まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

現代のまち並みをどう考えるのか(2)

2011-08-30 23:20:58 | 建築・都市・あれこれ  Essay

私たちの目の前にあるまち並みは、今突然出来たものではなく、「今までのまち並みが置き換わってきて形成されたもの」あるいは「かつてのまち並みが置き換わりつつある過程」と考えてみましょう。そうすると、深谷の昭和30年代の写真(ブログ2011.8.27)のように、それなりに美しいバナキュラーなまち並みを構成していた建築が一つ一つ置き換えられてきた結果が今のまち並みということになります。

    

もし現代のまち並みが美しくないとすると、私たちは、今まであったものよりも美しくない建築を作り続けてきたということになります。これが、まち並み問題の本質のような気がしています。

   

念のために補足すると、かつてあった美しいまち並みを構成してきた建築を「残さなかったことが問題」ではなくて、以前より「醜い」建築で置き換えてきたことが問題なのです。

    

まち並みというものはくらしや時間とともに常に変わり続けるものですから、決して「昔あった美しい街」をそのまま残すというのは無理だと思います。以前そこにあった建築より「美しい」建築をつくればよいのです。もちろん「美しい」建築は周辺との調和や歴史への尊重が十分考慮されたものである場合が大多数でしょう。

  

もし、今から置き換えようとする建築が以前より「美しい」という確信が持てない場合には、今そこにある建築をとりあえずはそのままおいておくことが望ましいでしょう。

  


現代のまち並みをどう考えるのか

2011-08-27 15:32:26 | 建築・都市・あれこれ  Essay

今仕事で関わっている深谷宿中仙道の昭和30年代のまち並みです(写真は深谷郷土文化保存会『深谷の昭和史』p47)。

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 細長い短冊形の敷地割のうえに江戸時代以来ひとつの型となっている町家建築が並びます。平入りの店構え、通り土間がおくに伸び、座敷や納戸、台所などが並ぶものと推測されます。一部に立派な棟飾りを載せた土蔵造りなども見られますが、とくに豪壮ななまち並みというわけではないようです。しかし、同一の建築形式を守りながら地域の技術、地域の材料、地域の人によるバナキュラーな建築が並ぶことで美しいまち並みとなっています。

    

 こういったまち並みは決して固定的なものではなく、常に建て替えが進みつつも、基本的には地元の大工さんがつくったことでしょうから、周りと同じような建築の形式や材料が継承されていたのでしょう。

   

 また、こういった地元の大工さんがつくるものとは別に、その時代のハイスタイル建築もあったことでしょうが、それは当時は少数であった建築家により、大変丹精をこめて設計されたものであり、それなりにバランスがとられていたものと思います。   

 

 仮にうえのようなまち並み再生産の社会システムや技術、生産の体系が継承されていれば今頃日本は伝建地区(伝統的建築物保存地区)クラスのまち並みだらけだったことでしょう。

  

しかし実際にはそうなっていません。上の写真にみる昭和の中期以降どういうメカニズムがまち並みの変化に働いていたのでしょうか。

    


久しぶりに多摩ニュータウンへ

2011-08-15 18:58:43 | 建築まち巡礼東京 Tokyo

久しぶりの休み。

家内と二人、車で多摩ニュータウンに出かけてみました。

途中で御嶽塚古墳の整備後の姿を見るため西府駅前に車を停車。

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6,7世紀頃の上円下方墳とのこと。円は宇宙あるいは天上の世界、方形は地上世界を象徴していると聞いたことがあります。

頂上付近にはかわいい小さな祠がおかれています。聖なる場所であることを、目立たない小さな祠とそれを優しく覆う木々がシンボライズしています。

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関戸橋で多摩川を渡り、まずはH団地へ。

近隣センターの商店街に車を止めます。商店街は、お盆の故か人気がありません。シャッター街でなければいいのですが。

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正面に見える足場は建設中の老人ホーム。H団地は多摩NTの中でそれほど古い団地ではないと思いますが、NT全体の高齢化はこういうところでも感じられます。

隣接する図書館へは人の出入があります。が、ご高齢の方々が多そう。

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あまりに暑いので私たちも中で一休み。やはり、ご高齢の方々の施設が中心にあります。

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さて、多摩NTは歩いて暮らせる広がりを想定し、その広がりの集合としてまちをつくった典型的な事例です。日常生活の暮らしの広がりの中にはできるだけ車をいれず、施設の配置も歩行圏を前提として組み立てられています。

まず、住宅地の外周部を走る幹線道路があります。地形を巧みに活かして通過交通の多い道路を丘の住宅地と分離しています。ここにはバス停もありますが今となってはこの段差がきついかもしれません。

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こういった道路から住宅地内に引き込まれる道路は少しずつ歩行者のスケール感を持っていきます。

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更に住区の中央部分は車から完全にわけられた歩行者専用道路です。生活に必要なお店や公益的施設もこの歩行者専用道に面して配置されています。

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いまや樹木も豊かに育ち、大変快適な散歩道です。

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セミの天国のようです。

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この道をたどっていくと先ほどのセンター商店街に出ます。

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車社会の進展で、歩いてアクセスすることを前提につくられた近隣センターの衰退が指摘されて久しくなっています。しかし、高齢者にとっては、歩いていけるところにお店や図書館、郵便局があるということは暮らしのために不可欠の条件になります。いま、どのように使われているのか、今度はお盆ではない、週末に来てみる必要がありそうです。

      

このあとN団地のセンターにも立ち寄りました。

ここの商店街もお盆休みでした。

商店街と公園が隣接しているため、買い物のあとちょっと休憩ということもできそうです。

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ところで、話しが飛びます。

      

都市計画家や建築家から酷評されたアメリカのレービットタウン。ひたすら車に便利なようにつくられ、当時の近隣住区理論や歩車分離の計画理論とも無縁でした。玄関からすぐに車に向かい、まちで歩くこともなく、人と出会うこともない、ライフスタイルは近隣生活のない寂しく孤独な人々の住宅地を生み出すはずでした。しかし、必ずしもそうとばかりはいえないようで、建設後50(?)年を経た緑豊かな住宅地では近隣コミュニティもしっかりと形成されているという報告もあります。

      

翻って、レービットタウンとは対極的に、コミュニティの形成や歩いて暮らせる快適性をきめ細かく考えてつくったH団地のようなニュータウン。皮肉なことにこちらは、車社会をあまりにも無視した「歩いて暮らせる近隣」をつくろうとしたことが、近年問題として指摘されてきました。

      

確かに必要な施設や機能は変わる、また人の付き合い方も変わる。しかし、丁寧につうられた都市基盤のしっかりしたこの町は、きっと新しい社会のいれものとしても十分上手く機能していくのではないか。・・緑豊かな歩行者専用道路沿いにつくられているデイケア施設や老人ホームの仮囲いに沿って歩きながら、そんなことを考えていました。


ウルビノを訪れる

2011-08-09 00:53:53 | 海外巡礼 South Europe

私たちの世代にとってジャンカルロデカルノは混沌の時代を颯爽と吹き抜ける風のような存在といってよいかもしれません。

      

過去や歴史と決別したかのようなCIAMの路線に対し、自ら歴史的市街地というコンテクストの中で保存と創造を実践して見せたということ。その毅然とした立ち姿に時代のヒーローを見る思いだったような気がします。

     

彼が実践の地として選んだウルビノに来月行くことになりそうです。

 

    

  

古いSDのデカルロの特集号を読み返してみました。槇さんの論評があります。ここでも槇さんはすごいと思わせます。

    

 

チームⅩでの個人的な出会いの話かなと思わせる出だしの文章。しかしそれはその後の普遍的な議論が彼の身体感覚から決して離れていないということの裏づけに過ぎないことがわかります。論はあくまでも普遍的、通時代的なパースペクティブを持っています。  

   

「建築設計を単に職業的なレベルで打ち込む人は数多い。しかし、建築を彼のように幅広い形で展開していくことは決して容易でない。それは単に建築を設計するのではなく、<建築を行う>ということを意味している」

    

「・・・歴史をつくる行為は単に旧くあったものをそのまま保存し、再現する事ではなく、むしろ過去の中にあった理想を現代のものとして、どのように新しく解釈し、表現するかにあるという」

    

   

わたしも最近絹織物工場を映画館に再生活用するプロジェクトに携わりました(鶴岡まちなかキネマ)。本当に悩み多きプロジェクトでした。古い建築の活用を提案したものの、単なる過去の再現にはしたくない。どうするべきか。

 

   

   

そこに必要だったのは、当時の人びとが具体的にイメージすることの出来なかった夢を見つけ、現代の技術で表現することだったのだと思います。それが出来たのかどうか。まだまだ、自問自答の日々が続きます。