日本は「侵略国家」なのか?
村山談話の嘘を暴く3つの真実
村山談話をはじめ、国際社会では「先の大戦で、日本は悪いことをした」との考えが"常識化"している。特に念頭にあるのが、中国大陸での日本軍の振る舞いだ。
だがそれは、GHQや日教組、現代の中国や韓国など「反日」の人々がつくり出した歴史観にすぎない。当時の中国大陸の状況を公平な目で振り返れば、戦後の日本人が信じてきた「日本悪玉史観」が間違っていることに気づく。
村山談話が誤っていることを知るために、(1)中国大陸での日本軍の行動、(2)対米戦争、(3)大東亜戦争の意義について見ていこう。
真実1
日本の中国大陸への介入には正当性がある
日本の幕末に当たる19世紀中ごろ、中国大陸を支配していた清朝では、政治が腐敗し、経済も停滞した。民衆は各地で反乱を起こし、軍事力を持つ勢力(軍閥)が台頭するなど、社会は乱れた。
そうした混乱につけこみ、欧米諸国は軍閥をだましたり、武力で脅したりして、大陸を半植民地状態に置いた。当時の大陸はまともな政府が存在しない内戦状態で、欧米からの侵略も受ける悲惨な状況にあった(図)。
一方、欧米の侵略に危機感を抱いていた日本は、明治維新で近代化を果たしたものの、欧米が中国大陸を支配すれば、日本も植民地になることを理解していた。そのため、大陸に安定した独立国家が生まれ、アジアに平和が訪れることを願い、革命家の孫文などを物心両面で支援した。
当時の大陸は、「イスラム国」などの武装組織が各国政府と戦っている、中東のような状況と言えば分かりやすいかもしれない。
日本の中国出兵は邦人保護
「日中戦争」が起きた背景には、大陸への介入を自重していた日本を、中国の軍閥が戦争に引き込んだ事実がある。
もともと、日本が大陸に本格的に進出したのは、日露戦争に勝利した1905年以降。ロシアから満州(中国東北部)にある南満州鉄道などの権益を得たことで、日本人移民や投資が増えた。
清朝が倒れた後、軍閥の一つであった国民党軍は大陸の統一を目指して、27年、南京を占領した際に外国人領事館を襲った(南京事件)。当時の軍閥は占領した都市で、当然のように略奪・強姦し、抵抗する人々を虐殺。街に放火するなどの"悪習"があった。
これに欧米は報復したが、日本は国際協調を唱えて応戦しなかった。この日本の"平和外交"が軍閥を勢いづかせた。28年にも、山東省の済南で日本人居留民の虐殺事件(注1)が起きた。
その後も日本人が死傷する事件が続発し、37年には、国民党軍が、上海の日本人居住区を数万の兵で包囲すると、さすがの日本政府も大量殺戮を恐れ、上海に派兵。両軍は全面衝突し、戦線が拡大した(第二次上海事変)。
(注1)1928年、一部の国民党軍が、婦女子を含む在留邦人を略奪・虐殺した。殺害の方法も残虐極まりなく、日本世論の対中感情は一気に悪化した。
日本は共産主義に対抗した
実は、日本が国民党よりも恐れていたのは、大陸の北にある共産主義国家・ソ連だった。暴力革命を肯定する共産主義が、日本に蔓延すれば、皇室や神道などの伝統が破壊されるためだ。
ソ連は、21年に中国共産党を結成させ、24年には社会主義国家「モンゴル人民共和国」を建国させるなど、着々と共産主義を広めた。
そこで満州の日本軍部は、ソ連からの宗教弾圧を警戒していたイスラム教徒やチベット仏教徒などと協力し、共産主義に対する防波堤を築こうとした。「満州」はその要だった。
清朝が倒れて行き場を失くした満州族を救う意味もあり、日本軍部は32年、清朝最後の皇帝・溥儀を元首とする「満州国」を建国(満州事変)。その後も、モンゴルやウイグルに反共産主義国家をつくろうとした。
一方、ソ連は35年、日本と国民党を戦わせ、日本と大陸を共産化する計画をまとめる。ソ連の操り人形である中国共産党は37年、北京近くにいた日本軍と国民党軍を銃撃。双方を勘違いさせ、両軍を軍事衝突させた(盧溝橋事件)。
だが日本の敗戦後、共産主義国と自由主義国が対立する「冷戦」が世界を覆い、中国共産党の独裁国家が生まれたことを考えれば、日本の大陸への関与は、「反共」の意味合いが強かったと言える。
欧米と日本の代理戦争
欧米諸国が中国大陸を植民地化したのは、天然資源や領土などを得ようとしたためだ。
その中で、大陸への進出が遅れたアメリカは、日本が満州に持つ鉄道などの利権を奪おうと国民党を支援。日中戦争時には、中立国を装って、航空機や義勇兵、武器弾薬などを提供した。
つまり、当時の中国大陸では、内戦に外国勢力が加わり、「アメリカなどが支援する国民党」や「ソ連が支援する中国共産党」などの代理戦争が繰り広げられていた。
日本による大陸への介入は批判されても、欧米側は批判されない。これは明らかにフェアではない。
こうした事実があってもなお、日本軍の行動は「侵略」と言い切れるのか。日本が「日中戦争」を戦った理由には、一定の正当性がある。
日本が大陸を侵略?
内戦が続き、日米ソなどが介入していた(1930年前後)
満州国&日本
日本は欧米の植民地化と共産化を防ぐため大陸に介入した
国民党&アメリカ
アメリカは大陸の利権を得るため日本と国民党を戦わせた
中国共産党&ソ連
ソ連は大陸を共産化するため日本を戦争に引きずり込んだ
10秒で分かる
なぜ「日中戦争」は起きたのか?
日本は近代化のため国民党(中華民国)を支援
しかし、国民党は共産党と組み、在留日本人を排除・虐殺
アメリカ・ソ連が排日運動を支援
日本は在留日本人を守るため国民党と衝突
日本軍は中国大陸で歓迎された
戦後の日本では、日本軍は中国大陸でひどいことばかりをしたと教えられてきた。だが、真相は違う。
日本軍の入城を喜ぶ河北省の保定市民(1)
『支那事変画報:第11輯』より。
日本軍の入城を喜ぶ保定市民(2)
『支那事変画報:第7輯』より。
日本軍が食料を配布したことに、日本の国旗を振って喜ぶ中国の難民
『アサヒグラフ』1938年9月7日号より。
南京の中国人孤児と仲良くなった日本兵
『アサヒグラフ』1938年1月12日号より。
中国の難民に、食パンを配る日本の憲兵
『支那事変画報:第7輯』より。
日本軍を歓迎する満州のロシア人
『満州・上海事変写真帖』より。
日本軍の活躍を祝う中国の子供たち
『支那事変画報:第7輯』より。
真実2
対米戦争は日本の正当な自衛権の行使
村山談話は、1941年の対米戦争も「侵略」としている。だが、この戦争の背景に、当時の新興国同士だった日米の覇権争いがあった事実を見過ごしてはならない。
19世紀中ごろ、日本とアメリカは内戦を経て国がまとまった。その後日本が台湾、アメリカがフィリピンを統治した辺りで、日米の衝突が運命づけられた。
他の国と比べて、中国大陸の権益争いに乗り遅れたアメリカは、大陸における日本の権益を奪うため画策。日本人移民がアメリカに持つ資産を取り上げるなど、人種差別政策を行った。
それでも大陸から手を引かない日本に対し、アメリカは、ABCD包囲網(注2)で経済封鎖。石油の約8割をアメリカから輸入していた日本は、資源が入らなくなり、国家的な危機に陥った。日本は生き残りをかけて、対米戦争を起こし、資源がある東南アジア地域に進出した。
つまり、アメリカが、覇権争いで邪魔になった日本を大陸から追い出そうとしたため、日本は戦わざるを得なくなったのだ。
事実、連合国軍最高司令官のマッカーサーは戦後、上院で「日本が戦争に突入したのは、主として自衛のためであり、やむをえなかった」と証言している。
(注2)アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)による対日経済封鎖のこと。4国の頭文字をとって、「ABCD包囲網」と言われる。日本に対する石油の禁輸措置や外国にある日本の資産凍結などが行われた。
真実3
英米蘭仏との戦争で植民地支配と人種差別を終わらせた
さらに、村山談話が間違っている根拠として、日本が戦った結果、欧米による植民地支配と人種差別政策が終わった事実がある。
当時、アメリカやイギリス、オランダ、フランスは長年にわたって白人優位の人種差別思想の下で、有色人種を奴隷扱いし、搾取・虐殺を繰り返していた。
一方、日本は台湾や朝鮮半島を統治したものの、アジアの近代化を進めようと、日本からの税金を持ち出し、道路や鉄道などのインフラ、行政や教育などの制度を整えた。進出した東南アジアでも現地に軍隊をつくり、独立を支援した(本誌54ページ参照)。
現在の世界地図を見れば、日本は戦争に負けたものの、その戦いが欧米の植民地支配と人種差別を終わらせ、アジアを解放したことは明らかだ。
「河野・村山談話」を無効とし正しい歴史に基づく新談話を
こうした歴史の真実を踏まえると、村山談話が自虐史観に満ちていることが分かる。
これと対照的なのが、一昨年の夏に大川隆法・幸福の科学総裁が出した「大川談話」(下)だ。
同談話では、「先の大東亜戦争は、欧米列強から、アジアの植民地を解放し、白人優位の人種差別政策を打ち砕くとともに、わが国の正当な自衛権の行使」として、「アジアの同胞を解放するための聖戦」としている。
安倍首相は、憲法改正のためには、歴史問題で国際社会、特にアメリカを刺激しないのが得策と考えているだろう。だが、日本人が正しい歴史認識を持たずに、憲法改正などできるはずがない。
安倍首相は戦後70年の今夏、間違った歴史観に基づく「河野・村山談話」を無効にする新談話を出すべきだ。
大川談話―私案―
(安倍総理参考)
わが国は、かつて「河野談話」(一九九三年)「村山談話」(一九九五年)を日本国政府の見解として発表したが、これは歴史的事実として証拠のない風評を公式見解としたものである。その結果、先の大東亜戦争で亡くなられた約三百万人の英霊とその遺族に対し、由々しき罪悪感と戦後に生きたわが国、国民に対して、いわれなき自虐史観を押しつけ、この国の歴史認識を大きく誤らせたことを、政府としてここに公式に反省する。
先の大東亜戦争は、欧米列強から、アジアの植民地を解放し、白人優位の人種差別政策を打ち砕くとともに、わが国の正当な自衛権の行使としてなされたものである。政府として今一歩力及ばず、原爆を使用したアメリカ合衆国に敗れはしたものの、アジアの同胞を解放するための聖戦として、日本の神々の熱き思いの一部を実現せしものと考える。
日本は今後、いかなる国であれ、不当な侵略主義により、他国を侵略・植民地化させないための平和と正義の守護神となることをここに誓う。国防軍を創設して、ひとり自国の平和のみならず、世界の恒久平和のために尽くすことを希望する。なお、本談話により、先の「河野談話」「村山談話」は、遡って無効であることを宣言する。
平成二十五年 八月十五日
「大川談話」は、『「河野談話」「村山談話」を斬る!』(大川隆法著 幸福の科学出版刊)に所収されている。
大東亜戦争は植民地主義・人種差別を終わらせた
元防衛大学校教授・元海将補
平間洋一
(ひらま・よういち)1933年、神奈川生まれ。防衛大学校電気工学科卒業後、海上自衛隊に入隊。退職後(海将補)、防衛大学校教授を経て、現在、太平洋学会や戦略研究学会などの理事を務める。著書に、『イズムから見た日本の戦争』(錦正社)、『日露戦争を世界はどうみたか』(桜美林大学北東アジア総合研究所)など多数。
大東亜戦争の歴史的意義を知るには、20世紀初頭の世界情勢を振り返る必要があります。
アジア諸国は長らく、欧米諸国による差別と植民地支配に苦しんでいました。そんな中、アジアで初めて近代化を成し遂げた日本は、欧米の支配に抵抗。アジア人は、欧米に対抗する日本に希望を託し始めたのです。
そのきっかけは、有色人種として初めて白色人種を破った日露戦争です。この戦いに勝利した日本を見たアジアの独立運動家は大きな衝撃を覚え、日本を頼りにします。例えば、フィリピン独立革命を起こし、後に陸軍の父と評されたアルミテオ・リカルテや、インドの独立運動家であるビバリ・ボースなどが独立の志を抱いて来日。日本は、独立運動家を次々に受け入れて支援したのです。
「日中戦争」が侵略ではない理由
東條英機首相が1943年に昭南島(現・シンガポール)を訪問した際、現地の子供たちから歓迎された(『アサヒグラフ』同年7月28日号)。
しかし、アジアに独立をもたらそうとした日本は、その後、「日中戦争」に突入。戦後、この戦いは「侵略」と言われています。その根拠の一つとして持ち出されるのが、1919年に大陸各地で起きた抗日の「五・四運動」です。
しかし、この運動の背後には、共産主義・ソ連の存在がありました。ソ連は東部国境の安全を確保するために、日中を戦わせようと色々な策略を講じました。これらの影響で反日運動が過度に盛り上がり、さらには日中の和平交渉も干渉されて挫折。日中は、ソ連の安全確保のために戦いを続けさせられたのです。
また当時、日本が統治していた満州では、出稼ぎ目的の朝鮮人が多く流入。現地人との争いが絶えませんでした。31年7月には、水路の工事をめぐって、朝鮮人と現地人が小競り合いになり、介入した日本の警察と現地の農民が衝突(万宝山事件)。さらに、朝鮮人の怒りが飛び火して、朝鮮半島の中国人街が襲われました。
しかし、中国側は一方的に日本の"仕業"として批判。その後も、日本軍人が国民党軍に殺される事件などが起きたため、日本の対中感情は悪化し、「日中戦争」が起きました。
つまり、「日中戦争」が起きた背景には、ソ連の工作や中国側の思惑があったのです。大陸での日本の戦いを「侵略」と断じるのは一方的です。歴史を見る時は、出来事が起きた原因を冷静に分析する必要があります。
大東亜戦争当時、スリランカの状況を知るソマシリ氏に話を聞いた。
スリランカは欧米と戦う日本に共感していた
元スリランカ海軍少佐
ソマシリ・デヴェンドラ
1932年、スリランカ生まれ。高校教師を5年間務めた後、海軍の教育訓練部門に入隊。海軍兵学校部隊長を務めて退役。最終階級は海軍少佐。現在、海洋考古学者。
私の生まれたスリランカはもともと、19世紀にイギリスの支配下に置かれていました。
その間、イギリスは長らく権威があった仏教の力を削ぐため、キリスト教の宣教師が運営する学校を建設するなどして宗教を弾圧。同時に、神学校で学んだ人だけが政府の職を得ることができる体制を続けていました。これに危機感を覚えた仏僧のアナガーリカ・ダルマパーラは、衰退した仏教を再興する運動を起こしました。
そうした中、日本は近代化を進めて日露戦争に勝利します。これを受け、ダルマパーラは「アジアを救うことこそ日本の役割」「同じ仏教国である日本はスリランカのパートナーになり得る」などと考え、日本の工業力を学ぶため、日本に留学生を送りました。
その後、第二次大戦が始まると、日本海軍は1942年にスリランカのコロンボとトリンコマリーに停泊していたイギリス軍艦を攻撃。スリランカ上陸こそ行わなかったものの、イギリスの力を弱めました。
スリランカの多くの仏教徒は、日本が同じ仏教国であるため、同情していましたが、日本の攻撃によって失望したのも事実です。
「日本のおかげでアジアは愛国心を持てた」
スリランカでは、第二次大戦を戦った日本への評価は二つあります。
一つ目は、この戦いが反植民地運動であったということです。イギリスに支配されていたスリランカ人は当時、反英感情を持っていたので、欧米に対抗する日本に共感を感じていました。
もう一つの見方は、日本の行動は欧米の植民地主義と変わらないというものです。ただ、私が子供の時、シンガポールのラジオ局から「私たち(日本軍)はあなたがたの友人です」という放送を聞いたことがあります。プロパンガンダに過ぎないという意見もありますが、日本がスリランカに好意的だったのは間違いありません。 45年、仏教学校の学長であった私の父は、戦勝国の関係者などが集まった「対日戦勝記念日」の式典で、こうスピーチしました。
「私たちは日本によって得たものがあります。それは愛国心という心でした。日本によってすべてのアジアの国々にもたらされたのでした。私たちは日本に、このことを感謝しなければなりません」
また、日本が国際社会に復帰を果たしたサンフランシスコ講和会議の際にも、スリランカの財務大臣、J・R・ジャヤワルダナは、仏陀の言葉である「憎しみは憎しみによって止むことはなく、愛によって止む」を借りて、日本が自由な国になれるように支援すべきだと訴えました。
日本の工業的・軍事的成功は、アジア諸国の独立を後押ししました。スリランカ国民は、独立のきっかけをつくってくれた日本に感謝しています。(談)
日本の理想を引き継いだバンドン会議とASEAN
日本が侵略主義でなかった根拠として、43年に東京で開かれた「大東亜会議」(注3)があります。同会議では、共存共栄や独立尊重、互恵提携などの五原則を内容とする「大東亜共同宣言」が採択され、アジア人によるアジアの連携が初めて形作られたのです。
実は、この宣言は戦後のアジアにも影響を与えました。55年、独立間もないアジア・アフリカ29カ国はインドネシアで、反植民地主義を旗印にした「バンドン会議」を開催。この会議で出された宣言の内容は、基本的に大東亜共同宣言と同じものでした。
また、日本が戦時中に受け入れた東南アジアの留学生(注4)の一部が、マレーシアやインドネシアで会合を持ったことで、後の東南アジア諸国連合(ASEAN)が創設されたのです。
一方、大東亜戦争の戦勝国である英米などは戦後、国際連合を創設しますが、国連憲章の中に人種平等の理念が加えられているのも、大東亜共同宣言の影響を受けたためです。実際、開戦前にまとめられた構想には、人種平等の文言はなく、大東亜会議が開かれた後に、人種平等の理念が付け加えられました。
大東亜戦争は、アジアから植民地を一掃し、有色人種への差別をなくしたばかりか、バンドン会議やASEANの結成、さらには国連にも影響を与えた戦いなのです。現代の日本人はそうした歴史の真実を誇りとすべきです。(談)
インドを独立させた大東亜戦争は聖戦だった
http://the-liberty.com/article.php?pageId=1&item_id=9657
元インド国民軍女性部隊少尉
バーラティ・アシャ・チョードリ
1928年、兵庫生まれ。神戸の小学校を卒業後、昭和高等女学校(現・昭和女子大)に進学。在学中、インド独立運動の指導者チャンドラ・ボースがインド国民軍を結成したことを知り、インド国民軍女性部隊に入隊した。
当時のインドは長らく、イギリスの植民地支配に苦しんでいました。そこで私の父アナンド・サハイは、チャンドラ・ボースとともに、独立運動に奔走。この関係で、私は日本の神戸で生まれました。
17歳の時、ボースに入隊を希望する意思を伝えると、「花のような娘たちが戦えるか」とあしらわれました。とっさに「私たちが国のために死ねるのを閣下は知らない」と切り返すと、ボースは入隊を認めてくれました。
「アジアは一つなり」
1945年3月、ついに私はインド国民軍がいるタイに向かいました。その途中で台湾を経由した時、泊まった旅館で、日本の特攻隊員が酒宴を開いていました。聞けば、明日特攻するとのこと。その一人の草場道夫大尉は、私の目の前で手ぬぐいを取り出し、「アジアは一つなり。インドは必ず独立する。あなたたちの前途を拝みながら行きます」という文字を大きく書いてくれました。
翌朝、陸軍の飛行場に行くと、私を見つけた草場大尉が、「しっかりと突撃してくるから、祈っていてください」と敬礼。飛行機に乗って、上空を3度旋回して「サヨナラ」と挨拶し、出撃したのです。この出来事は、今でも忘れられません。
その後、私はタイに到着し、インド国民軍に入隊しました。日本から愛国心を教わった軍の中では、6カ月間、銃の撃ち方や隊列の組み方などの訓練を受け、その間、カーストによる差別や宗教の壁も感じませんでした。
しかし、ちょうどそのころ、連合軍がタイに上陸して、私たちのキャンプ地を占領。日本は原爆を落とされ、降伏しました。私は、日本が勝つと信じていたので、敗戦を受け入れられませんでした。
日本軍による中国の派兵に侵略の野心はない
戦後、私は訪印した今上天皇に謁見することができました。その時、陛下は「日本のために戦ってくれてありがとう」と仰り、握手もしてくださいました。本当にありがたいことです。
大川談話には、「大東亜戦争は、アジアの同胞を解放するための聖戦」とありますが、本当にその通りです。聖戦でした。
しかし戦後の日本は、外国に謝罪してばかりです。「日本はなぜ謝るのか」「何を悪いことをしたのか」と怒りが込み上げてきます。中国大陸への派兵も、侵略の野心は感じませんでした。日本軍は、アジア各地で欧米に支配されていた国を独立させていったのです。
日本人の精神は昔も今も気高く、だからこそ今の日本は発展しているのです。(談)