカン・デモクラシーをグローバル・スタンダードと勘違いしてはなりません。

国際社会の様々に多様な文化を味わえる人、同時に外国の人々に対して、自分自身の国の文化、伝統、理想について語りうる人、私はそのような日本人を、「国際人」ではなく、「国際派日本人」と呼んでいます。

(フィンランドから世界を見れば)
一つ、具体例でお話ししましょう。昨年、冬の最中に、フィンランドに行く機会がありました。まずヘルシンキのレストランで、フィンランドの技術者二人と夕食を共にした時は、飲み物も食べ物もフィンランド流にやろうと私が提案したら、最初の乾杯は小さな冷やしたグラスに入れたストレートのウォッカを一気に飲み干すそうです。

こういう所にも隣国ロシアの文化的影響が感じられますが、それを飲みながら「フィンランド人は偉大な国民だ。スターリンのソ連とヒットラーのナチス・ドイツに挟まれて独立を守ったのは世界史的な偉業である」と私が言うと、彼らは実に嬉しそうな顔をしていました。これは、私がフィンランドの歴史と、独立の英雄であるグスタフ・マンネルヘイムの伝記を読んでの実感でした。

(指導者マンネルヘイム)
フィンランドは12世紀頃からスウェーデン王国の支配下にあり、19世紀初めにはフィンランド大公国として帝政ロシアの支配下に置かれました。長い異民族支配の下で、人々は民族の独立を悲願として胸に抱いてきました。その独立の機会は、ロシア革命が勃発した1917年にやってきました。

この時に、独立の指導者として現れたのが、グスタフ・マンネルヘイムでした。マンネルヘイムはスウェーデン系の貴族の家に生まれ、ペテルブルグの騎兵学校を卒業し、ロシア皇帝の近衛騎兵までになった人です。

革命勃発と同時に、フィンランドに帰り、ロシア共産党に呼応して共産革命を起こそうとする赤衛軍、および、駐留していたロシア軍と戦い、勝利を得ます。その時の凱旋する姿が、ヘルシンキの中央通りに銅像となって飾られています。独立を勝ち得たとは言え、同胞相撃つ戦争を行ったため、少しうつむき加減の、勝利の喜びなど少しも感じられない像です。

(ソ連侵略との戦い)
しかし20年足らずして、フィンランドの独立は再び脅かされます。1939年、ソ連がフィンランド侵略を開始します。スターリンは「一週間でヘルシンキを占領し、全フィンランドを制圧する」と豪語して攻め込みましたが、マンネルヘイムを国軍総司令官として、フィンランド軍はよくその侵攻を押しとどめ、講和条約に持ち込みましたが、代償としてフィンランド民族の故郷カレリア地方が割譲され、43万人が住処を失って難民となりました。

翌40年には、ナチス・ドイツがソ連侵攻を開始します。フィンランドは中立を宣言したにも関わらず、ソ連に軍事施設や都市を爆撃され、やむなく宣戦布告します。マンネルヘイムはこの時、「たまたま、ドイツ軍と共通の敵に対して、同じ戦場で戦う共同戦争ではあるが、フィンランドは、自らの独立を守る防衛戦争を行うのである」と戦争目的を明確に宣言し、独立戦争の継続と位置づけて「継続戦争(The Continuation War)」と命名しました。そしてカレリア地方を奪回した後は、一歩もソ連領には攻め込みませんでした。

しかし、43年3月にドイツ軍が崩壊すると、フィンランド軍もソ連の攻勢を抑えきれなくなり、9月には何とか休戦協定に持ち込みます。条件としてカレリア地方は再割譲され、戦時賠償三億ドルと戦争指導者の裁判が要求されました。フィンランドはこれに堪え忍んで、独立を維持したのです。

(小さな町での相互理解)
この継続戦争を陣営としてまとめてしまうと、ソ連が米英と同じ連合国側、フィンランドが日独伊の枢軸国側となります。第二次大戦は全体主義の枢軸国陣営に対して、連合国側が民主主義を守るために戦ったと我々は学校で教わりましたが、これは実はアメリカから見た歴史なのです。フィンランドから見れば、それはソ連の明白な侵略に対する独立防衛戦争でした。

それを民主主義陣営対全体主義陣営というように概括してしまう事は、フィンランド国民の独立に賭けた戦いの真価を見落としてしまうことになります。第二次大戦を民主主義を護る戦いだとするアメリカの史観を唯一正しい史観として他国に押しつける事は、英語だけをグローバル言語とし、他の無数の言語の多様な個性を認めないのと同じ文化的自己中心主義なのです。

交通と通信の発達で、今や国際社会は小さな町のようになってきました。その中で人類は地球環境問題、戦争、飢餓、宗教対立、地域紛争など多くの共通の問題を抱えていますが、それらを解決していくためにも、様々な国民がそれぞれの長所を生かし、力を合わせて行かなければなりません。その大前提としてお互いの個性と来歴、すなわち文化と歴史とをよく理解して、信頼関係を築いて行かなければなりません。冒頭で紹介した三つの工夫とは、まさにそのためのものなのです。

(近代世界システムの荒波)
「フィンランドと日本は隣国だ。なぜなら間には一国しかない。」とは、私が訪問先で真っ先に聞いたジョークです。このフィンランド人の親日感情を込めたジョークは、両国の来歴の本質的な共通点を見事に言い当てています。ロシアという膨張主義の大国から、いかに国家の独立を守るか、ということが、両国の近代史における最大の政治的課題でした。

さらに日本の場合は、ユーラシア大陸の北部を東進してきたロシアだけでなく、南の海岸沿いをつたってきたイギリス、そして太平洋の東から勢力を広げてきたアメリカと、三つの勢力を迎えなければなりませんでした。我々日本人が自らの来歴を語る場合には、まずこの大前提を押さえておかなければなりません。

15世紀から始まった大航海時代以来、西欧世界はスペイン、ポルトガルから、オランダ、イギリス、フランスと、そのメインプレーヤーを交替しながらも、一貫してアフリカ、南北アメリカ、アジアを植民地化し、その資源と人民とを収奪するという政治・経済システムを地球全体に広げてきました。これが近代国際社会の本質だというので、歴史学では「近代世界システム」と呼んでいます。19世紀には、この近代世界システムの荒波が、地球上最後に残された東アジアにまで及んできたのです。

この事は幕末から明治にかけて植民地化された地域を挙げてみれば一目瞭然です。
        1819       シンガポール(イギリス)
        1826-86      ビルマ(イギリス)
        1842       香港(イギリス)
        1862-84      ベトナム(フランス)
        1863       カンボジア(フランス)
        1898(明治31年) フィリピン(アメリカ)
        1909(明治42年) マレー(イギリス)

(黒船と白旗)
こうした中で、1853(嘉永6)年にペリーが黒船艦隊を率いて、我が国にやってきたのです。ペリーは鎖国体制にあった日本を国際社会に引き出してくれた恩人であるかのように考えられていますが、事実はどうでしょうか。

長崎でのみ異国との交易や交渉を行うという幕府役人の主張を峻拒(しゅんきょ:きびしく拒絶すること)して、ペリーは大統領の国書を江戸近辺で相当の礼儀をもって受け取ることを要求します。この時に白旗二旒(りゅう)と自身の書簡を渡しますが、その大意は以下のようであったと、記録に残っています。

数年来、ヨーロッパ各国は日本政府(幕府)に通商の願いを出していたが、日本は鎖国の国法をたてに、これを認めなかった。そういったことは「天理に背く」ことであって、その罪たるや莫大なものがある。それゆえ通商をひらくことに不承知ならば、われらは「干戈(かんか:武器)を以て、天理に背くの罪を糺(ただ)」さんとするので、日本も鎖国の国法をたてに防戦するがよい。戦争になれば、勝つのは必ず我等である。日本は敗けるので、そのときに降伏を乞いたければ、このたび贈っておいた「白旗」を押立てるがよろしい。そうしたら、アメリカは砲撃をやめ、軍艦を退かせて、「和睦」することにしよう。そういう意図で、この「白旗」を贈ったのである。

大砲と軍艦でもって、自国の要求を通す、これを「砲艦外交」と言いますが、これこそ近代世界システムのグローバル・スタンダードでした。我が国はペリーの砲艦外交に屈服した形で開国し、否応なく国際社会に引きずりだされますが、そこはこのような弱肉強食の荒海だったのです。

---owari---
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