2011年の7月、津波・震災から4ヶ月後の陸前高田を訪ね、青空市のお手伝いや仮設住宅の訪問、要望聞き取りなど、ささやかながらボランティアを経験しました。
そのときから「何年かたったら、きっとまた来よう」と思い、その思いを果たすことができました。
思い切って行ってよかったと思います。
「今、行かないと・・・」と決断を促し、1200キロの遠路の運転をしてくれた同会派の森下議員、現地の宿泊を手配し、多忙な時間をさいて案内してくださった藤倉陸前高田市議はじめ市議団の皆さんに感謝です。
9日、10日、11日の現地から投稿を補足し、今、心にあることを記しておきます。
あの日から2年半たって、被災地の様子がマスコミで報道されることはほとんどないように思います。
「復興はようやく緒に就いたところ」ではないかと思います。
震災前の人口は2万4千余人。
今は、約2万人。
亡くなられた方が2千人以上。やむなく他県、他市へ移り住んだ方もあることでしょう。
約4割の家屋が居住不可能となり、今も、52箇所、2100戸の仮設住宅に多くの方が暮らしておられます。
住宅、商店、市役所を初めとした公共施設が集積していた市街地は津波被害で壊滅し、そこは広大な更地です。
「とりあえず」と言う感じで小さな「追悼施設」が建てられていました。
全国から訪れた人のメッセージ、千羽鶴などが掲げられています。
慰霊碑に合掌。
遠くに見えるのは屋上まで水没した気仙中学校。生徒の犠牲者がなかった校舎は取り壊さず、津波・震災被害を伝える遺構として残すとのこと。
線路も駅のホームも津波で流され、運休中のJR大船渡線。2年前に訪ねたときは、「ここに駅があった」ことがかろうじてわかる「駅のホームの残骸」でした。
鉄道の復旧が待ち望まれながら、なかなかすすまないようです。今はバスが運行。竹駒駅のあとはきれいなバス停に。
隣町の住田町、お寺の境内に建てられた木造仮設住宅。
地元の木材を使い、仮設住宅としての用途を果たしたあとは無償で譲渡されるとのこと。
普通のプレハブでは、後の使い道がありません。
昔の長屋風の温もりを感じます。
街のあちこちにある花壇。立て札には、全国各地の学校名。
復興に思いを寄せ、花の種を撒いた若い人たちの祈りがこめられているようです。
2日間、連泊でお世話になった民宿「むさし」さんは、5分も歩けば海岸。
帰る日の朝、小雨の中を歩きました。
静かなこの海が、荒れ狂った日のことを思います。
海岸がすぐに見下ろせる場所ではありながら、高台なので津波の浸水被害はまぬかれたものの、地震は「今までに経験したことのない怖さ」。
余震が続く数日間、家に入れず車のなかで寝たこと、家を流された人たちを受け入れ「とにかく食糧を、暖かいものを」ありったけの物を提供し着の身着のままで過ごした日々のことを話してくださいました。
「それでもここは、壊れた街もいつかは作りなおせる。取り返しがつかないのは、福島、原発の被害だ」と言われました。
そのときから「何年かたったら、きっとまた来よう」と思い、その思いを果たすことができました。
思い切って行ってよかったと思います。
「今、行かないと・・・」と決断を促し、1200キロの遠路の運転をしてくれた同会派の森下議員、現地の宿泊を手配し、多忙な時間をさいて案内してくださった藤倉陸前高田市議はじめ市議団の皆さんに感謝です。
9日、10日、11日の現地から投稿を補足し、今、心にあることを記しておきます。
あの日から2年半たって、被災地の様子がマスコミで報道されることはほとんどないように思います。
「復興はようやく緒に就いたところ」ではないかと思います。
震災前の人口は2万4千余人。
今は、約2万人。
亡くなられた方が2千人以上。やむなく他県、他市へ移り住んだ方もあることでしょう。
約4割の家屋が居住不可能となり、今も、52箇所、2100戸の仮設住宅に多くの方が暮らしておられます。
住宅、商店、市役所を初めとした公共施設が集積していた市街地は津波被害で壊滅し、そこは広大な更地です。
「とりあえず」と言う感じで小さな「追悼施設」が建てられていました。
全国から訪れた人のメッセージ、千羽鶴などが掲げられています。
慰霊碑に合掌。
遠くに見えるのは屋上まで水没した気仙中学校。生徒の犠牲者がなかった校舎は取り壊さず、津波・震災被害を伝える遺構として残すとのこと。
線路も駅のホームも津波で流され、運休中のJR大船渡線。2年前に訪ねたときは、「ここに駅があった」ことがかろうじてわかる「駅のホームの残骸」でした。
鉄道の復旧が待ち望まれながら、なかなかすすまないようです。今はバスが運行。竹駒駅のあとはきれいなバス停に。
隣町の住田町、お寺の境内に建てられた木造仮設住宅。
地元の木材を使い、仮設住宅としての用途を果たしたあとは無償で譲渡されるとのこと。
普通のプレハブでは、後の使い道がありません。
昔の長屋風の温もりを感じます。
街のあちこちにある花壇。立て札には、全国各地の学校名。
復興に思いを寄せ、花の種を撒いた若い人たちの祈りがこめられているようです。
2日間、連泊でお世話になった民宿「むさし」さんは、5分も歩けば海岸。
帰る日の朝、小雨の中を歩きました。
静かなこの海が、荒れ狂った日のことを思います。
海岸がすぐに見下ろせる場所ではありながら、高台なので津波の浸水被害はまぬかれたものの、地震は「今までに経験したことのない怖さ」。
余震が続く数日間、家に入れず車のなかで寝たこと、家を流された人たちを受け入れ「とにかく食糧を、暖かいものを」ありったけの物を提供し着の身着のままで過ごした日々のことを話してくださいました。
「それでもここは、壊れた街もいつかは作りなおせる。取り返しがつかないのは、福島、原発の被害だ」と言われました。
最後の現地の方のことばを読んで、「復興へのたくましい希望」と同時に「福島の無念」が胸に迫ってきて、辛いです。
東北には行ったのかなー…電話して聞いてみようかなぁ…あ、そうだ、行ってたら、ココに書いてあるハズ…と思い、覗いたらビンゴでした。
私も行きたかったなー(+o+)
ただちさんのことなので、気を遣って私に声をかけないようにしてくださったんでしょうね。
また機会があれば、ぜひお誘いくださいm(__)m
簡単な「報告書」を作ろうと思っています。また見てくださいね。
中原あきらさん
一緒に行けたらなぁ・・と私も思っていましたが、ブログなどで、垣間見る様子から無理そうに思い、最後の声かけはしませんでした。またいつか、突然お誘いしますね。よろしく!!