38年前のこの日、小学校に入学して間もない私の手を引いていた母が教えてくれた。
「今日は、沖縄が日本に帰ってくる日なんだよ。」って。私は、遠く何千キロも離れた南の地のことを思った。「オ・キ・ナ・ワ・・・」私は、この時初めて沖縄を意識した。北の大地に遅い春が訪れ、太陽が暖かい恵みを届けてくれた。今でも、なぜかその時の光景をハッキリと覚えている・・・通っている小学校の横の坂道を母と手を繋いで下っていた。左上方から太陽がさんさんと照っていた。(私は、太陽を「第二の父」と思っていた。いつも、太陽を見て、にっこりほほえんでいた。)
それから間もなく、「沖縄海洋博」が開かれ、夏休み後の成果を自慢げに仲間と話しつつ、冗談半分で誰かが言った。「沖縄海洋博に行った人ー!?」当然、誰もいない。高度経済成長時代とはいえ、おうちにカラーテレビが入ってそんなにたっていない。北海道から家族旅行で沖縄海洋博に行く事は、世界一周クルーズに匹敵する贅沢な旅に思えた。そんな金持ちは周りにいなかった。
だから、毎日、私は寝言で「ナハ、ナハ・・・」と言っていた・・・
「ナハって何?」と母が聞くと「沖縄の首都」と答えたそうだ。
あれから38年・・・時代は変わった。那覇は高層マンションが立ち並び、リトルトーキョーになった。でも、米軍基地は未だに本島の10%を占めている。(本島の主要部分に位置するため、実際には、もっと多く感じるのだが・・・)
「今日は、沖縄が日本に帰ってくる日なんだよ。」って。私は、遠く何千キロも離れた南の地のことを思った。「オ・キ・ナ・ワ・・・」私は、この時初めて沖縄を意識した。北の大地に遅い春が訪れ、太陽が暖かい恵みを届けてくれた。今でも、なぜかその時の光景をハッキリと覚えている・・・通っている小学校の横の坂道を母と手を繋いで下っていた。左上方から太陽がさんさんと照っていた。(私は、太陽を「第二の父」と思っていた。いつも、太陽を見て、にっこりほほえんでいた。)
それから間もなく、「沖縄海洋博」が開かれ、夏休み後の成果を自慢げに仲間と話しつつ、冗談半分で誰かが言った。「沖縄海洋博に行った人ー!?」当然、誰もいない。高度経済成長時代とはいえ、おうちにカラーテレビが入ってそんなにたっていない。北海道から家族旅行で沖縄海洋博に行く事は、世界一周クルーズに匹敵する贅沢な旅に思えた。そんな金持ちは周りにいなかった。
だから、毎日、私は寝言で「ナハ、ナハ・・・」と言っていた・・・
「ナハって何?」と母が聞くと「沖縄の首都」と答えたそうだ。
あれから38年・・・時代は変わった。那覇は高層マンションが立ち並び、リトルトーキョーになった。でも、米軍基地は未だに本島の10%を占めている。(本島の主要部分に位置するため、実際には、もっと多く感じるのだが・・・)