設計計画高谷時彦事務所 Profile 記事一覧へ Lec2へ
Lec3:ときの中で考えるー奥行きのある風景―
1.時間の中で成熟する風景
2.使い続けることの困難さについて
3.まちづくりにおける意義
4.何を残し何を変えるのか、建築の価値とは
5.事例研究その1 まちの歴史を語りかける建築:鶴岡まちなかキネマ
6.事例研究その2 湊町の心象風景:日和山小幡楼
1.概要と経緯
湊町酒田の老舗料亭小幡楼、丘の上のランドマーク
日和山小幡楼は湊町酒田のシンボル日和山の頂上にある老舗料亭です。酒田は西に向かって日本海にそそぐ最上川の北側(右岸)に沿って町割りをされた湊町です。最上川の河口を南に臨む位置に日和山があり、酒田の町割りの起点の一つともなっています。
その丘の頂に位置する小幡楼は、1876(明治9)年といわれる創業以来、多くの著名人が逗留しただけでなく、市民の宴会場としても親しまれていました。和館の2階には欄干付きの縁がめぐらされており、最上川河口(酒田湊)を見下ろすことができます。眺望の良さから、瞰海楼とも呼ばれ、市街地に近い東から洋館、和館、土蔵が立ち並ぶ姿は湊町酒田のランドマークとなってきました。
しかし時代の波で、1998(平成10)年に閉店。廃墟となっていました。その後アカデミー賞を受賞した映画「おくりびと」のロケ地として一時的に脚光を浴びましたが、時を置かず閉鎖され、酒田市に寄贈されました。
私たちは、市や出店事業者とともに、日和山公園とともに市民の心象風景ともいえるこの建築のリノベーションに取り組み、2021年秋、ベーカリーカフェや市民利用スペースからなる交流観光施設として生まれ変わりました。湊町酒田らしい風景を再び生きたものにすることが私たちの願いでした。
調査開始と活用案の提示
映画ロケや映画セットの展示で一部は使われましたが、ほとんどの部分は閉店後長く放置されており、腐朽の程度は著しいものでした。天井は落下し、床は何か所も抜けていました。また全体が倒壊する危険性が大きいので、酒田市では、安全性確保のための保全工事を内、外で施していました。離れもありましたが、危険なため撤去されています。
このため2015年頃には、取り壊しを前提に敷地の再整備が検討されていました。市民との意見交換のワークショップも行われていました。市内に残るほかの料亭建築のように贅を凝らしたところがなく、税金を投入して保存するほどの価値はないというのが大方の見方でした。しかし一方では映画「おくりびと」で多くの人に注目されたこの建物を道路に面する部分だけでも保存してほしいという声がありました。
2015年、たまたま機会を得た私たちは、歴史文化的あるいは建築的価値を見極めるための調査を行うことを市に提言しました。市は調査を行うことを決断し、私たちは「歴史文化的・建築的に大変価値の高い建築物であるだけでなく、一定の投資の下で十分市民に望ましい利用ができ、日和山活性化の拠点となり得る」との調査結果を提示しました。市民説明会で了解を得たのちに、引き続いて設計作業に入り、飲食店と市民利用スペースの複合した交流観光施設としての日和山小幡楼の詳細な姿を第一次設計案として描きました。
市と事業者の官民協働事業
酒田市は、第一次設計案をもとに飲食店の経営や市民利用スペースの管理をしてくれる事業者を募集しました。幸い3棟と庭を含めた敷地全体を一つの事業者が運営する仕組みができたので、市、事業者と相談をしながら、設計案を修正して最終設計にまとめていきました。
工事はコロナの流行と重なりましたが、2021年秋には湊町酒田のシンボルである日和山のランドマーク、小幡楼が再生され、活用がスタートしました。
以下、調査時点にさかのぼりながら、このプロジェクトの全容を説明します。
2.現況調査
<洋館>
三層構成の大正建築
洋館の場所には和館がたっていましたが、次項で述べるように大正11年に改築されています。1階がコンクリート造(無筋)、2階と3階が木造で改築されています。以前は小幡楼の前が市街地側からくるとかなりの急勾配で峠を越えるようになっていましたが、その前面の道路を開削して拡幅する工事があり、それに伴って建て替えられたのだと考えられます。道路が開削されたことに伴い、1階部分は道路から直接入れますが、その背後は土(砂)の中に埋まっています。そのためコンクリート造にしたのですが、当時はまだ珍しい構造でした。今回の調査で、コア抜きのサンプリング調査を行いましたが、無筋であることが分かりました。構造的には大きな問題を抱えています。
外見は洋館、中は和洋の混在
1,2階は一体で利用されていた洋の設えですが、外観に反して3階は和室です。映画のセットで改変はされていましたが、床の間のある和室が基本となっています。このように外観は洋で中は和、あるいは外観が和で中の一部が洋というのは隣の鶴岡市にある3階だけ建築でも見ることができます。見た目あるいは見せたいものと生活スタイルは必ずしも一致していなかったということです。
本格的なフレンチレストラン
お店であったとかダンスホールがあったとか言われていましたが、詳細は分かりませんでした。岩浪氏(酒田市教育委員会、岩浪さんには数多くの文献資料や写真資料を提供していただくだけでなく、様々なアドバイスもいただきました)により、大正11年の新聞が発見されました。当時の日本フレンチの最先端であった東京の精養軒(築地、上野)出身の2人のコックさんによる、本格的なフレンチレストランです。現在の酒田フレンチの始まりは1970年代といわれていますが、その前にも本格的なフレンチのレストランがあったということになります。
ランドマークとなることを意識して作られた洋館
竣工時に近い古写真と、現状から往時を推測することが可能です。外観は縦長の上げ下げ窓を持つ立面であり基本的には洋館と呼べますが、和風の瓦屋根が少し軒を出しており、和洋が折衷した形式でもあります。1919(大正8)年につくられ、「大正時代の建物では、酒田に残る唯一の木造洋風建築」(酒田市養育委員会)として文化財となっている白崎医院とも共通性がありますが、白崎医院が日本建築と同様に屋根を庇状に大きくもち出しているのに対し、小幡楼はほとんど出していないことから、より洋風に近いという印象です。また白崎医院が下見板張りで壁全体を一様に表現しているのに対し、一層目がコンクリートで、基壇を構成しており、シンプルではあるものの基壇、中間部、トップという様式主義建築の三層構成を意識しています。レリーフ状に柱を表現したりする古典建築の要素はなく、全体としてはすっきりとしたファサードをつくるモダンなデザインであるといえます。窓下に用いられる菱形の幾何学模様が、当時日本でも流行していたセセッション建築との類似性を感じさせます。
色彩については、古写真が白黒で、また現況としては外壁廻りが完全に改変されていたので直接は分かりませんでしたが、同時期に増築された和館の下屋(中2階)に、なぜか洋館の開口部と同一と思われる窓が残っていました。ここから、塗装の色を推測することができました。緑に近い鮮やかな色で窓回りを塗装していたと推測しています。大正時代の洋館に多く見られる色彩です。
三階建てであり、白い壁に緑色の窓回りという外観はかなり市民の関心を引いたと想像されます。この建物を建てた、小幡直は、まちのランドマークになることを計算していたように思います。
小幡直は、精養軒からコックさんを呼んだほどフレンチレストランに力を入れこみました。精養軒の建物には、チェコ人建築家のヤン・レツルが関わっています。広島の原爆ドームを設計したセセッションの名手です。小幡直が精養軒の建物を見て、自分も酒田に洋風の建物をつくろうと考えたのではないか、そんな想像を勝手にしています。
<和館>
L字型の平面、小上りや2階座敷
和館の2階に上がるとはっきりわかりますが、和館はみちに対して平行に桁がかかる北棟と、道に直交する南棟がL型に組み合わさっていることが分かります。
北棟の中央部の玄関を入ると映画おくりびと後にできたフィルムコミッションの事務室があります。板の間でここに2階への階段もあります。玄関を入って左手には料亭らしく小上りの小座敷が2室並んでいます。
玄関から道路に直交しておくに向かうと和室が並んでいます。常連のお客さんはここにも招かれたようです。
その奥には広い厨房があります。この奥からも2階に上がれるようになっています。
一般のお客さんはおそらく2階を利用していたはずです。広い座敷が北と南にわかれ、L型につながっています。それぞれに床の間がついています。座敷からは欄干越しに港の景色を見下ろすことができますが、今はかなり多くの部分が日和山の麓にできた高層マンションの陰になってしまいました。
酒田地震以前の貴重な建物
これまで小幡楼は1894(明治27)年の酒田地震で一度焼失し再建されたと考えられていました。しかし、岩浪氏がそれを覆す資料を見つけられました。地震の直後に調査した「酒田震災実査図」です。これによると小幡楼が残っているという表記になっています。
古写真もありました。「家坂徳翠軒」という明治8年頃にできた写真屋さんがあります。この写真に小幡楼が映っています。写真の下の方に船場町がみえます。この家並みから古いことが分かるそうです。したがって小幡楼も明治の初期、中期以前からあっただろうということが推測でます。
南棟の2階からは明治12年の棟札が出てきました。明治13年の七言古詩という古い詩の絵画も南棟の床の間の天袋の戸襖の裏にかかれていました。
明治の後半になって日清、日露戦争を経て日本が自国の伝統を見直すようになります。そのころから贅を凝らした造作に満ちた、のちに近代和風建築と呼ばれる建築群が出てきています。この建物はその前の時期の建物だということです。貴重なものです。
町家を原型にした料亭建築
調査で作成した和館1階の平面図です。玄関から通り土間が奥につながることが分かります。そして玄関から通り土間に沿ってみせ、中の間、茶の間が並びます。この一見複雑な料亭建築は、酒田町家を原型としていると思えます。
左図は小幡楼の平面図です。右側は村田家、酒田に昔あった町家です。町の中心部にありました。
村田家の平面図を左右反転して小幡楼1階と比べてみます。酷似していることに驚きます。酒田町家の特徴である鍵の手の土間。続いて、みせ、仏間。庄内独特の仏様と神様が上下にまつられる部屋です。奥に囲炉裏があります。中の間と呼ばれます。いわゆる2列町家で、町家の典型的な形式です。この建物が料亭建築ではなくて町家を基に増築してきたことが良く分かります。
町家の上に2階を増築
1815(文化12)年に地元の名家小幡家が家作をなしたとの記録があります。料亭は1876(明治9)年創業と伝えられています。
また現地調査からは、2階床組が、平屋の梁構造の上に重ねられていることから、平屋を残したままで2階が増築されたと推定ができます。前節に述べたように2階の棟から棟札が見つかっているので、2階の増築は明治12年だとわかります。町家形式の平屋部分を明治初期に料亭として使い始めたため、2階に座敷を増築したとすれば、矛盾なく説明できます。
1898(明治31)年の図面を岩浪氏が発見しました。酒田町長に向けて建物の広さと間取りについての届出です。新築時に出すものではなく、税金などに関係しての現況調査です。辺の長さ(間数:けんすう)が書いてあるので正しい平面を復元できます。図中のブルーのラインが外形です。現状の下屋部分はその後の増築であり、本屋の部分は明治12年にはできていたと推測できます。
増築の仕方
増築の様子を断面図で確認します。
南棟では平屋時代の梁組をそのまま利用して、その上に2階床組みを二重に構成しています。北棟は平屋の梁組はそのまま使えなかったので、2回床組みを新たに組んでいます。酒田町家は村田家もそうですが、通り側に対して棟の高さを下げるという特徴があります。家を大きく見えないようにしたのか、理由はわかりませんが、それはほとんどの家でそうしているのです(玉井哲雄1987『東日本町家建築の系統的把握のための基礎的調査研究』)。これが2階の床の組み方が道路に近い北棟と奥に位置する南棟で違うことに関係している理由ではないでしょうか。
中2階・下屋
中二階もありました。一般的には料亭だから中二階があると考えます。実際中二階に客席がある料亭は多く、酒田でも相馬楼や香梅咲さんの中二階は非常にいい部屋であることが思い出されます。
しかし小幡楼の場合は、様子が違います。町家でも階高の高い大型のものには中2階に納戸を持ったものがあります。そういったタイプの中二階ではないかなと私は思っています。その町家の中二階に、料亭としての機能拡充のための水周り(便所やふろ場)をつけ加えるために下屋を増築していったのだろうと推測します。
和製マジョリカタイル
中二階の水回りには和製マジョリカタイルが使われていました。マジョリカタイルは19から20世紀の前半にヨーロッパや東南アジアのお金持ちの家で流行ったタイルです。日本はイギリス製のマジョリカタイル(ヴィクトリアンタイル)を模倣して、輸出していました。その輸出品の一部が日本の豪邸でも使われていました。和製マジョリカタイルの詳細は、関西から、研究者である深井先生をお呼びして調べていただきました。タイルは佐治タイル製とメーカーまで判明しました。
洋館の水回りにも同じ和製マジョリカタイルが使われていることから、下屋部分は洋館と同時期に増築されたと推測できます。
2階の珍しい小屋組み
南棟は伝統的な和小屋であるのに対し、北棟はトラス組の洋小屋です。棟がL字型に折れ曲がる部分で継いであります。
棟札のあった明治12年におそらく、2階の全体を増築(町家である1階に重ねた)したのだと思います。明治期の写真でも南棟と北棟の両方が映っています。
その後何かの出来事があって北棟を直したと思います。明治12年以降に小屋組を見直すような出来事、何があったのか・・・おそらく1894(明治27)年の酒田地震だろうと思います。酒田地震があって、火災などの被災により北棟部分が大規模な改修を行ったのではないかと考えています。
酒田地震では市内の多くの建物が倒壊し、また大火事によって市内の広いエリアが消失しています。小幡楼も「二十七年の震災以来形勢なく・・・欄干空しく夕陽に鎖す・・・」(『庄内案内記』1905)という記述から、震災により被害を受けて一時期廃業していたことが分かります。ただ完全に倒壊したり、全焼していたりしていたのではないこともわかります。その後明治31(1898)年には営業していたことが分かっています。
この廃業していた間に北棟(少なくとも2階)に手を入れ、小屋組みを洋小屋にしたと考えると、話が合います。すべて状況証拠だけで確たるものはまだ見つかってはいませんが、そういう推測をしています。
ちなみに、この北棟のトラスを支える梁の構成には大きな特徴があります。小屋を支える桁や中間の梁も平行弦トラスを組んでいるのです。小屋組みを支持する梁に平行弦トラスを用いるのは珍しかったようです。港座という古い映画館が酒田にあります。今の映画館は昭和中期に建て替えられていますが、その前にあった古い港座の建築がこれと全く同じ構造をしています。
酒田地震後、建築学会の人たちが地震被害の調査に来て、「酒田のほとんどの建物は倒壊したけれど、倒れてない建築もある」ということを東京の学会に報告しています。その時のスケッチがあります。大工の名前は「サイトウ某」と書いていますが、これはおそらく聞き間違いで酒田の名工「佐藤泰太郎」のことだろうと思います。報告書は今も学会図書館で見ることができます。
これは私の推測ですが、おそらく地震の後、港座のように堅牢性が確認できた構造形式で、この小幡楼の北棟を修復したのではないでしょうか。
3.再生の方針
フレンチの洋館、伝統の和館、明治の土蔵。それぞれの個性を極め、並置させる再生
フレンチレストラン、伝統的な料亭、土蔵という異色の組み合わせが、料亭小幡楼独自の魅力です。大正時代に、伝統的な和のスタイルの料亭の横に、3階建て洋館のフレンチレストランができた時には、周囲はあっと驚いたはずです。おそらくそれが、女将小幡直の狙いでもあったはずです。高さも様式も違う個性ある3つの建物が対比的なバランスで並ぶ湊町酒田らしい風景として積極的に評価したいと思います。
改修前の状態は、全体が風化していることで、廃墟的な調和的状態にあったので、そのさびれた佇まいを残すべきとの声もありました。しかし、「洋館、和館、土蔵のそれぞれが輝いていた時代とすがた」を再現することこそが、日和山地域の再生拠点としてもっともふさわしい方法だと考えました。
私たちは調査に基づき、洋館は大正の創建期、和館は2階が増築され瞰海楼となった明治中期、土蔵は明治の創建時を基本イメージとして、それぞれを「らしい」姿に再生することで、小幡楼全体の魅力をつくり出すことを心がけました。一つの様式や時代で統一された調和があるのではありませんが、個性ある3つの建物が並んだ姿が、小幡楼の独特の魅力だと言えます。進取の気風に富む湊町酒田にまさにふさわしい建築のありようではないでしょうか。
飲食を楽しむ場所としての再生
小幡楼は1950年制定の建築基準法以前の建物です。またその後も様々な規定が追加されてきています。したがって現行法には合致していない既存不適格建築になります。現時点で確認申請を出して増改築を行うと、1950以降に定められた様々な規定に適合するように直すことになり、現実的には回収が不可能となります。したがって、確認申請が必要となる用途変更は避け、料亭に類する用途である飲食店舗として活用することを大前提としました。また、建築基準法を所管する県にも相談し、増築は行わず、大規模な改修や模様替えにもならないような改修方法としました。
設計を進める中で、市や事業者の意向により、洋館は甘味喫茶、和館はベーカリーカフェ、土蔵は倉庫利用という方向性がきまり、それ以外の市民に自由に使ってもらう部分も飲食も可能な場所として位置付けられました。結果的に飲食の場であった老舗料亭がモダンな形で飲食を楽しむ場所に生まれ変わったということになります。
それぞれの空間特性と履歴に合った耐震補強、補強をデザインの一部とする
洋館、和館ともに歴史調査、現地調査を重ね、その特性と価値を生かしながら、新しい機能に対応できる空間づくりを目指しました。耐震補強も空間の特性・価値に対応して発想しています。洋館には耐震用RCボックスの挿入、和館ではRC・S柱列で骨格となるスペースを取り囲むという大規模補強を行いましたが、その姿を洋館、和館ともにそのままデザインにいかしているのが特徴です。
土蔵は最低限の補修
土蔵も耐震補強を含む大幅に手を入れないといけない状態でしたが、予算上の都合から、外壁などで壁の保護をしている下見板が腐食しているようなところの補修等にとどめ、居室としては使用せず、物置としての活用にとどめることとしました。
4.再生のデザイン
<全体>
3棟の個性が競い合う外観
<洋館>
コンクリートボックスの挿入、3層から2層へ
洋館の1階は無筋のコンクリート造です。しかも土(日和山は海岸砂丘なので正確には砂ですが)に埋まっている東と南の2面からの土圧を受けています。このため1階には、耐震補強のために、四角い鉄筋コンクリートの6面体を2階の床を抜いた形で挿入しました。床がないので水平剛性は壁に沿って大梁を鉢巻き状に回して確保しました。そのうえで、2階の床(1階の天井)を抜き、1階と2階で2層分の吹き抜け空間をつくりました。
1階では耐震補強の壁をそのまま見せました。このがっちりとした壁(RC)の上部に、漆喰のしっとりとした壁と天井のつくる明るい箱(木造)が乗っているという対比をつくりました。歴史の積み重ねをこの2層構成に投影したものです。
和製マジョリカタイルの再生
洋館や和館の水回りで使われていた和製マジョリカタイルの一部を使って、洋館1階甘味喫茶のブラケット照明をデザインしました。大正時代や昭和初期に流行したセセッションやアールデコの意匠をイメージしたものをつくりました。
和洋折衷の展望プレイス
小幡楼の外観は和洋折衷です。また洋館単体においても外観はすべて洋であるのに、3階内部は和室という折衷が見られます。さらに洋館3階において部屋は和室であるのに、小屋組みは洋のトラスです。和洋の折衷が幾重にも重なる面白さがあります。
その雰囲気を大切にするため、中心市街地が眼前に広がる3階展望プレイスは、和洋折衷の不思議な雰囲気の場所として作りました。
階段室はメモリアルホールへ
階段室はほかの部屋のように大きな改装がされておらず、比較的創建時の雰囲気が残っていました。そこで、床のリノリウムなども再現してメモリアルホールとして位置付けました。壁の展示をさらに充実して、この建物の歴史をきちんと伝える部屋にしたいと考えています。
<和館>
下屋と中2階を撤去して、町家と2階からなる明治の料亭を浮かび上がらせる
町家の中二階(納戸)及び料亭の水回りとして増築した中2階には和製マジョリカタイルが使われていることからもわかるように水回りを大切にした料亭文化の一側面が残されていることは間違いありませんでした。しかし、工事費の面と、日本建築において下屋は本屋(ほんおく)に対するサービス空間であり、本屋をきちんと継承することが大切だということから、下屋や中2階は撤去しました。
この撤去により、町家に2階大広間が増築され、瞰海楼にふさわしい姿となった明治中期の姿となりました。1階においては原型としての町家をはっきりと表現することができました。明治31年の図面と対照できる状態になりました。
複雑な料亭建築から骨格となる町家空間を抽出して再構成する
事業者の詳細な業態が決まる前の第一次設計として、和館1階を下記の3ゾーンで再構成しました。
- 客席・厨房ゾーン: 2列居室型町家の座敷空間
- 通り土間 :モダンで開放的なS造コロネード
- みせ土間 :鍵土間を膨らませた新しいみせ空間
客席・厨房ゾーンは、町家の居室が並んでいるゾーンです。床が張られ基本的には2間おきに間仕切りがあります。この記憶を伝えるために、間仕切りを示す差鴨居を残し、床をフローリングとしました。
通り土間は、町家における土間の廊下です。この通り土間を鉄骨構造として作り、客席・厨房ゾーンを取り囲むように配置し、地震時の水平力を受けるようにしました。通り土間に耐震要素を集約したので、ほかのゾーンや2階の広間には耐震壁などは全くありません。また耐震要素をそのまま見せるという方針に従い、S柱の並びを見せ、天井もルーバー天井とすることで、明るくモダンな雰囲気として、客席・厨房ゾーンと対比させました。町家的な客席・ゾーンを明るく開放的な通り土間が取り囲んでいる構成となります。
みせ土間は、酒田町家の鍵土間とみせ(板敷)を一体化して大きな土間空間としたものです。小幡楼ではエントランス空間であり展示空間と位置付けています。この空間も客席・厨房ゾーンと同様に表し天井ですが、現況調査で述べたように、床組みの方式が異なることから、みせ土間のほうが豪壮な農家的雰囲気を感じさせる土間となりました。床は両者とも大判の石風タイルを四半敷きにしています。
この基本的な3つの空間から成り立つ第一次案は事業者の様々に変化する要望にも十分対応できるものでした。町家空間の持つ、包容力がこのプロジェクトを最後まで進めてくれたと考えています。
瞰海楼の再現
2階の広間は廻り縁と欄干が取り囲み、そこからの眺望の良さが小幡楼の特徴でした。外壁廻りは大きく改変されていましたが、基本的には、明治時代の雰囲気に近づけることを目指しました。
5.おわりに:風景の中に蓄積されていく歴史
日和山を含む地域を何とか再生したいという市と事業者の熱い思いが功を奏し、2021年のオープン後、多くのお客さんや市民が小幡楼を訪れています。隣接する日和山公園から、小幡楼に向けて歩く人の流れができています。
風景の中には、その場所の歴史が蓄積されています。瞰海楼としての長い歴史に、新しい時間が蓄積され、風景に奥行きができていくことを願っています。