久しぶりにマンフォードのエッセイ集を読みました。『現代都市の展望』(The Urban Prospect)中村純男訳、鹿島出版会 1973。ずいぶん古い本です。
マンフォードの著作は『都市の文化』ぐらいしか、きちんと読んでいないかもしれないですが、一言でいうと難解な印象。論文的な書き方ではなく、比喩や揶揄など織り交ぜた文章、しかも博学。なかなか理解するのが大変です。
ただ、数年前の生誕100周年で、再びブームとなったJ.Jacobsとの意見の違いなども頭にあったもので、ふと手に取ってみたものです。この本は、エッセイを集めたもので、それぞれのテーマが設定されているので、少しは読みやすく感じました。
<J.Jacobsに対する評価>
「高層+広場」のCIAM的都市像に対して果敢に挑戦したことは大いに評価しています。Jacobs同様、近代都市計画の権化であるモーゼスのやり方に対しては、マンフォードもNOを突き付けています。
また、CIAM的な単純な見方と比較してということでしょうが「都市問題を複雑な組織体ーいまだ検討されてはいないが明らかに複雑に結び合い、確かに理解可能な相互関係を一杯に秘めて息づいている組織体」として捉える見識を評価しています。
しかし、その勢いで都市生活の愉しさを否定するものとして田園都市のハワードまで否定する彼女の態度には疑問を呈しています。マンフォードにしてみるとJacobsの有名な4原則は、一部の真実はあるにせよ、普遍性を持つ理論にはなっていない。大都市において高密度(4原則の一番)がもたらす負の側面を全く見ずに、彼女自身の住まいであるグリニッジビレッジの状況から、すべての大都市の在り方を論じることに、彼女の限界を見ています。
エッセイのタイトルは「都市癌の家庭療法」。JacobsもCIAM的なスラムクリアランスを都市の瀉血治療として一蹴(『アメリカ大都市の死と生』)しているので、痛烈な皮肉になっています。
<建築家や都市計画家の都市像に対する評価>
コルビュジエの提唱する「高層住宅+広場」の都市像は、一見高密居住と都市居住に必要なオープンスペースの課題を解決したように見えるが、高層ビルの中は過密、また広場は過疎。結局一番大事な社会的な交流の場所、機会が提供されないところに根本的な欠陥を見ています。
F.L.Wrightのブロードエーカーシティも自動車依存のまち、支援なき郊外での孤立、やはり社会的な交流がないことが大問題ととらえています。
ミースに対しても、本人の作品は別としても、都市をつまらない箱で作るというアイデアを広めたとの評価です。
ドクシアデスやゴッドマンなどの大都市の巨大化(メガロポリス、エキュメノポリス・・・)を肯定するような見方にも反対です。
<基本にある近隣住区のコンセプト>
マンフォードの都市理解の基本にあるのが、クラーレンスペリーらによる近隣住区理論です。近隣住区理論は生活に必要な施設をそなえた数千人の居住単位で都市を構成していこうという考えで、日本のニュウータウンづくりの基本的な考えになっています。
しかし、当初から、批判もあり、有名なところではC.Alexanderの "A city is not a tree"のように、小さな単位をツリー構造に積み上げて都市を理解することへの根本的な誤謬性の指摘もありました。
ただマンフォードは、画一的、自己充足的で圏域として閉じたユニットとして近隣住区をとらえているわけではありません。大都市でも自分の帰属意識のある小さな近隣ー例えばパリであればカルチェーの集合でできているという観察に基づいています。「同じ場所を共有するということは多分最も始原的な社会の絆であり、隣人の目の届く範囲に暮らすことは最も単純な形態の交際」であるという単純な事実から出発しています。そういう自然の絆が持てないような郊外の誕生、既存都心部が金持ちの高層マンションと、貧困層のスラムに二極化して社会的排除(Social Exclusion)の場になっていること、或いはコルビジェなどの都市像がそういう自然な交際を生み出せなくしてしまうということに危機感を持っているのだと思います。
都市における市民社会は、目的を共有するゲゼルシャフト的な側面を強く持つようになっていますが、それにしても空間的な条件からくるゲマインシャフト的なつながりがないと成立しないということを言っているのです。
近隣住区理論はその絆を実感させる基本的な大きさや絆を象徴する建築、また広場や学校などの配置を分かりやすく示したものといえるでしょう。また、同時に公園や集会所のような自然に集まる場所をうまく用意しておくことが、社会的なつながりを成立させる要諦だと考えています。
そしてこの近隣住区が快適な環境であるためにはJacobsが推奨する高密環境でもいけないし、CIAM的な建物内の高密と足元広場の低密(過疎)が並置されているのもよくないわけで、適度に密集(都市的な環境)して適度に空き(田園的環境)があるという状態を目指しているのです。
こういった、都市的な社会生活と、田園的な環境を併せ持ったものとして、マンフォードはハワードの田園都市を高く評価しています。確か、ハワードの『明日の田園都市』に寄せた序文の中では、20世紀の2大発明の一つとして田園都市構想を紹介していたと思います(もう一つは飛行機)。
<都市へのまなざし>
Jacobsの項では触れませんでしたが、彼女の歴史的建築物に対するそっけない態度や建築の集成からなる都市空間に対して美を求めない態度にも、マンフォードは違和感を持っています。Jacobsの4原則の中の「古い建築の必要性」は、安く気軽な利用ができる建築があることが起業活動などに有利だという視点であり、『アメリカ大都市の死と生』の後半(黒川紀章さんの訳では前半しかありませんでした)でも、都市空間を審美的な観点で見ることを否定しています。
翻って、マンフォードは都市を人間が作り上げた文明、文化の象徴として捉えているように思います。当然、都市にある建築も文明、文化の需要な媒体です。
例えば、既存のまち並などを簡単に壊そうとするコルビジェの発想に対して「・・変化の只中にあても豊かで多様な文化を持った過去との眼に見える構造上のつながりを維持することによって未来を豊かにしていく」のが都市の主要な役割であると述べています。
また次のような一連の言葉の中に、都市空間に対するマンフォードの期待を読み取ることができますし、その期待を裏切るような現実に対しての憤りの深さも慮ることができます。
「人間の強調を最大限に達成して創造的過程の全体をより永続的で眼に見える形態に結晶させる仕組みとして都市をとらえる」
「都市の本質とは・・・・・人間の多くの活動を一か所に集中させ、これを象徴的に拡大して、人間の条件と人間の展望との真の性質を、眼に見える形に表すことができる力」
「均衡を得た組織体であり、また統合された構造物でもあり、多様性の中にも統一を失わず、変化の中にも連続性を失わないものとしての都市」
以上は人口拡大・都市集中・都市拡張の時代の、しかも大都市の話です。これが人口減少・郊外拡散・多孔質化の現代の、地方都市にも役に立つでしょうか?
私は、マンフォードが言うように都市の仕事とは「多数の住民が混じりあって相互に働きかけ、経済的物品や技量はもちろん、人間的便宜と適性をも交換し合い、頻繁な接触と協調によって、他の手段では衰退してしまうような多くの共通の興味を刺激し、また強めて行くために好都合な機会を最大限に提供していくこと」とすれば、時代を超えて彼の主張には聞くべきものがあると思います。
この「都市の仕事」をうまくなすために必要な環境を近隣住区とすれば、近隣住区理論は今も有効だと思います。ただ、既存都市空間の有孔化を前提にした場合には、新しくつくって行くNeighborhood Unitではなく、既存の都市空間の中に多重、多層に作り出していくNeighborhood Likageが有効ではないかと考えています。
Neighborhood Likageは近隣的な繋がり、それはリニアな広場道を介在するオープンエンドなつながりです。散歩道を共有する緩やかなつながりといってよいかもしれません。現代の地方都市中心部に生まれる孔、非定型のオープンスペースの共有をもとに人々の社会的なつながりを生み出していくNeighborhood Likageーこのことについて次回考えてみたいと思います。
高谷時彦 建築・都市デザイン
Tokihiko Takatani architecture/urban design