山本七平や渡部昇一や立花隆はクリスチャンでした。
他に有名なクリスチャンの評論家はいるかな、、って調べたら、
小泉信三(ただし戦後の64歳で受洗)
くらいですかね。現在では佐藤優さん。
でも、戦後思想史に影響を与えたBIG3みたいな山本七平と渡部昇一と立花隆がいずれもクリスチャンだったというのは、インパクトがある。
なお、立花隆は若い頃はクリスチャンだったけど、大人になってからはクリスチャンだとは公言していません。
前者二人はバリッバリのクリスチャン。
山本や渡部が、進歩的文化人が華やかなりしころに、向うを張って保守の立場から勇気ある発言を続けたのは、クリスチャンとしての信仰も力になっていたはずだ。
天は見ている。
神は見ている。
そう考えるから、勇気が湧いてくる。それがクリスチャンの、または宗教家の、本質だと思っています。
野暮な説明をすると、現世では幸せになれずとも、死後の永遠の世界での魂が生き残るという「永生観」を持つから、勇気が出せる。
私がキリスト教に興味をいだいたのも、山本や渡部などの、「勇気のある人」にはクリスチャンが多いな、と気付いたからでもありました。
クリスチャンになれば、勇気が出せる。
クリスチャンにならずとも、キリスト教を学べば、勇気が出る。
キリスト教を学ばずとも、宗教を学べば、勇気が出る。
宗教を学ばずとも、歴史を学べば、勇気が出る。
そう思っています。キリスト教ならずとも、儒教や陽明学その他の宗教では、上記の「永生観」を持っているからです。
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こう考えると、戦後の言論界で山本七平や渡部昇一や立花隆らが際立ったのは、明治以降、儒教教育が衰えて、日本人が俗物化したから、クリスチャンとして俗物化しなかったこの3人の、精神性・宗教性が際立ったから、と言える。
つまり、儒教的な良さ・永生観的な覚悟を多くの人が持っていた戦前には、クリスチャンであり、クリスチャンとして永生観を持つことが際立った特徴というわけではなかった。
周りが落ち込んだ(儒教もキリスト教も学ばぬ者がヨコを見て俗化した)ので、クリスチャンとしてのタテの信念を持つ3人が、相対的に浮かび上がった。
そう言える。
※ 参考 縦と横
戦前には、キリスト教を学ばずとも、勇気がある人がたくさんいた。石橋湛山しかり、松永安左エ門しかり、古くは西郷隆盛とか(彼はだいぶキリスト教を学んでいたらしいけど)、、