まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

鶴岡まちキネ(english)

2010-07-30 15:29:04 | 民間建築 Private Sector Building

Tsuruoka Cinema Complex

 

Revitalization project in downtown Tsuruoka

 

 

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Tsuruoka Cinema Complex is the revitalization project in downtown Tsuruoka. Tsuruoka is a small castle town located in the northern part ofJapan. Tsuruoka Community Development Company, a social enterprise established to invest in  revitalization projects in the downtown, decided to build a cinema complex on the  former silk factory site in the midst of the town. 

 

 

 

 

 

The resolution to convert the old wooden factory into movie theaters

 

There were 8 buildings on the site including two old wooden buildings. After finding a roof frame, behind the ceiling, made in trussed structure of beautiful wood, we dared to propose that the two old silk factories were not to be torn down but to be converted to the movie theaters, while there had been few conversion projects of the wooden buildings in Japan because they had been wrongly believed to be difficult to sustain. Since then we started to design the unique cinema complex characterized by exposed wooden structure that had supported the heavy load of snow fall for 80 years and the atmosphere that reminds us of the old silk factory and the golden years when this town was prospering in silk business. 

 

 

 

 

Added RC structure to existing wooden framework

 

Theater floor made of RC slab and sound insulation walls were added carefully to the existing structure. And we installed acoustic wall overed with wooden louver that symbolizes the warp and woof of silk texture.

 

Noise level is kept down and noises originating within theaters do not transfer to the outside of the building. 

 

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Featured trussed structure made of wood

 

Trussed structure was exposed for the visitors to see. Repeated trussed girders seen from the lounge produce a sense of movement and create an impressive effect. Beams are lighted by the skylight installed to admit daylight to the entrance hall and lounge and we feel an expanded impression of space here.

Walls are finished with cedar strips jointed in tongue and groove shape as were the original buildings we supposed to be. And floor board is chestnut. 

 

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高谷時彦記 Tokihiko Takatani


富士吉田御師の町(その2)

2010-07-25 21:02:41 | 建築まち巡礼大学院 Research Tour

続きです。

<御師の屋敷>

宿泊した大国屋と見学可能な外川家の御師住宅を見ました。

 

表通りにはタツミチを示す門があるのみです。こちらでは、貫きや笠木のないこのような門を冠木門と呼んでいます。現在は石で出来ていますが、これらの多くは大正時代前後に講の寄付で作られたものです。表に面した宅地が分筆された時点で冠木門が必要になったように思われますが、おそらく長く木製のものが使われていたのではないでしょうか。

 

またタツミチの終わりには御師屋敷の入り口を示す中門と呼ばれる門があります。 

 

 

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外川家の門です

 

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このように立派な長屋門もあります

 

その先は庭ですが、東西方向に細長く南にいくにつれて高くなる雛壇上の敷地の中をヤーナ川という水路が流れています。敷地の高低差を利用して滝が設けられていますがここが、禊場だったそうです。

 

 

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大国屋のヤーナ川。滝も見えます。

 

 屋敷は四間取りの民家建築が基本になっているように思えます。戸川家のように間口が狭い場合には2列6室が縦に並び、大国屋の場合には間口と併行な桁行き方向となっています。

 

<河口にも御師住宅>

北口から登拝するのに中部方面の道者は河口(川口)を利用したため、川口にも御師の町がありました。歴民博だより、2008.03によると、一時は140を越える宿坊があったそうです。

興味を引かれるのは、まち割りの方法が河口でも同じであったことです。タツミチと短冊状の敷地割りは今でも残っているそうです。中門の富士吉田と同様の位置にあります。

以上備忘録として合宿調査の内容を記しました。手向の街なみを考えるうえで大いに参考になったように思えますが、河口や富士吉田を含む御師の町についてはきちんとした研究がなされていますのでこれから勉強していく必要があるようです。

 

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高谷時彦記 Tokihiko Takatani


富士吉田の御師の町(その1)

2010-07-25 20:48:22 | 建築まち巡礼大学院 Research Tour

私たちの研究室では羽黒手向の宿坊町についての研究提案を受託しています。その中では手向の宿坊集落を他の宿坊集落との比較の視点で捉えることも必要となります。そこで今回は、研究室メンバーで富士講の宿坊集落富士吉田の御師の町で合宿を行い、御師の街なみやくらしの実態を調査しました。

 

 

吉田の富士講の旦那所(御師が世話をする檀家のある場所)は関東一円に広がっており、出羽三山の羽黒・手向の関東旦那場とも重なり合っています。実際今回の視察で見学した御師外川家の旦那所である千葉県では富士講(浅間講)と同じように(出羽)三山講が盛んだったようで(富士吉田市歴史民族博物館だより、2006.10)、ある意味ではライバル関係にあった土地にお邪魔したともいえます。

 現地では、721日に御師の家大国屋に宿泊し、もと富士吉田市の職員で歴史資料の収集などにも尽力されてきた御師田辺四朗氏のお話を伺いました。翌22日には財)ふじよしだ観光振興サービスの小山田さんの案内で一日をかけて御師の街なみ、御師の家旧外川家、富士吉田市歴史民族博物館(以下歴民博)を見学しました。歴民博では学芸員の方に御師の街なみを中心に解説していただきました。 

 ここでは、備忘のため見学した内容などをメモしておきたいと思います。

 

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町を歩くと御師の屋敷を示す門があります

 

<信仰の山・富士山>

御師宿坊を理解する前提として富士山信仰のことを簡単に記します(この項目は主に歴民博学芸員氏の解説、歴民博旧外川家住宅パンフレットの記述によります)。

富士信仰の当初の形態は麓から山体を仰ぐ遥拝信仰でした。後に平安以降仏教の影響で修行の山となっていきます。仏教的な見方が強かった頃は、山頂も8つの峰に8つの仏を割り当てそして中央に大日如来を置くと89尊という密教曼荼羅に対応した捉え方がなされていたそうです(今お鉢めぐりといわれるお参り方はもともと8葉巡りのこと)。その後阿弥陀信仰の拡大に対応して、山頂に極楽浄土を見るという考え方が流布します。阿弥陀如来の来迎する場所として山頂を見るわけです。これは庶民に分かりやすく、富士山登拝の大衆化と併行した現象であったと思われます。

その後江戸末期から神道色が強まり、頂上の象徴としても木花開耶姫命(富士本宮浅間神社のご神体)が描かれたりしますが、明治の神仏分離令によりさらに仏教色が消えていくことになります。しかし、山頂に極楽浄土を見るという浄土信仰のような分かりやすさがなくなったことは事実です。そもそもは富士の山体そのものが遥拝対象であったわけですが、現在では神道であがめられる太陽を富士から拝むという形式に庶民は意味を見出しているのかも知れません。時代とともに富士信仰のあり方も変化しているのです。

 

<上吉田宿の成立>

富士山信仰が一般化し富士山登拝が庶民のものとなるのは室町以降であり、江戸時代後半の富士講の隆盛により多くの道者が富士を目指すようになります。富士山への登拝口は現在と同じように4口以上ありましたが、関東からの道者は甲州街道から大月を経て吉田口から登拝することが基本でした。江戸の富士講の盛んな時期には富士北口に当たる吉田口から登拝し、帰りは東口の須走におり御殿場に抜け大山経由を取ることが流行していたようです。

 富士吉田の町には「富士講の最盛期だった江戸末期から明治の初期にかけては86軒の『御師宿坊』があり、「辺りは道者で大変にぎわった」といいます(富士吉田市パンフレット、ふじよしだ歩楽百景)。御師とは「浅間神社の神職を勤めながら、信仰目的で富士山に登る「道者」の案内や宿泊を賄った人」であり、私たちがお世話になった大黒屋も御師宿坊のひとつです。

 

 

 

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320~350年前に建ったという立派な屋敷

 以上のように見てくると、富士登拝の隆盛にあわせて本宮であり登山口である北口浅間神社の門前に自然発生的に作られたのが宿郷町・吉田町と考えそうですが、実はこの町は極めて計画的につくられたまちなのです。

 

 御師田辺四朗氏も開口一番に話してくれましたが、上吉田の集落は元亀3年(1572)今より何キロが東にあった古吉田から現在地に移転してきました。理由は雪代の害を避けるためです。雪代の害を避けるためには浅間神社の正面の地も避けられました。それで上吉田のまちの中心軸である表参道が浅間神社の参道の軸と大きくずれているのです。またこの町は東西に間堀川、神田堀川という堀(堀と呼ぶのは普段はあまり流れがないためで、常に水のあるモノを川と呼んだ)を持っており、上、中、下の三宿からなる上吉田まちの中央部の中宿には土塁や堀があったそうですから、防災だけではなく防御も考慮してつくられているようです(歴民博だより、2010.03)。

 

<宿坊まちの町割り>

上吉田の町は後に拡張された下宿を含めると南北方向に1.1キロほど街なみが続きます。

 南北方向(富士に向かう方向)の表参道をはさんで、両側に奥行き80間(旧外川家)前後の東西方向に細長い敷地割がされています。間口方向は大国屋さんのように16間余りあるものもありますが10間に満たないものもとくに新しく拡張されて出来た下宿には多く存在しています。

 

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町割り図を地図に合成してみました

 

 御師の敷地は先ほど述べたように南北方向の2つの堀にはさまれています。上吉田地割図(歴民博旧外川家住宅パンフレット)のよると上、中宿の西側の宅地は神田堀にまで到達していますが、東側は間堀川まで到達していないように見えます。しかし、御師田辺氏の話では大国屋の敷地は間堀川までということでしたので、宅地ではなく農地として分割されていたと思われます。

 

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学生が歩いているのがタツミチです

 

 特徴的なのはタツミチです。タツミチとは2間前後の幅の、表の参道から奥の屋敷までの細長い引き込み道です。今で言うと旗竿敷地ということになります。これは、当初の短冊状の敷地の内、参道に面した部分を次第に使用人や強力(富士登拝には4人に一人の強力が必要です)の人たちが使用権そして所有権を獲得していったことによるそうです。江戸時代の前期にはすでにタツ道を除いて分筆が進み参道に面した宅地が出来ていたようです。当初は奥にいる御師から分けてもらった宅地ということでしたが、参道に面しているということで表にいる人たちのほうが経済的にもうまくいくようになってきたようです。また、後には参道に面した土地が御師の家となることもあったそうです。それは御師から株を買ったり旦那場の権利を買って御師になったりすることがあったからで、奥に屋敷を構える本御師と区別して参道に面した屋敷を持つ御師を町御師と呼びます。

 

 

 

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コーヒー店を開く中雁丸は町御師です

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高谷時彦記 Tokihiko Takatani


暑い日差しの中手向を歩きました

2010-07-19 18:38:07 | 建築・都市・あれこれ  Essay

今年も羽黒・手向のまちなみにつきあう機会が与えられました。今までは五重塔に近い桜小路を中心に見ていたので今日は亀井町や松原町のほうも見ておきたいと思い、ぶらぶら歩いて見ました。

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桜小路が土塁と冠木門が道路際を形成しているのに対して下の町では木の塀が目に付きます。土塁は桜小路にしか許されていなかったためですが、こうやって眺めると建築そのものに特徴があるというよりも塀や土塁、門、植栽と建築が一体になった風景が手向のまちなみの総合的な特徴を作り出していると感じます。何を持って手向らしさとするのか、そのあたりを今年は考えて見たいと思っています。

一方、現実的には駐車場をどうするのかがまちなみにとって重要であることは変わっていません。下の写真のように大変気を使って駐車場を作っているお宅もありました。家への導入の仕方も大変たくみです。ある程度の間口と一台分という条件の下ではデザイン方法が力を発揮しそうです。今後とも考えていくつもりです。

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高谷時彦記 Tokihiko Takatani


豊洲の風景

2010-07-19 18:16:31 | 建築まち巡礼東京 Tokyo

都市環境デザイン会議の総会が豊洲の芝浦工大で開催されました。豊洲は地下鉄駅上の住友ビルが出来たころに行ったきりで久しぶりでした。

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駅を降りるといきなり日本とは思えない都市景観。行ったことはありませんが、シンガポールのような感じ?いやシンガポールはもっと緑が多い、とのこと。大阪のビジネスパークや豊洲のような大規模工場や造船所跡地の再開発はこういう風景になるということでしょうか。

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大学も立派な構え(上の写真)。デファンスのように都市軸を意識したのかと思い階段を上っていきましたがそういう壮大なものではないようでした。北側には運河があり、ほっとします。

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上の写真は同じく造船所跡地を大規模に再開発したロンドンのキャナリーワーフですがやはり運河に出会うとほっとします。

 

 

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