世田谷区ではまちづくりの歩み50年を振り返る「世田谷のまちと暮らしのチカラ」と題する展覧会を開催しています。場所は三軒茶屋のキャロットタワーにある世田谷工房(Lifestyle Design Center)。開催に合わせたシンポジウムの一つとして「UDとUDの未来を考える(ユニバーサルデザインとアーバンデザイン)」があり、話題提供として「これからの都市デザイン」というタイトルで40分ほどのお話をして、パネルディスカッションに参加しました。詳細は以下のパンフレットの通りです。
私のお話しした内容を紹介いたします。
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今日お話しする都市デザインには「デザイン」という言葉がついていますが、狭い意味でのデザイン、すなわち表面的な部分のお化粧といった意味ではありません。都市をお化粧しようということではないということです。人間でいうと、お化粧というよりは、その人の内面から出てくる魅力や個性があると思います。その人らしい特徴といっていいかもしれません。そういうものを私たちの住んでいる都市においてもつくり出していこう・・・そういう活動のことを都市デザインといいます。
本論に入る前に少しだけ自己紹介します。
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私は、大学で都市計画や都市デザインを学び、その後、建築家でありアーバニストでもある槇文彦氏のもとで建築や、都市デザインの修行をしました。今日お話しする都市デザインについては、世田谷区と横浜市が、日本における本家、あるいは家元といえます。私は幸いなことに、槇先生のおかげですが、その二つの自治体との仕事を長く担当することができました。
また、修業の最後の数年間は、富山市の「富山市民プラザ」や「大手モール」の設計を担当していました。実は今日のお話にも大いに関係しますが、都市デザインとは不可分の関係にある「都市計画」あるいは日本の戦後の「近代都市計画」の優等生が富山市なのです。
後になってからですが、図らずも、都市デザインと近代都市計画の最先端の方々と仕事をする機会に恵まれていたことに気付きます。
槙先生の事務所で13年間お世話になったあと、設計計画高谷時彦事務所という事務所を開設して、建築設計、都市デザイン活動を始めました。独立したばかりのころですが、世田谷区出張所周りのサイン計画や障がい者就労支援施設すきっぷという建物の設計など、させていただきました。横浜市でも川和中学校の多目的ホール設計など、槇事務所時代の縁でかかわらせていただきました。最近は、山形県の鶴岡市にある東北公益文科大学大学院で学生さんたちと一緒に建築・まちづくりの活動をしていました。いろいろ面白いプロジェクトにも携わることがありました。
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このスライドは、サイン計画と、梅が丘、豪徳寺での「福祉的まちづくり」の様子です。
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では、本論です。都市デザインとは何か、私はどう考えているのか・・そのあたりからお話をします。
都市空間:物的な実態
私たちを取り囲む都市空間は、建築、道路、橋、公園、川など様々な構築物や自然的要素から成り立っています。都市「空間」という言葉はフィジカルな実態を指すと考えていいでしょう。
都市環境:歴史、文化、風土的存在
都市空間の中で私たちは暮らしています。都市空間をひとのいとなみや暮らしの場だと考えると、都市「空間」というよりは都市「環境」という言葉がふさわしいと言えます。すなわち都市空間の中に人間を措き、その活動と一体のものとしてとらえたのが都市環境ということです。人間にとっての環境ですから、気候や自然、風土なども都市環境の重要な部分と考えたほうが良いでしょう。
都市環境は自然や風土を基盤に、人々の物的あるいは精神的ないとなみが作り上げてきたものといえます。大地の上に人の手により一本の道がつくられ、建物が並び、そこで様々な暮らしが展開します。代を重ね、時間とともに、都市環境は、様々な意味や物語に満ち、複雑な文脈をもつ世界となります。そういった都市環境のなかで私たちは育ち、様々な経験をします。
私たちの経験は常に都市環境の中での特定の場所と結びついています。自分がどこにいるのかわからなくなるということは、自分が誰なのかがわからないということです。私たちは自分を取り巻く都市環境を拠り所として自分というものを位置付けているともいえます。その都市環境があまりにも毎日変わってしまうと、私たちは自分との関係をきちんと取り結ぶことができず、戸惑います。もちろん都市環境は日々変化しているものですが、一定の安定性を持つことも求められるのです。
身の回りの建築や道路などを都市「空間」として捉えれば、即物的なものだと考えることもできますが、都市「環境」は私たちとの関係性のもとで理解しないといけない存在であり、私たち人間がそうであるように、時間が蓄積されている歴史的なものとして、また文化的なものとして理解しないといけないものです。さらに、いとなみがその土地固有の風土のもとでなされているという意味で風土的存在でもあります。
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都市環境の危機と都市計画
その、私たちのくらしの場である都市環境に大きな危機が訪れたたのが、産業革命後のイギリスです。とりわけ19世紀の前半になると、ロンドンのような大都会に労働者が集中し、高密度の住環境は衛生的にも大問題でした。そのような環境を、当初は保健衛生の問題として解決しようとしていましたが、次第に、汚物のあふれる道路を広くしたり、建物のクリアランスをして空地を確保したりする、都市空間への働きかけの有効性が認められてきます。
そのような中で現代に続く近代都市計画の考え方や手法が確立されたのです。出発点にあったのが高密居住化での衛生問題ですから、基本的にはスラムクリアランスにより、理想的な建築に面的に置き換えていくということが主題の一つとなります。
近代都市計画を支えたモダニズム建築の思想
ではどういう建築で置き換えていくのかということですが、実は建築の世界でも19世紀後半から20世紀初頭は、大きな変革期でした。それまでのギリシャやローマに範をとる伝統的な様式建築ではない、モダニズム建築というものが様々な運動や活動の中で形成されます。モダニズム建築は、工業化社会に対応して、機能に即した合理的な形を自由に造形するということが根底にあります。住宅も車のように機能を優先した機械だととらえ、規格化された工業製品のように建築もインターナショナルであるべきだという位置づけです。
モダニズム建築の思想は都市計画にも大きな影響を及ぼし、既存の伝統的な都市ではなく、合理的な思考でデザインされた工業化社会ふさわしい、新しい都市空間の姿が、提示されます。車が大衆化する時代でもあったので、車利用にふさわしい、機能的に整理されたまちに私たちの環境を再整備するというのが、モダニズム建築の側からも、また近代都市計画の側からも望まれたのです。機能主義都市計画と呼ばれるものです。
近代主義の行き詰まり
ただ、機能主義都市計画は、私たちの暮らす都市環境が多くの人たちのいとなみが作り上げた、歴史的文化的、また風土的存在であるということに重きを置かず、機能面から都市空間を即物的に整備しようという傾向を持つものでした。機能主義都市計画で確かに便利になるでしょうが、私たちが作り上げてきた意味や物語に満ちた環境を失わせ、奥行きや味わいのない風景に変えてしまうという側面も持っていました。
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時代を画する女性
20世紀も半ばを超えると、建築や都市計画の専門家も、モダニズム建築や近代都市計画の行き詰まりを打破しようという動きが出てきました。そんな中で、最も社会的に象徴的であったのがJ.Jacobsの活動でした。
アーバンデザインの誕生
私の師槇文彦氏は、1956年の第一回アーバンデザイン会議の思い出の中で特に印象に残ったこととしてフロアから既成の都市計画概念を糾弾する発言を続けたJacobsのことを挙げています。当時の近代都市計画を体現していたのがニューヨーク都市計画局のR.Mosesです。彼はJacobsの住んでいたグニリッジヴィレッジを通る高速道路計画を推進しようとしました。しかしその計画に敢然と立ちはだかったのがJacobsです。彼女は機能主義の建築家や都市計画が掲げる「太陽、緑、空気」を標榜する都市イメージにNOを突き付けます。
せっかくコミュニティもあり、人々が協力しながら暮らしている場所を壊して田舎を作り出してどうするんだというのです。生き生きとしたまちをつくるための4条件も提示して、専門家と呼ばれる建築家や都市計画課に計画を任せておけないと主張したのです。
それは、人々が暮らす場所で積み上げられてきた空間的文脈や時間的文脈を無視して、ものとしての都市空間だけを技術的に操作するのではない、新しい考え方としての、都市デザインの始まりを象徴した出来事であったのだと思います。空間の中心に人間を据え、歴史的文化的、また風土的存在としての都市環境に丹念に向き合う中で、よりよい解を住民とともに探していくということが都市デザインの基本になるのです。
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日本の1960年代
そういった都市デザインを槇文彦氏などが日本に導入しようとしました。1960年代当時の日本は公害や日照問題など、生活の場としての都市環境に大きな問題が起きていました。また伝統的なまち並は車社会の到来や高度成長の掛け声のもとにどんどん壊され、郊外の巨大団地とともに味気ないまちの姿をつくり出していました。
それに対し、都市は人が生活し楽しく時間をすごる場所であるという視点から、銀座の歩行者天国が試行されたり、『広場と青空の東京構想1971』など社会の価値観を変えていこうという動きも多くみられました。また建築や都市計画の専門家の間でも、実測調査を伴う伝統的なまち並の再評価や、都市空間の特徴を歴史文化的な視点で論じていこうという試みも続きました。名著『日本の都市空間』は1968年に生まれています。
スクラップアンドビルド型の開発ではない、選択肢も見られるようになります。アメリカでのハルプリンたちの先駆的な活動に続き、日本でも倉敷アイビースクエアなどのリノベーションが登場し、時代の転換を感じさせました。
以上のような時期に日本でも都市デザイン(アーバンデザイン)という考え方に基づく活動が始まったと言えます。
<スライド10>
多様に展開する都市デザイン
都市デザインは、日本において生ざまな形で広がっていきました。ただ、その場所固有の空間的、時間的文脈や風土条件を尊重するのが都市デザインなので、一定の決まった方法があるわけではありません。また人間を中心に据えて都市環境を考えるといっても、都市には独居の老人からぐグローバル企業まで様々な人々や組織が関係しているので、解は一つではありません。スライドにあるように、都市ごとのテーマや、誰の願いに対応するのか、何を重視するのかで様々な解答が試みられているのです。
<スライド11>
トップランナー横浜の50年
そんな中で、この50年間、ぶれることなく都市デザインのトップランナーで快走しているのが横浜市です。自己紹介で述べたように、私は槇文彦先生の事務所で横浜の都市デザインに参加することができました。
1971年に都市デザイン室ができて以来、スライド7にある7つの戦略目標は不動です。実に先見の明があったと言わざるを得ません。主要な活動場所は、当初の関内を中心とする昔からの都心から、著しく人口が増加し、横浜としての一体性も確保する必要が出てきた郊外部へと、広がりを見せましたが、基本的な方法、目標は、少しずつ修正をしながらもぶれることがなかったのです。その素晴らしい成果や、継続できた原因などを確認し、学びたいと思いますが、今日はふれることができません。
<スライド12>
独自路線の世田谷都市デザイン
横浜市とは方法などが大きく違いながらも、やはり日本のトップランナーであり続けたのが世田谷区です。都市デザインの担当セクションができたのは横浜より少し後ですが、参加のまちづくり、優しいまちづくりそして風景づくりというのが世田谷の都市デザインの置きな柱になっています。その詳細は斎藤啓子さんのレクチャーに紹介されていた通りです。私は、風景づくりに関して風景条例の審議や、委員会などで関わったり、先ほど申し上げたように優しいまちづくりを梅が丘や豪徳寺で市民の皆さんと取り組む機会をいただきました。
<スライド13>
原昭夫さんによる横浜と世田谷都市デザインの比較
実にユニークな世田谷の都市デザインですが、今日のレクチャーのために準備をする中で初めてスライド13に紹介した原昭夫さんのエッセイに出会いました。初期の都市デザイン室を室長として牽引した原昭夫さんが横浜と世田谷の取り組み方の違いを一刀両断にしています。亡き原さんの優しいけれども鋭く物事の本質に迫る語り口を思い出します。
<スライド14>
私の都市デザイン
以上のように対象とするまちによって都市デザインの手法は異なるのですが、ここで私が都市デザインにどのように取り組んでいるのか、世田谷での実践を例としてお話しします。私は、都市デザインを「地域風景をデザインする」活動として実践しています。時間があれば、スライド14として整理した地域風景をつくるための私なりのテーマのそれぞれをお話ししたいところですが、本日はスライドの中の赤書きの部分、「公共空間のデザイン」と、「みちとの関係で建築を創る」という2つのテーマをどのように展開しているのか、お話しします。
<スライド15>
サインを通して公共空間をつくる
梅が丘駅北口の総合案内サインを設計する機会をいただきました。サインをつくるのはプロダクトデザインですが、私たちはそれと一緒に、人々がサインを眺める場所をデザインします。それが私たちの都市デザインです。
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私たちの考える都市デザインの一端をご理解いただけたと思います。
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周囲に広がるやさしいまちづくり
今回、皆さんの前でお話しすることになったので、梅が丘のサインを久しぶりに見てきました。残念なことに植栽(確か夏椿の株立ちでした)がなくなり、桝はコンクリートで埋められていました。ただ他の部分はきちんと機能しており、ストゥールも親子(外国の方でした)で利用されていました。
少し周りを歩きました。先ほど斉藤啓子さんがお話しされたふれあい通りもきれいでした。ただし、電話ボックスから公衆電話はなくなっていました。でも子供たちの小さな居場所としてちゃんと使われているのではないでしょうか。北沢川緑道に沿って歩いていくと、人が楽しく歩けるみち(当たり前といえば当たり前ですが)がどんどん広がっているのが分かりました。これこそ世田谷都市デザインの歴史的蓄積です。時とともに市民の理解も深まって、都市デザインの質もさらに高いところを目指すようになっていくのだと思います。
<スライド29>
すきっぷ:みちの建築
次のお話しは、建築の設計に関わることですが、建築は小さな都市でもあります。私にとっては建築を設計するということはまちの環境をつくるということに等しい行為です。
私は先ほど申し上げたように、都市デザインを地域風景のデザインという視点から取り組んでいます。私たちが普段目にするまちの風景の中でも視野の多くを占めるのが建築です。その建築を私たちは普通道路上から、あるいはみち空間から見て風景として体験します。建築がみち空間とどのように向き合うのか、風景づくりにとって大変重要なテーマです。
すきっぷは船橋5丁目にあります。細長い敷地に沿って建物を建てました。写真でお分かりのようにこの建物は敷地境界に沿って建っています。両端には壁がありますが、それ以外の部分は、みち空間に対しては「すかすか」の表情です。
<スライド30>
道路に沿って柱梁で格子状に組まれたブリッジがあります。このブリッジが建物の道路側にありますが、すかすかなので出入りは自由です。左上写真のように道路からも内部の様子が見えています。建物によると、中庭があります。地階から2階までの中庭空間がこの建物の中心です。ほとんどの部屋は中庭に開放的に面しています。左下の食堂も中庭とほとんど一体の雰囲気となっています。
<スライド31>
以上のことは、上のアクソノメトリックパースで確認できます。道路と中庭の繋がり方が分かります。左上の断面図が分かりやすいかもしれません。
道路は都市空間を成立させる大切な骨格です。また中庭はこの建物においては、空間構成の要となっています。その両者を隔てているのはブリッジですが、それが「すかすか」であることで、みち空間がそのまま敷地内部に入り込み建物の中心をなす中庭空間になっているといえます。二つの空間が重合しています。
私はこの建物を通して建築と、都市・みち空間との一つの関係のあり方を提示しました。単純に隔てるのでもなく、といって一体にするのでもなく、建築的な仕掛けを通して、両者を緩やかに結びつけることが狙いです。道路からブリッジを通して見える風景に空間の重合性による奥行き感が少しでも出ていてほしいと願うものです。
みち空間と建築の関係をきちんと意識していくことで、少しでも豊かな風景を作り出したいと思っています。他の事例はまた別の機会にお話し出来たら嬉しく思います。
<スライド32>
最後にこれからの都市デザインについて思うことをお話しします。実は、本展覧会の副実行委員長の男鹿さんからは「これからの都市デザイン」について話すように言われました。簡単に引き受けたものの、なかなか難しくてここまでは「これまでの都市デザイン」の話が中心になりました。
都市デザインに欠かせない2つの視点、あるいは態度についてお話ししました。一つは都市空間に人間を据えて人間にとっての環境としてとらえるという視点です。もう一つは、都市環境は私たちのいとなみが時間をかけて作り上げてきたものであり、歴史的、文化的あるいは風土的存在であるということを忘れてはならないということです。その二つの基本事項は時代を超えるものですので、そこのところは変わらないと思います。
ただ、スライド左下にあるように私たちの社会は大きく変化しつつあります。当然取り組むべき主要な課題は変わります。私は最初に自己紹介したように、この20年余りを地方都市をフィールドとしてきました。日本全体に関わる少子高齢化社会など多くの課題が首都圏よりも地方都市で先行しているように思っています。
一例をあげます。スライド右のうえから2つ目の「ランドスケープ的な視点」の重要性です。これは多くの人が指摘しています。経済が成長し人口が増大するときには、建築や土木構造物が増えていきます。おのずと建築や道路、橋などをどう扱うのかが都市デザインの主題となります。ところがこれからは(あるいは地方都市ではすでに今も)構築物は基本的に減っていくことになります。
その時活躍するのはランドスケープデザインです。21世紀になった頃から、建築土木中心のアーバニズムではなくランドスケープアーバニズムという言葉も見るようになりました。建築が減っていくというのは建築の側からの見方です。ランドスケープから見ると、そのデザイン対象が増えるということです。豊かな、空地のデザインができる可能性が広がるわけです。その空地をどう考えて、どのようにつくっていくのかというのは大きな課題です。
柳田国男が言っているそうですが、日本人のもっている自然を尊ぶ心や、忍耐心、人との協調心などは農村の労働の中で培われてきたもののようです。都市に住む人の多くが農村にルーツをもっていた時代には、その倫理観(といってよいでしょうか)は都会人にも受け継がれていました。しかし、都市で生まれ育つ人が増えるにしたがってそういう倫理観もなくなり、自然に対する意識や、私たちが地球全体で循環する有機的な存在の一部であるという感覚も失われてきています。都市が、もう一度自然を基盤にしたランドスケープに戻っていくということはそういった自然観。倫理観を継承していくという意味も持つのではないかと思います。
世田谷は新宿や渋谷からの郊外電車ができた20世紀初頭から田園が都市化してできた都市です。21世紀には逆のことが起こります。都市が田園化していく時代をはっきりと意識して、私たちの環境をデザインしていく方法や目標を設定することになるでしょう。
今の段階では、世田谷区の将来の都市デザインについてこれ以上語ることができません。課題が先行している地方都市での実践をもう少し積み重ねたのちに、より説得力のある「これからの都市デザイン」を語りたいと思います。
<スライド33>
最後のスライドです。
槇文彦氏が教えてくださったセルトの言葉を紹介して、都市デザインについてのお話しを終えたいと思います。
<スライド34>
architecture/urban design