山本七平『論語の読み方』を読んでいたら、孔子が「仁」の定義を語らなかった、と書いていた。
そう。
昨日あたり、名和高司さんと「インテグリティの定義」談義をした直後ということもあり、もうこれだけでビビッときた。
仁って、インテグリティと同じだ。
インテグリティって、定義できない。
演繹的に考えられない。帰納的にしか捉えることはできない。
仁と同じだ。
論語で、仁は、たしか106回使われていますが、中でも、以下の「仁以て己が任と為す」が一番インテグリティに近い。
士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。
仁以て己が任と為す。また重からずや。死して後已む。また遠からずや
死して後已む、なんです、仁は。
永遠に到達できない。「道」。
斃れて後已む、なんです、仁もインテグリティも。
終わることのなき、永遠の、未完。憧れ。
『ドラッカーと論語』で、安冨歩さんが言っていること(冒頭画像)は、仁もインテグリティも考えたことない人には、チンプンカンプンでしょうが、私には、ビビッと来る。刺さる。
その通り。おっしゃる通り。
仁について考え始めることが、仁の始まり。
仁とは何かを問い始めること自体が、仁。
仁がなんだか分からないけど、仁たらんとすることが、仁。
死ぬまで仁を問い続けることが、仁。
なんだか禅問答みたいですが、それが、仁。
上記の「仁」は、そっくり、「インテグリティ」と取り替えることができます。