私の
ランプを
みがくことが
お手伝いだったようです
母( 旧 山崎俊 )の
父
私の
母
私の
という
名前です
発想をする
阿波の
最初の頃
三重県伊賀
阿波の
馬野という
していなかったので
やめて
名張で
していました
その後
材木商をやめて
名古屋に出て
お菓子問屋
専用の
旅館業を
名古屋城の見える
名古屋駅前の
明道町で営みました
その頃
母の
兄の
山崎一夫さんは
誰も
お嬢様育ちでした
母は
愛知県立
11年間
勤めさせて頂いた
後に
吉岡治平さんの
ともに
預けられていました
ので
木の
座っていたのを
うっすらと
よく覚えています
次は
名古屋が危ない
空襲の前に
目の前の
名古屋駅まで
貨車を出して
布団など
一切の
丸の内の
私の
引っ越して来ました
ら
次の
財産も
一切
丸焼けになりました
その時
おばあちゃんは
自分の
助産婦院の
看板の
板
一枚だけ
つかんで
逃げてきたのが
私は
面白かったです
その後
おばあちゃんは
30年程して
その
金五郎さんが
大阪のロイヤルホテルで
財産が配られまして
私
勉強費用となって
消えましたけど
技術として
出来たのは
ご先祖様の
ご先祖様の
たくさんの
ご先祖様の
ですね
ありがとう於良