まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

日韓都市デザインフォーラム2021 Japan-Korean Urban Design Forum

2021-11-30 10:03:55 | 講義・レクチャー Lecture

日韓都市デザインフォーラムで鶴岡、酒田の歴史的資産を使ったまちづくりを報告する機会をいただきました。日韓都市デザインフォーラムは都市デザインの専門家がお互いの知見を交換し、議論していく場として設けられています。日本では倉田直道先生や、国吉直行先生、吉田慎悟先生など日本の都市デザインをけん引してきた方々が主催されています(TDA)。韓国側はイ・ソクヒョン先生はじめ、大学や自治体、研究機関の研究者、実践者が中心の組織です(TUDA)。

韓国側の報告は仁川、郡山、ソウルなどを題材に、デザインと市民参加(市民主導)で社会問題を解決しようとする事例を見せていただきました。デザインや市民参加に対する官民、研究機関を上げての取り組みがうまく軌道に乗っているように感じました。日本では、横浜や金沢のような一部の都市以外では、なかなかそこまでの取り組みはないのではないかという印象を持ちました。

また日本側からは鹿児島大学鰺坂先生の麓集落の修復事例の報告がありました。以前から資料などを拝見していましたが、埋もれていた素晴らしい宝を発掘され、地域の財産として活用していこうという取り組みからは今後とも目が離せません。

私は、鶴岡まちなかキネマと酒田日和山小幡楼の二つのリノベーションプロジェクトを報告しました。

●グローバルに情報・モノ・人が動く時代です。人々は、自分のまちや地域にしっかりと根差し、心豊かに暮らすことを求めています。

●自由に訪れることができ、人と出会い、あるいは一人で自分らしく時間を過ごせる場所は、ひとびとが自分たちのまちに親しみや帰属感をえるための拠り所となるものです。それは散歩道であったり、カフェであったり、ホールのような建築空間であったりします。➡まちなかコモンズ

上写真:こんな大雪の日にも鶴岡まちなかキネマには多くの人が集まっています。エントランスホールはふらりと立ち寄れる市民のたまり場にもなります。

上写真:イベントをしていても(左写真)、していなくても(右写真)こういう場所が町中にあることが大切です。

●そういった場所でまちの歴史や文化にふれられるならば、人々は先人がどのようにまちをつくってきたのかを知り、誇りを抱いたり、より確かな帰属意識を持つことになるでしょう。➡まちなか文化的コモンズ

上写真:日和山小幡楼では老舗料亭が、みんなが訪れて時間を過ごせる場所になりました

 

●またそのような場所は、観光客や訪問者にとっても魅力的で忘れられない場所になります。訪問者からの評価は、自分たちのまちのアイデンティティを明確なものにしていくことにつながります。

上写真:市民が歴史に触れながら思い思いに時間を過ごせる場所は、観光客にとっても魅力的です

●鶴岡まちなかキネマと日和山小幡楼のような歴史的建築は上記のような場所になる優れた潜在力を持っています。歴史的建築の潜在力を開放し、人々に長く親しまれる場所に生まれ変わらせることに、微力を尽くしたいものです。➡歴史的建築をまちなか文化的コモンズに!

高谷時彦

建築/都市デザイン

設計計画高谷時彦事務所へ


集落活動センターなめかわ「なめかわの郷」が先月オープンしました

2021-11-22 10:02:21 | 公共建築 Public architecture

高知県本山町上下関地区集落活動センターなめかわ「なめかわの郷」が先月、10月3日にオープンしました。

(※印の写真は集落活動センターなめかわのIさん撮影、※※印は施工を担当してくれたMさんの撮影です。きれいな写真を有難うございます)

<吉野川下流側からの外観※>

本山町は高知県嶺北地方に位置する山あいの町です。人口は約4000人。高知市から北へ車で1時間弱ですが、四国のど真ん中にあるため、徳島、愛媛、香川の各県へのアクセスが良い場所です。私のように香川育ちの人間からすると、四国の水がめである早明浦ダムの近くということで親しみを感じる場所です。

集落活動センターは地域住民や地域外からの人材が一体となって地域活動に取り組むための拠点で、高知県内に60余り設置されています。「なめかわの郷」の中心施設は本格的な厨房がついた多目的ホールですが、そのホールが、会議研修などのレンタルスペース、コワーキングスペースそして週末カフェとして使われます(ホームページを参照:https://www.at-namekawa.com/namekawanosato/)

敷地は東西に流れる吉野川に向かう南斜面、美しい棚田の一区画です。

<吉野川上流側からの外観※※>

<北側、下の棚田から望む※※>

多目的ホールです。木とスティールで、軽やかなトラスを組みました。北の吉野川方面に大きく開口をとっています。

<多目的ホール※>

厨房も本格的です。カウンターは栗の幅接ぎ板、共芯合板の木口でルーバー状の縦じまをつくっています。天井のルーバーのデザインと呼応しています。

 

下の写真のように、窓際には地元の大工さんの手作りの家具が並びます。仕事スペースとして、快適に使えそうです。

もちろん食事にも最適です。

<窓際を望む※>

ここからは、少しだけ過去を振り返ります。

なめかわの郷はプロポーザルで設計の機会をいただきました。

最初のスタディ。まずは屋根から発想しました。

とにかく、吉野川への南斜面に突き出す美しい屋根をつくりたいと思っていました。屋根を浮かび上がらせるために、あるいは屋根との動的なバランスの中で壁などの建築的要素の配置も決めたように思います。模型の向こうには今となっては懐かしい、大学院研究室のドアが見えています。

 

 

少しずつ整理して、独立的に存在する屋根、それに覆われた大黒柱を持つホール、そしてそこで展開される自由な住民活動・・・というコンセプトを固めてきました。

コストのこともあり、相当のものをそぎ落としてきました。下の写真はコストダウンのためには、片持ち屋根を小さくした方が部材の数量が落ちるのではないかということで、屋根を柱で支える案です。

下の模型もそうですが、最初のワイルドなイメージは全くなくなっています。とくに屋根を支える柱は余計ですネ。結果的には何とか柱はなくしました。

150㎡あまりの小さな建物ですが、やはり、多くの時間をかけてスタディを重ねることになりました。発注者である本山町や、集落の方々、集落活動センターなめかわの方々、施工してくださった藤川工務店の皆様、本当にお手数をおかけしました。多くの人たちに長く、楽しく、使ってもらえる施設になることを陰ながらお祈りしています。

 

高谷時彦

設計計画高谷時彦事務所

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


丹下健三建築論集を読んでーその1ー

2021-11-13 16:29:45 | 建築・都市・あれこれ  Essay

豊川斎赫編2021『丹下健三建築論集』岩波書店を読んで

 私は、丹下先生が退官する年に都市工学科に進学した。おそらく最後に近い授業を聞いた学生の一人だと思う。授業の課題で丹下先生の都市に関する本を読んで以来、何冊かの建築論、都市論を読んだり、最近では湯島の建築資料館で行われた丹下健三展を見たりしたが、今回のこの本を読んで、あまりにも自分が知らないことがい多いことに、我ながらあきれる思い、恥ずかしい思いである。しかし事実だからしようがない。

 備忘のためにも、この本から学んだことを少し書き留めておきたい。

<近代建築のとらえ方、近代主義の超克の方法> 

 まず歴史の中での近代建築のとらえ方について。

 1957年の「サンパウロビエンナーレ展の焦点」(豊川編2021、pp235-250)の書き出しが「いまどこの国でも、近代主義を乗り越える道を探し求めているようにみえる」というもの。すでにみんながそのように認識していたのか、あるいは丹下先生の認識が時代に先行していたのか?いずれにしても私は丹下先生が1957年にそのような提示をしていることに驚いた。

 建築や都市計画における近代主義を主導したCIAMで都市のコアを議論したのが1951年。丹下健三は広島の計画を発表している。その後数年を経てCIAMは崩壊に向かうのだが、1950年代はミッドセンチュリーと呼ばれた近代主義的なデザインの全盛期でもあり、いわば近代建築の全盛期という印象を、私は持っていた。その時期にあって丹下先生はすでに、次の時代への強い問題意識を持たれていた。

 丹下先生は近代建築が1920代にコルビジェやグロピウス、ミースたちによって始まり機械時代の建築であり、機能主義とも呼ばれたと説明をした後、「すでに形式化した近代主義は、その創造性を失った」(豊川編2021、p236)と切り捨てている。

 そのうえで、近代主義超克のための3つの道をしめす。

①近代主義の徹底。代表はミース。代表がシーグラムビル。

②近代主義のもっている冷たさ、非情さを捨てて、温かい人間らしさを求める道。サーリネンやブロイヤー。ユネスコ本部。

➂ヴァイタルで人間的なものを求める立場。①のように技術至上ではない。また②のように技術を単なる手段と考えるのでもない。コルビジェのコンクリートの作品(ロンシャン礼拝堂1955のことだろう)。

 丹下先生の立場はもちろん第3の道。その自分の立場を第1の立場のフィリップジョンソンや第2の立場のブロイヤーと戦わせた建築賞選定過程のの議論を借りながら自説を開陳する。レトリックとしてもうまい。

 例を挙げる。「工場労働者の住居集団」の審査での議論を借りながら丹下は持論を展開する。機能主義の都市計画では住居・労働など4機能に分けてそれぞれの機能にかなった解決を得ようとする。それに対して丹下は都市計画の近代主義は間違っていないが「ただ何かに欠けている」という。「生活はそれらの機能の統一として実在している」という認識を示す。そのうえで「都市計画をする場合、いま建築家には、より広い、より新しい立場と創造力」を求め、「機能の統一体ーいえば社会生活そのものを視覚的にイメージしうる能力が必要」だと断じている。「社会的な構想力」である。この構想力は丹下先生の考えにあるキー概念である。

 建築家個人の中に、近代主義を乗り越えていく力ー「社会的な構想力」を期待しているのである。この言葉にはひかれる・・・。

 

<建築と都市計画の関係>

 この項目は「美しきもののみ機能的である」と論じた論文「現代日本において近代建築をいかに理解するか」(豊川編2021、pp32-54)に関するもの。

 この小論は、近代建築の限界を超えようとする中で日本的な伝統とどう向かい合うべきかなど内容は深いが、 ここではただ一つ丹下先生の「建築には都市計画の立場が内在しなければならない」という言葉(豊川編2021、p35)との遭遇について書き留めておきたい。

 この言葉の意味するところはおおむね次のようなことだろう。建築空間の表現は私的経済的機能としての内部機能と社会的立場からの外部機能の接触するところにある。その例はピロティ。ピロティのあり方を考えることが、建築単体としての存在を超えて社会との適正な関係をつくりだす。すなわち建築が都市計画の立場を内在させるものになるということである。

 ピロティの意義についての議論は措くとして、「建築の中に都市計画」があるべきという表現に素直に驚いた。この表現は大谷幸夫先生のある言葉ー個即全ーを思いださせる。「一つ一つの建築が都市をつくり、自分の設計した建築も都市の一員であるのに、どうしてこれが都市計画につながらないのか」、「強権の指示によって出来る都市計画は、私たちの生活にとって危険なものだ」という問題意識に支えられた言葉である(大谷1961)。

 建築家は建築の集合として都市をとらえる見方を持つがその時、建築が他の建築や都市とどのような関係を持つことが、人々にとって好ましい環境を作り出していくのかということが問題となる。建築自体の中に集合に向けての契機を見出すのか、あるいはもっと大きく全体を規定するもの(例えば都市計画)によって秩序を得ようとするのか・・・。大谷先生は個の中に全を内包すべきだと考える。この中に集合の契機を持つような建築を探し求める(その一例が中庭型建築)。

 大谷先生の当時の問題意識の背景にあるものを私は大きく誤解していたかもしれない。私は、大谷先生の論文が丹下先生の東京計画1960に対するアンティテーゼという性格をどこかに持っているとばかり勝手に思っていた。丹下先生の東京計画1960はメガストラクチャーである連結したリング状の交通空間(情報やエネルギーのインフラストラクチャーでもある)に、個々の建築がぶら下がるという構造。素晴らしく美しい提案であるが、個が全体に従属しているという印象が否めない。この印象はメタボリズムの提案にも共通していて、古くなったら取り換えるという発想からは、大谷先生が大事にする個の主体性が見いだせない。個の主体性、あるいは自立性を確保したうえでの集合の仕方はないものか?この問題意識は槇文彦先生のInvestigations on collective formからも感じられた。

 しかし、「建築には都市計画の立場が内在しなければならない」という言葉には、建築内部に集合への契機を持っていたいという大谷先生の言葉とほぼ同じ意識を感じる。東京計画1960をもってして、丹下先生はメガストラクチャーの信奉者だと思い込むのは早計であった。丹下先生も個の問題と全体(都市、都市計画)の関係に関するいろいろな解決方法を模索していたのではないか。

「建築には都市計画の立場が内在しなければならない」という言葉は私にとって丹下先生の思考の奥深さを改めて気づかせてくれた。

 

<日本の伝統をどのようにとらえるのか>

 この点については、石元泰博と共著の写真集『桂ー日本建築における伝統と創造』について書いた「「桂」序」(豊川編2021、pp227-233)が分かりやすい導入部となる。

 まずこの写真集は現実に存在している桂とは違うものであり「私たちは桂を破壊的に眺めている」という言葉に驚かされる。 実際写真は桂の部分を切り取ったものであり、それは桂あるいは日本建築の伝統に対する批判であると吐露される。このイントロダクションに惹きつけられる。

 日本建築や庭は、身辺的な体験と情感から出発し空間から時間へととめどなく流れ、統一され全体像に至ることがないことを指摘する。桂はその一例。これは主観情緒的な性格を持つ、弥生的、王朝的文化の系譜。しかし部分的にはヴァイタルな民衆の文化形成のエネルギー、縄文的なものとのぶつかり合いの中で生まれた創造的精神も読み取れる。桂の本は上の両者のぶつかり合いから生まれる自由で多様なものを伝えるためのものであるという。

 この弥生的なものと縄文的なものの燃焼のさまが、「伝統と創造の」構造を表すという。ここに学びがあるということだろうが、もう少し深く考えるためには、「現代建築の創造と日本建築の伝統」(豊川編2021、pp55-99)が用意されている。また、桂離宮をめぐっての言説に関しては、最低限「桂ーその両義的な空間」という磯崎新による解釈(石元泰博1983『桂離宮ー空間と形』岩波書店所収)にもあたっておく必要がありそうだ。

 途中まで書いてきたが、準備不足、この上ない。この項目については、次のブログでまとめることにしたい。 

参考文献

大谷幸夫1961「覚書・Urbanics試論」『建築1961.9 特集 都市構成の理論と方法』青銅社

 

 

 

 

 


日和山小幡楼のオープン

2021-11-03 11:31:32 | 公共建築 Public architecture

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2021年10月20日、湊町酒田のシンボル日和山に食をメインとした酒田市交流観光拠点

「日和山小幡楼」がオープンしました。

下の写真はオープン当日(あいにくの暴風雨の天気でしたが)、待ちかねた多くのお客

さんが詰めかけた様子です。この建物は、老舗

料亭割烹小幡の建物を、その歴史文化的価値を生かしながら、食をテーマのにぎわい施設

として酒田市が改修したものです。運営は公募で選ばれた㈱平田牧場が担ってくれています。

私たちは、調査から設計、監理までを一貫しで担当させていただきました(除:厨房内部

と陳列用家具)。以下、この建築の歴史的価値なども交えて、紹介します。

 

 

 

湊町酒田と旧割烹小幡

旧割烹小幡は1876年創業の湊町酒田を代表する老舗料亭であり、湊が一望できる高台、景勝の

地に建つゆえに瞰海楼とも呼ばれた。明治建築である和館、大正期に増築された洋館および

土蔵の3 棟から構成される。

(上写真:左から対象建築の洋館、明治建築の和館、土蔵)

1998年に廃業後、米国アカデミー賞受賞映画「おくりびと」のロケ地となり脚光を浴びたが、

再開されることはなく内外ともに腐朽が進行し、取り壊しも真剣に検討される状態になっていた。

(上写真左:改修前の北側外観、上写真右:映画おくりびとの一シーン(看板を撮影したもの))

(上写真:改修前の和館南側外観、倒壊寸前であった)

(上写真左:改修前の和館1階内部現況、上写真右:改修前の和館2階内部現況)

(上写真左:改修前の洋館地階、写真右改修前の洋館1階)

 

2017年酒田市から依頼を受けた私たちは、文献や現況調査から歴史的建築としての価値を明ら

かにするとともに、和館については増改築を繰り返してきた外周部の下屋や中二階を撤去し、

原型としての町家の構造を浮かび上がらせること、また洋館については大正建築の清新な外観

を復活させることを提案した。その後酒田市により、飲食を中心とする交流観光拠点として再

生する方向性が定まり、歴史的価値を生かしながら、地域のにぎわい施設として再生するプロ

ジェクトがスタートした。

(上写真:瞰海楼と呼ばれた時代の古写真、和館は欄干のめぐるこの状態を基本イメージとする)

(上写真:大正の創建時の雰囲気を伝える洋館写真(昭和初期)洋館外観はこの姿を出発点に考える)

 

酒田町家を原型とする料亭建築をベーカリーカフェと、市民利用の大座敷へ

今回、和館から明治12年の棟札が見つかり、酒田においては希少な酒田大地震(明治27年)

以前の建築であることが判明した。

(上写真左:明治13年に描かれた詩画、写真右:明治12年の棟札)

現在はL字型平面の2 階建てであるが、もともとは平屋の2列型酒田町家を原型として、

平面的にもまた上階へも増築を重ねることで料亭へ進化していったと推測される。また

増築部分では小屋組みの梁間方向は真束トラス、直交方向は平行桁トラスという珍しい

構造形式を見ることができる。

(上図:日本建築学会が酒田大地震(明治27年)直後の調査で描いた港座の小屋組み。

酒田の名工佐藤泰太郎の施工。小幡の北棟は上図と全く同じ構造形式がとられている)

増改築が激しく、内外ともに、町家の雰囲気は失われていたが、中2階の小部屋と水場に

使われていた下屋を撤去するとともに、通り土間やみせ土間空間をつくりだすことで、原型

であった酒田町家の空間構成を創造的に再現した。町家の魅力を持ったカフェスペースが

生まれたと思う。

 

(上写真:和館のみせ土間。酒田町家のみせ土間を創造的に再生した)

(上写真:客席スペース。厨房を白いボックスとして町家の中に挿入した)

(上写真:左手には通り土間を復元、右手に2階への大階段が見える)

(上写真:南側、湊を望む客席)

また2階は200ミリ近い不同沈下を補正しつつ、欄干が外周をめぐる瞰海楼の雰囲気を復元

した。天井は現しとすることで珍しい小屋組みや増築の跡を確認することができる。増築部

が撤去されたことで外観においても瞰海楼の面影が復活している。

(上写真:2階座敷。欄干が巡る往時の姿を再生)

(上写真:南側の外観。往時の姿に近づけるようにした)

 

 

洋館は湊町酒田の進取の気風の表現

洋館は、大正11(1922)年にコック2人が東京築地精養軒出身という本格的なフレンチレ

ストランとして開業した。無筋コンクリート造の地階レストランの上に木造2階建てが乗っ

ている。外観は基壇、ボディと別れた古典的な構成の上に、後のモダニズムにつながる幾何

学的なデザインがなされている。内部には、手の込んだ漆喰レリーフなどが施され、水回り

には当時の貴重な輸出品である鮮やかな色彩の和製マジョリカタイルが使われていた。大正

を生きた女将小幡直の進取の気風がそこかしこに感じられる建築である。

赤錆びたトタン板がはがれ落ちている既存外観は、映画「おくりびと」の印象もあり捨てが

たい面もあったが、私はにぎわい施設としての再生には女将小幡直の進取の気風を踏襲する

ことがふさわしいと考え、創建時(大正期)の外観をベースに再構成した。

(上写真:創建時のイメージをもとに作られた外観)

地階内部は耐震補強のため外周部にRC壁を新設するのに合わせ、天井にあたる1階の床

を撤去し、2 層吹き抜けで、上方から明るい光に満ちた飲食スペースを創った。水回り

に使われていた和製マジョリカタイルは壁付照明器具の一部に生かされている。

(上写真:1階の床を抜き、明るい光のみちる飲食スペースを作り出した)

(上写真:水回りの和製マジョリカタイルを使ってブラケット照明をデザインした)

(上写真:階段室はできるだけそのままの姿を保全した。照明や手すりは新規に設置している)

(上写真:洋館2階は和洋の折衷する不思議な雰囲気をできるだけ踏襲した)

 

時を止めず、時とともに歩むリノベーション

 歴史的建築を使い続けるためには、建築も常に進化しなくてはならない。史跡など

文化財の場合には、歴史的時点への復元が欠かせないこともあるが、私たちの取り組

むリノベーションは過去の一時期の姿に戻すこと自体が目的ではない。先人たちがつ

くってきた過去の歴史に最大限の敬意を払い、きちんとした記録を残し、時には往時

の姿や技法を最大限参照するが、基本的には現代の技術や材料を用いて、創造的に手

を加えていく行為だと考える。使い続けていくために、今の時代の痕跡を丁寧に付け

加え、次世代に渡していく、その一過程が今回のリノベーションであろう。

今回の工事では、大幅な沈下補正とともに、大規模な耐震補強を行った。

(上図:地震時の解析)

和館においては鉄骨柱の設置や木造梁のスチール補強などを行ったが、町家の構成に

できるだけ溶け込むようにするとともに、付加された要素そのものは隠さず露出して

いる。また洋館では地階内部にRC壁を入れ子状に設置したが、その姿をそのまま生か

した2層構成の内部空間をつくっている。耐震補強も、先人から受け継いだ歴史的価

値を尊重しつつ、次世代に伝えるために必要な手を加えていく一過程の一つであると

考えている。

(上写真:模型による改修部分の検討)

 

工事は上記模型のピンク色の部分(1階、中2階、2階)を部分解体しながら、同時に新た

な下屋部分(上記断面図の緑色の部分)の構築を行った。それだけでも難工事であったが、

敷地は安部公房著「砂の女」の舞台となった庄内砂丘の上にあり、地下は数十メートルの砂

層である。和館は礎石立ちの柱を保持したままでその下に耐圧版や、補強鉄骨の基礎梁を打

設したが、少し掘っただけで、さらさらと砂が流れていく中での工事であった。洋館では上

部2層の木構造を保持しながら、地階の外周と床にRC構造体を入れ子状に挿入する、これも

難工事であった。

(上写真:和館では礎石立ちを保持しながら様々な構造補強などを行った)

(上写真:洋館では、無筋コンクリートの壁と上部の木構造を保全しながらの工事となった)

 

 

(上写真:北側の全景)