まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

ふるさとの海・山そしてなぜか駐車場

2024-07-23 19:31:10 | 建築まち巡礼ふるさと編 My Home Town, Setouchi

法要のため四国高松に弾丸里帰り。ふるさとの山の形にはなぜかホットします。たまたま手前の砂山が映ってしまいましたが、山とはいっても、砂山をほんの少し大きくした程度なんですね。その小さなスケール感がまたいいところです。

 

帰りは高松駅から瀬戸大橋線マリンライナー。少し時間があったので駅ビルの屋上に出てみました。瀬戸内海を見たいと思ったからです。海が見えます。目の前は女木島、海水浴に行きました。そしてさらに手前の白い島影は・・・・。SANNA設計の新しい県立体育館です。なるほど、外観のテーマは「島」なんですね。

今度の帰郷は結構忙しかったのですが、ちょうど経路上にあるので丸亀町駐車場と再会。スクラッチした穴あきレンガやガルバリウム鋼板のタテハゼ葺きの外壁が、まったく汚れていないことに、いつも嬉しくなります。1階カーテンウォールに「青い波?」のようなものが、描かれているのはちと残念!お店の大事な顔なんですが・・・。

車路もきれいに使われています。こちらも、きちんとメンテナンスがされていて、うれしい限りです。

高谷時彦   Tokihiko TAKATANI

建築・都市デザイン   architecture/urban design

 

 


TDA日韓都市デザイン交流会2024:金沢富山から学んだこと

2024-07-13 19:48:06 | 建築・都市・あれこれ  Essay

 6月20日から23日の日程で開かれた2024年度日韓都市デザイン交流会 in 金沢 and富山に参加しました。韓国側主催は「より良い都市デザインフォーラム(PUDA)」、日本側主催は「NPO景観デザイン支援機構(TDA)」です。韓国からは Lee Seokhyun先生(中央大学)をはじめとする35名の都市デザイナーや研究者、また日本側からは国吉直行代表以下TDAに属する都市デザインナーなど12名が参加しました。

 今回は、まち歩きだけでなく前後の議論や事例・研究発表にそれぞれの都市デザインの最前線にいる行政、研究者、都市デザイナーなどの方々が深くコミットしてくれました。また韓国側からも都市デザインの最先端の発想や事例を教えてもらいました。大変中身の濃い、内容のある意見交換、知見交流の機会でした。

 企画や運営も大変だったと思います。金沢の方々は能登との関係が深く、被災の当事者であったり、復旧復興に忙しかったりする中でいろいろご尽力いただきました。

 こういう機会を作ってくださった日韓両国の方々、また金沢、富山の皆様に心より感謝申し上げます。感謝をしつつ・・・以下に簡単に加賀感想を述べます。

金沢 人口45万人、加賀100万石の歴史文化都市>

照明環境まち歩きからスタート

 日韓都市デザイン交流会のスタートは、TDAの近田副代表が照明環境を演出した金沢城周辺を歩く、金沢城夜景・夜間環境ツアーでした。景観照明の第一人者である近田副代表が、お城などの歴史的環境をどのように演出されるのかを実地に学びたかったのですが、日程の都合で参加できませんでした。残念です。

 ちなみに、翌日知りましたが、金沢市には夜間景観形成条例があります。夜、照明によってつくられる環境の望ましい在り方につてきちんと市民との共有イメージを持っているということです。この一事からも金沢の都市デザインのレベルの高さが推測されます。

 また、要綱などではなく「条例」にしていることには驚きました。金沢市は、「まちづくりは継続性が命であり、たとえ市長が変わっても、その一存で方針転換してはいけない」ということから、景観づくりの方向性を議決が必要な条例で定めているとのことです。

 私は翌21日朝から参加しました。

ひがし茶屋街です。

町家の中。通り庭に明り取りがあります。

坪庭。

ひがし茶屋街で、ツアーの皆さんに追いつき、その後、主計町、近江市場、百万石通りをへてレクチャー会場であるしいのき迎賓館までのまち歩きを楽しみました。レクチャーまでの待ち時間を縫って鈴木大拙館や21世紀美術館を駆け足で見て回りました。短い滞在でしたが、地元金沢で活躍する専門家の皆さんの案内にも恵まれ、多くのことを体験できました。

金沢診断から続く開発と保存のメリハリ 

 金沢が、歴史文化的な環境と、新しい再開発によるいわゆる近代的環境がうまく共存しているまちだという印象は、今回さらに確かなものになりました。韓国の皆さんも同様の印象を持ったように感じました。

 東茶屋や主計町の落ち着いた町家の風景を体験した後にお昼を食べたのは武蔵が辻のビル群のすぐそばです。近代的なものと伝統的な環境が隣り合わせに同居しているのです。ここから香林坊までは大規模なビルが並ぶ商業的なにぎわいゾーンですが、実は一本横道にそれると、鞍月用水という豊かな水の流れる歴史的な環境があります。武家屋敷群もすぐそばです。ここでは特徴のある新旧の二つの軸が同居しています。

 このように開発と保存が同居あるいは近居しているのは、開発と保存の両輪でまちづくりを進めるという金沢のまちづくり戦略の成果です。その戦略が生まれる原点となったのが1966年の「金沢診断」だったことをレクチャーで知りました。地元経済界、金沢出身の建築家谷口吉郎、日本画家東山魁夷他のメンバーで、金沢のこれからの開発には保存と開発の共存が必要だということを確認したのです。

 保存と開発の両立のために、開発エリアを限定し、まずは駅南側の駅ー武蔵が辻ー香林坊の軸に集中させました。その開発が一段落したところで、駅北から港に向かう軸を開発するという戦略です。開発エリア以外はできるだけ伝統的なものを保存するというメリハリのある戦略です。

 

部分の確かさ

 今回のまち歩きの中心は、上記の戦略に沿って保存されたエリアでした。

 時間のない中でのまち歩きでしたが、たまたまJUDI北陸ブロックの上坂さんや木谷さんが案内してくれたことで、非常に深く理解できました。東茶屋街では、単に町家を保存活用するというだけでなく、みち空間やちょっとした広場スペースも含め、非常に丁寧にデザインされていることを知りました。

 街角のバス停です。

 また主計町をへて上のまちへ登る階段を見ても、段の置き方などきめ細かい配慮がされています。また川を渡る橋も、欅材を巧みに組んで、手作り感のある環境を作り出していました。案内してくださった方々の作品でもあります。

 また、先ほどふれた鞍月用水。ビフォアアフターには驚きました。案内は計画づくりや設計を担当された上坂さんです。

昔は暗渠化され、蓋のうえは駐車場になっていたのです。想像できないですね。

それが今では、せせらぎ空間です。お店もしゃれたものに変わっています。みち空間という公共空間を美しく整えたことが、まちの人の意識を変え、商業的な位置づけも変わっていったのだろうと思います。都市デザインの力です。拍手を送りたい気持ちです。

 

背景にある町衆文化

 歴史文化を大切にするまちづくりを、背後で支えているのは、町衆の力だと思います。金沢で感じる活力は、東京の中心部で目にする●●不動産などによる、営利第一の活動から生まれてくるものとは少し、違うテイストを持っています。

 資力に恵まれていた町衆だけではなく、伝統を理解するまちの人々の創意でまちづくりが進められているのだと思います。

 その一つの表れが、職人を大切にする文化です。くらしのディテールを確かにしてくれるのが職人の技です。金沢では職人を育てる学校があり、今も何十人もの人が学んでいます。効率や営利だけを大事にする発想では、長い目で職人を育てることはできないでしょう。市民レベルで、職人文化を大切にしたいと思っているからこそ、続けられるのだと思います。

 そういった積み重ねが、金沢らしい奥深い風景を生んでいるのです。

 

鈴木大拙館

「金沢らしい奥深い風景」と書きましたが、その風景の中に新たにモダニズム建築も仲間入りしています。

 鈴木大拙館です。そこへのアプローチの経路の演出にまず感心しました。

歴史エリアの中でもさらに奥まった一角にあります。緑の深い小路を進むと、少しだけ開けた場所があり眼下に大拙館の一部が見えます。しかしそこに到達するまでに、小路を下り、壁の開口から建物の手前の池をみたり、壁腰に本館の白い壁を眺めたりと多彩な体験が続きます。

蹲?数年前に亡くなった和泉正敏さんの作品です。だいぶ前ですがイサムノグチさんを牟礼のアトリエにお尋ねしたときに、ご挨拶したことを思い出します。

この後にも心憎い演出が続きます。

桂離宮への経路を思い出しました。

 

 建物の玄関に到達した時には、すでに大拙の世界への期待感で一杯になっています。残念なことに開館時間を過ぎていたので中には入りませんでしたが、この中にも素晴らしい経路が用意されていることは十分感じられました。

 

新築の建築、モダニズムのボキャブラリーでできている建物ですが、金沢のもっている歴史文化を体現しているような気にさせます。今度は中を見るために、金沢を訪れることになりそうです。

しいのき迎賓館でのレクチャー、交流会

 しいのき迎賓館は旧県庁のリノベーションです。旧県庁は1924年矢橋賢吉の設計だそうです。全体のフォームとしては古典様式を参照しながら、スクラッチタイルが特徴のアールデコスタイルでまとめられています。玄関側を残し、後ろ側(金沢城側)にガラスのアトリウムを付け加えています。

 矢橋賢吉のデザインが密度の高いものですので、なかなか難しいリノベーションだと思います。旧建物に関わった人たちのエネルギーに負けないようにしないと、単に、「対比的にまとめました」という建物になってしまうと思います。

 たまたま韓国のLEE KIOK先生(Chung-ang University)の報告は日本統治時代の建築の保存活用でした。歴史的建築の保存再生のために調査研究を深めて、ありうべき再生方法を追及されていることには感銘しました。

 私も最近、いくつかの建物のリノベーションに取り組みました。私は歴史に敬意を払いながらさらに魅力を付け加えていく姿勢が大切だと思っています。オリジナルへの過度の尊重、オーセンティシティへの妄信は避けるべきです。またイージーな「対比的なデザイン」も考え物です。韓国の専門家の皆さんと議論する機会があればいいと思っています。

 KANG DONGSEON先生(Hanyan Women's University)は設計者からの発想ではなく、使う側の発想を形にするService Designのお話でした。National Policy Design Groupとして、Service Designを研究されています。この分野でも韓国は日本をリードしているのではないでしょうか。

 金沢の都市デザインについては木谷弘司さんと福塚正浩さん、お二方の説明がありました。的確な図版資料を使って分かり易いレクチャーでした。金沢の歴史にうらづけられたまちの特性をきちんと把握して、都市デザインやまちの魅力づくりに戦略的、継続的に取り組んでおられます。市の職員の方も相当な蓄積をお持ちです。

 そのあとの交流会が盛り上がったことは言うまでもありません。

 

<富山:人口40万人 戦災復興からコンパクトシティまでの戦後都市計画のモデル都市>

コンパクトシティ

 富山はコンパクトシティ戦略で日本中の注目を浴びています。TDA国吉代表が都市デザインの顧問をしておられることもあり、藤井市長自らコンパクトシティの要諦をお話しくださいました。3つありました。「公共交通×居住誘導×まちの活性化」。

公共交通(路面電車)と居住政策の一体的取り組み

 行政だけでなく大学なども加わり、公共交通整備と、居住誘導策と合わせた総合に取り組みを進めています。

 一例として、富山大学の久保田善明先生がまちなかのシェアハウスについて説明してくださいました。家賃政策だけでなく、若い人をまちなかに住まわせるためにシェアハウスFilをつくっています。1階にはコインランドリーや食堂があります。

 説明を聞いた後、お昼を食べに行きました。カレーは(実は苦手の)辛口しかなかったのですが、食べてみました。お店の方が心配して途中に見に来てくれ、お水も継ぎ足してくれました。おいしく頂きました。

この他にも様々な取り組みを総合的に実施しています。

 

公共空間の豊かさ

 市長がおっしゃっていた第三のポイントはまちの活性化です。公共交通と居住誘導策が連携しても、人々がまちに住むこと、まちに集まることに魅力を感じなければ、功を奏しません。

 「魅力あるまちとは何か、どういう条件の下で人はまちのくらしを選択するのか」というのは、簡単に答えがありません。ただ、一つには中心部ならではの、人が出会う機会の多さ、また一定の人がいるからこそ提供される質の高い文化的体験との出会いというものが、あるだろうというのが私の考えです。公共空間そういった出会いや体験の場所になるものです。広場、みち、商店街、川端、公園などの外部空間あるいはただで入れる公共施設などの公共空間が質的に豊かであることも大事だと思います。

 昨年日韓都市デザイン交流で訪れた仁川、議政府、ソウルで感じたのが内外の公共空間の豊かさです。富山はそういう部分でも韓国に負けず頑張っているという印象を持ちました。

 前書きが長くなってしまいました。富山の公共空間巡りは駅北のブールバールから出発。

新しい公共空間整備です。ここを歩いた後、トラムで古くからの中心部に向かいます。

 富山の賑わい軸は東西に延びる総曲輪商店街です。その西端にあるのが複合文化施設富山市民プラザ。その前には幅員26mの大手モールがあります。そこから東に向かって長い総曲輪通りが始まります。

 総曲輪通りの特徴は、中心部にある屋根付きの広場グランプラザです。隣は老舗デパートです。このプラザは、本当によく使われています。イベントでも集まりますし、結婚式をした人の話も聞いたことがあります。もちろんただで座っていられるのでお年寄りの居場所にもなっています。この場所は今や市民の共有の場所コモンズになっているのです。

 

富山市民プラザと大手モール

 グランプラザを運営しているのは㈱富山市民プラザです。社長の京田さんに案内していただきました。先ほど触れた富山市民プラザや大手モールは市が作ったものですが、運営は第3セクター㈱富山市民プラザが行っています。(株)富山市民プラザは「生活価値創造をコンセプトに市民の暮らしをより豊かにする機会を提供するとともに、活気とにぎわいにあふれた富山市の中心市街地の都市空間づくりをめざす」まちづくり会社です。京田社長のお考えだと思います。

 実は市民プラザと「もともとの」大手モールは建築家槇文彦の手になるものです。「もともとの」というのは、槇文彦氏のデザインでつくった大手モールにトラムが通ることになり、その折に大改修されているからです。

 私は、槇事務所時代に富山市民プラザや大手モールの設計を担当したのでこの富山市民プラザと大手モールには特別な思い入れがあります。槇さんは、1980年代、旧市立病院敷地に小さいけれどもきらりと光る文化施設群で複合的に構成される富山市民プラザを提案します。日常生活の中に、小さなハレの場を織り込み、町の中での暮らしをより楽しい魅力的なものにしようというお考えです。またその小さなハレの場は、建物の中だけにとどまってはならないということから、前面にある広幅員(確か26m)の道路をモール化して、細長い広場にしようということも提案されました。

 槇さんにとっては、市民が利用するスペースとしての、市民プラザと大手モールは切り離せないもので、いろいろな活動の場としてデザイン的にも質の高い公共空間を提供したいと考えたのです。そして槇さんは建築はつくられた時が終わりではなく、建築空間を市民がアクティベイトして市民一人ひとりにとっての「場所」になってこそ建築が社会化されていくというお考えでした。

 私は今回、㈱富山市民プラザ京田社長のお考えや取り組みを拝見して、まさに公共空間が単なるスペースから一人一人のとって大切な「場所」になっていることを感じました。京田社長は槇さんのお考えもよく理解しておられ、「大手モールは槇さんの通りと考えていますよ」いう趣旨のこともおっしゃってくださいました。私としては、今回の訪問の2週間前に槇さんの訃報を聞いたばかりでしたので、その言葉を心から嬉しく感じると同時に「槇さんにご報告したかった・・・」という思いで胸が熱くなりました。

 また(株)市民プラザはまちなかにある映画館「ほとり座」に場所を提供する大家さんでもあります。ほとり座はすぐ近くに大手のシネコンがあるのに、90席余りの単スクリーンでがんばっています。私も鶴岡市で鶴岡まちなかキネマを設計し、その運営を応援(気持ちだけですが)しています。ほとり座の人とお話しすると、やはり小さな単館は営業的には大変ですとのことでした。京田社長ともその話になりましたが、ほとり座はもう少し別の形でも支援していきたいとおっしゃっていました。富山市民プラザに心の中で大喝采をお送りしたことは言うまでもありません。

 

レクチャーと交流会

 レクチャーは、隈研吾さんが設計した図書館のラウンジスペースで行われました。最近の図書館は、ショッピングセンターをリノベーションしたものが話題になっていますが、ここは本棚を物販棚に替えればすぐに大きなショッピングビルになりそうな雰囲気です。

 レクチャーでは副市長の美濃部雄人さん、久保田先生、そして市民プラザの京田憲明社長から、いまの取り組みについてお話しいただきました。「コンパクトシティ」で成功しているといわれていますが、その内実を作る素晴らしいプレーヤーがそろっているのが富山市です。

 韓国からはUM JIYEONさん(インダストリアルデザイナー)が元GKのスタッフとしてトラムや駅廻りのデザインに取り組んだお話をされました。JIYEONさんにとって富山は第2の故郷なんですね。

 続いてLEE UIJOONさん(SEDG CEO)からはデザインは社会問題解決のためにあるという視点から、交通の社会実験のお話を紹介いただきました。前日のKANG先生もそうでしたが、韓国では社会問題解決とデザインが不可分のものとして捉えられているようです。

 交流会は、まち歩きの出発点である駅北のブールバールに面したレストランで行われました。ガラススクリーンを開けてブールバールと一体になった環境の中で、韓国チームからは歌もたくさん飛び出しました。外部に広い広場空間があると、本当にいろいろなアクティビティが可能になるということを実感しました。

 

岩瀬が浜

 翌日は自由行動ということで、北前船交易で栄えたみなとまち岩瀬ヶ浜のまち並を訪れました。韓国の方々の多くは早朝名古屋や京都に移動したそうですが、金沢でレクチャーをしてくれたKANG先生とTDA倉澤さんとばったり遭遇。

 以前にも来たことのある重要文化財森家はあいにく耐震補強中で入れませんでしたが、おかげで旧馬場家をはじめてじっくり見学できました。こちらも素晴らしい建築です。

 

 こういう信用金庫のファサードはどう評価されるんでしょうか。まち並みを守っていこうと努力しています。まがい物だと非難する方もいると思いますが、私はまち並づくりに協力したいという金庫の方の気持ちが分かりますし、まずはこれでいいと思っています。

 帰りは、トラムで駅北に戻り、久しぶりに富岩運河の世界一美しいスターバックスを見ました。

あいにくの雨でした。駅まで歩きましたが、以前は何もなかった(すいません!)駅北にもまちの厚みが増してきていることに驚きました。木を巧みに使っています。

富山市の建築模型を置いてある場所もあるんですね。いいことだと思います。

 

<金沢/富山の2都市を巡って>

二都物語

 今回の2都市は韓国側「より良い都市デザインフォーラム(PUDA)」と日本側「NPO景観デザイン支援機構(TDA)」のリーダーの方たちが相談してきめたものと思いますが、本当に見事な二都物語を演出されたことに感心します。

 韓国の都市デザイナーたちも、「金沢は歴史文化をテーマ、富山はプラクティカルな生活・利便性・楽しさをテーマにまちづくりをしている」という印象を語っていました。対照的な2都市の印象が残ったものと思います。

 2都市の違いの背景には、戦災にも会わず、狭い路地小路を含め歴史的なものが多く残る金沢と、戦災でほぼ完全に消失、区画整理を進め近代化を目標とした富山の違いがあります。

 また金沢は、戦後しばらくは江戸末期に同じ人口規模だった名古屋とよく対比され「停滞している」といわれ続けてきました。それに対して富山は豊かな水力を利用した電力を利用した化学工業やアルミ生産そして今でも全国トップの薬産業(富山の薬売りの伝統を産業化しています)など新しい時代に対応していると評価されていました。

 さらに現代の都市計画や都市デザインのコンセプトという観点から見ても、金沢はチャールズランドリーなどヨーロッパ型の「創造文化都市」、対する富山は国も後押しする「コンパクトシティ」。いずれもその分野のトップランナーです。面白いですね。

 もちろん共通することもたくさんあると思います。庶民レベルではどちらも浄土真宗の町ですし、職人仕事が多く残っている等・・・。また、どちらも加賀前田藩の領地です。とはいえ富山(越前)は支藩であったこともあり、金沢とは違うという意識を皆さんお持ちです。同じ富山県でも、前田家に強い親近感を持っている高岡とも違うのです。どうも意識の境界は神通川の西にある呉羽丘陵のようです。

 いろんな意味で面白い二都物語を体験できた日韓都市デザイン交流2024でした。繰り返しになりますが、この2都市を選んだ慧眼には頭が下がります。

 

今後の日韓交流

 来年はどのような企画になるのかわかりませんが、今年のような刺激を求めて参加したいと思います。それまでに少し韓国語を覚えておきたいと思います。そうすれば、交流ももう少し深いところにまで行けそうです。

高谷時彦

建築・都市デザイン

Tokihiko TAKATANI

architecture/urban design

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東大門デザインプラザを通して都市デザインの現在を想う

2024-07-01 18:13:25 | 建築・都市・あれこれ  Essay

동대문디자인플라자를 통해 도시 디자인의 현재를 생각하다

 韓国と日本の都市デザイン専門家の交流会「日韓都市デザイン交流2023」で仁川市や議政府市の都市デザインを見学し、韓国の都市デザイナーや建築家たちと意見交換をしました(6月1日、2日)。最終日(6月3日)はソウルに移動し、みんなでまち歩きを楽しみました。まち歩きのスタートがザハ・ハディッド設計の東大門デザインプラザ(DDP)でした。DDPはデザインやアートをテーマにした、床面積が8万㎡を超える巨大建築です。地下鉄駅、史跡、広場、歩道、歴史公園など多くの機能を複合した都市空間でもあります。ここではDDPを一つの都市デザインという視点でとらえ、私の感じたことを述べます。

 

◆東大門デザインプラザから神宮外苑へ

 敷地は、ソウル市の歴史的地区である東大門地区です。かつては東大門運動場という運動公園でした。野球場、サッカ-スタジアムがあり、多くの人に親しまれる都心の貴重なオ-プンスペ-スです。東京でいえば神宮外苑です。そこにザハ・ハディッドが巨大施設を設計した・・・となると、私の話はどうしても東京オリンピック2020前夜の東京、神宮外苑のことから始まります。神宮外苑は東大門運動場と同様に野球場やラグビ-場からなる、都民に親しまれる公園です。その地に2012年、国際コンペ(設計競技)によりザハ・ハディッドの設計でオリンピックのメイン会場である国立競技場が、建てられることになりました。

 その結果に公然と反対意見を述べたのが建築家槇文彦氏です(私は、修業時代13年間を槇事務所にお世話になりました)。槇氏はザハの案そのものではなく、コンペのプログラム(設計条件)が、既存の風致地区としての都市計画規制を一気に緩和し、巨大構造物の建設を前提としていることを主要な問題としました。多くの日本人建築家から賛同が示されましたが、結果的には別要因(建築工事費の問題)でザハの案は白紙となりました。

 コンペに勝ったにも関わらず、幻の設計者となったザハは日本人建築家に対する感情的で辛辣な批判をした後、急逝しました。後味の悪さとともに2つの残念な思いがあります。

 一つ目は亡きザハの誤解です。槇氏は開発志向のプログラムを前提とすることに異議を唱えましたがザハが言うように外国人を排除しようとしたわけではありません。「新しいプログラムのもとでザハ・ハディドを設計者にするのが良い」と提案しているのです(槇文彦2020、『ア-バニズムのいま』鹿島出版会p171)。

 もう一つ残念なことは、プログラムを修正したうえでのザハの案を見たかったということです。周辺環境への配慮が埋め込まれたプログラムを前提にした場合、ザハはどのような案を提示したでしょうか。知りたいものです。

 

◆東大門デザインプラザの都市デザイン

 前置きが長くなってしまいました。東大門デザインプラザを見ていきます。

 まずDDPの外観のユニ-クな形状に圧倒されます。全体がアルミパネルに覆われ、あえて例えれば少し扁平の飛行船(ちょっと比喩が古臭いでしょうか)のような曲面体が、くびれと折れ曲がりにより非定型の3つのゾ-ンに分かれているのです。それぞれがデザインラボ、ミュ-ジアムとア-トホ-ルになっています。この曲面体の三分の一程度が歩道レベルより下にあり上部の三分の二程度が地上に顔を出しています(写真-1:北側からの外観)。

 曲面体がくびれ、折れ曲がった部分に、地下2階から地上部分に抜ける階段などの移動空間が仕込まれています。実にダイナミックです。ザハデザインの特徴である曲面はこういう三次元の人の動きを伴う場所で一番生きるように思います(写真-2:地下から地上への階段)。

 

アルミパネルのつくる大きな面に沿って上方に移動し、地上部に出ると、建物の東側の歴史文化公園を望みます。歴史施設との対比も面白く目に映ります(写真-3:隣の歴史文化公園)。

 

 また曲面体は地下空間を覆うように張り出しています。スペ-スフレ-ムで片持ち構造をつくっているとの説明でした。さぞかし迫力のある現場の情景が想像されます。私は以前工事中に訪れましたが、遠くから眺めるしかありませんでした(写真-4:工事中のDDP)。

 アルミの巨大なボリュ-ムに覆われた地下2階の広場には建設中に発掘された遺跡が残され、未来的なザハの造形と面白い対比をなしています。印象に残る場面演出です(写真-5:史跡とDDP)。

 建物の中に入ると、ここにもザハワ-ルドです。デザインラボから案内してもらいましたが、階段という移動動線が、うねる曲面により巧みにデザインされています(写真-6:ユニークな階段)。

 

 

最上部は屋上庭園(写真-7:屋上庭園)です。この庭園も地上までつながった移動スペ-スです。

 

 ミュ-ジアムゾ-ンの上下移動は経験したことのない長いランプ。自然にみんな導かれていきます。不思議な体験です(Fig-8:長いランプ)。

 DDPの全体はデザイナ-の恣意的で自由な造形に見えますが、史跡のある地下広場と周辺街区や歴史公園に連続する地上部のダイナミックに結びつけ、また地下鉄駅と周辺東大門市場などとをうまくつなぐ役割も果たしています。地上部に広がるグロ-バルシティとしてのソウルと、地下にある李氏朝鮮時代の歴史をつないでいるということもできます。現在にも過去にもない未来的な造形で、現在と過去をつないでいるということもできるでしょう。地上部でその曲面に沿って、ユニ-クなパブリックア-トに出会いながら歩くという体験も新鮮です。まさに巧みな都市デザインだと思います。

 東大門地区は、城門の置かれた歴史地区であると同時に、ファッション関係の企業や店が集中するファッションタウンです(写真-9:ファッション店)。

 

 DDPのアルミパネルで覆われた不定形の曲面体という全体の姿や、流れるようなダイナミックな感覚を体験させる内部空間は、東大門地区をデザインの力でさらに発展させていきたいという地区の持つ意志や持つべきイメ-ジを強力に発信し続けています。

 

 グロ-バルな都市間競争の時代にあって、デザインでソウルのアイデンティティを確立するというのは、歴代ソウル市長の都市戦略です。その戦略に沿って、DDPは十分すぎるくらいの役割を果たしでいるのは間違いないと感じました。ザハは、自分のデザインを思う存分展開することによって、期待された役割を果たしたと言えます。都市デザインの力を感じさせる成功例です。

 

◆東大門デザインプラザでもう一つ感じたこと

 都市デザイン的な成功例であることは間違いないと感じたのですが、私個人レベルでは、少しだけしっくりこない感じを持ったことも正直に報告します。それは先ほどのランプの印象に象徴されます。ザハの空間は、ダイナミックで動きがあり楽しく刺激的ですが、私が気になるのは、移動させられているという感覚が生まれてしまうことです。計算されているがゆえに、私個人の行動が、ザハによってうまく誘導されているという印象です。人間は移動の途中にも立ち止まったり、しゃがんだり、場合によっては逆方向に歩き始めたりと、ある意味では勝手な動きをするものです。もちろんこの空間でもできなくはありませんが、ちょっと勝手にはしづらい設定された「流れ」のようなものを感じてしまいます(写真-10:演出された階段)。

 違う見方をすると、この経路で建築家のデザインを体験してほしいという意図があまりにも直接的に感じられるということでしょうか。人間が「流れ」の空間にあっても勝手に自分中心の場をつくったり、よどみをつくってしまうものです。建築家がそれを前向きに受け止めようとしているのであれば、そういうよどみのきっかけとなるような質感の違い、素材感、小さな場所の感覚・・・そういう自由度、ある意味ではゆるさ、があってもよいのではないか、その方が、人がリラックスできる環境ができるような気がします。あえて言えば、人間スケ-ルの建築空間においては、個人の行為のすべてを読み切ることをあきらめるしかないか、という建築家の自信のなさや逡巡が表れてもいいのではないか・・・私は時にして思うのです。

 もう一つ別の視点からの印象を述べます。

 ザハの示した都市デザインは、ソウルの歴史やまちの構造にもしっかり対応しています。しかし、造形自体はソウルでなくても成立するものです。この地の風土的、歴史的なものとのつながりがあればさらに良いのでなないかという思いです。

 

 以上私個人の2つの印象と思いを付記しました。しかし、私の希望にこたえるようなデザインは、ザハのめざすところではありません。ザハのデザインは、それ自体で個性にあふれるもので、その個性ゆえに世界中をくまなく席巻したのだと思います。才気あふれるザハならではの空間が隅々にまで徹底されているのです。その土地固有の事情に拘泥すればザハらしさを失うことでしょう。以前ロ-マの21世紀美術館を見ましたが、あのロ-マ固有の歴史的市街地にあってもザハはザハでした(写真-11:ローマ21世紀美術館)。

 だからザハに私が考える都市デザインを期待してはいけないということになりますが、では私の考える都市デザインとは何か、もう少し具体的に述べてみようと思います。

 

◆私の考える都市デザイン

 私たちを取り囲む都市空間は、建築、道路、橋、公園、川など様々な構築物や自然的要素から成り立っています。都市空間という言葉はフィジカルな実態を指すと考えていいでしょう。そこに私たちが暮らしいます。ひとのいとなみや暮らしの場だと考えると、都市空間というよりは都市環境という言葉が似合います。

 人間にとっての環境という意味では、気候や自然、風土なども都市環境の一部と考えたほうが良いでしょう。

 私たちの都市環境は自然や風土のもとで人々の物的あるいは精神的ないとなみが長い時間をかけて作り上げたものです。そういった都市環境のなかで私たちは育ち、くらし、様々な経験をします。時間とともに、都市環境は、様々な意味や物語に満ち、複雑な文脈をもつ世界となります。その環境とのかかわりの中で、私たちは自分が誰であるのかということを確かめます。「ここはどこ?」という問いは「私は誰?」という問いにほぼ等しいと思います。私たちは、歴史的、文化的、また風土的存在である都市環境との関係の中で生きているのです。

 19世紀半ばに生まれた近代都市計画や20世紀初頭から並走するモダニズム建築や都市思想は、都市環境が歴史的、文化的また風土的存在であるということをひとまず棚上げして、インタ-ナショナルで機能優先の都市空間づくりに励んできました。その結果が均質で味わい深さに欠けるまちを生みました。その反省のもとに、都市空間に再び人間を置き、歴史的文化的また風土的存在としての都市環境を個性的魅力のあるもの、誇りをもって生きるためのよりどころにする活動が20世紀後半からの都市デザインだったというのが私の理解です。

 都市デザインが扱うべき課題や目標、手法は地域、時代によって様々です。しかし、人間を中心に据えるということと、歴史、文化、風土的存在として都市環境をとらえるという態度は根底にあり、変わらないものだと思います。

 ここでDDPに戻ります。先ほどふれたミュージアムゾーンの長いランプは人を移動させるという機能にザハらしい流動的で未来的なデザインを与えたものです。一方、都市空間に常に人を想定し、その人にとっての環境として捉えるのが都市デザインです。ザハの「美しいランプ」には建築家の思いがみちているものの、「自分の居場所」にできるような手がかりがない、つかもうとしても手から滑り落ちてしまうというのが、私の印象です。

 また、都市デザインは、その場所における時間の流れや、文化の繋がり、そして風土が積み重ねてきている文脈を注意深く読み取るところから出発します。そのうえでそっと丁寧に新しいものをつけ加えていくという態度です。もちろん既存の文脈にばかりに目を捕らわれると単なる保守主義になってしまいますが、といって何も知らないかのように振る舞うことは、私の考える都市デザインとは異なるものになります。

 ザハの都市デザインは、きわめて個性的な造形力で解決すべき課題を都市空間の中で見事に解決しているという賛辞が送られるべきものです。同時に、ほんの少しですが、置き去りにしたもの-それは私の考える都市デザインには不可欠な「一人ひとりの人間の存在への思いやりと地域らしさへのこだわり」-があるのではないか、というのが私の個人的な感想となります。

 

◆ソウルの都市デザイン、東京の都市デザイン

 DDPの感想にとどめるつもりでしたが、少しばかり話が拡大してしまいました。もう一つだけ私の印象を述べます。

 DDPのデザインラボを案内してもらったときにヘザウィックというイギリス人建築家の面白い椅子と出会いました。最近までヘザウィックという建築家のことはよく知りませんでしたが、たまたまDDPを訪れる1週間ほど前に、東京の森美術館でヘザウィックの展覧会を見て関心を持ち始めていたので気になりました。ソウルでも展覧会があるらしく、またネットで検索すると新しい開発計画の指名コンペにソウル市からヘザウィックが招待されているとの情報が出ていました。そのことに興味が引かれました。

 東京でグロ-バルな都市デザイン戦略を展開する森ビルでは最新作の麻布台ヒルズに彼を起用しています(写真-12:麻布台ヒルズ)。

 あくまで私の印象ですが、森ビルはこれまでKPF事務所などインターナショナルスタイルのデザインを求めることが多かったように思います。ヘザウィックもグローバルに活躍していますが、その場所や敷地の条件に合わせて固有の解を見つけだしたり、特有の質感や素材感にこだわったりする人のようです。世界中どこでも同じスタイルを主張する(ザハのように)のも一つの個性ですが、場所に合わせて毎回変身してみせる建築家にも惹きつけられます。ヘザウィックの起用は時代の空気を読む森ビルの戦略でしょうが、同じ現象がソウルにも起こっているとしたら、面白い符合だと思いました。

 当たっているかどうかは分かりませんが、グロ-バル戦略に沿った都市デザイン(それも都市デザインの在り方の一つです)の世界においても、場所固有の条件や人間の持つ手触り感覚を生かして発想していくような建築家への期待が大きくなっているのではないでしょうか。

 

◆再び神宮外苑へ

 冒頭に続き、神宮外苑に再び触れてこの小文を終わります。

 神宮外苑では、オリンピック後にも大きな問題が噴出しています。東京オリンピック2020の前に大変厳しかった都市計画規制が緩和されたわけですが、その緩和の恩恵を享受する高度利用再開発案により、既存環境の激変が懸念されています。都市デザインのアウトプットは誰の声に重きを置くかにより、大きく異なってきます。神宮外苑の再開発案では、関係するグロ-バル企業の声が優先されています。一方、永遠の森をつくるために全国から浄財を寄せた、名もない多くの人たちの願いが形になったのが神宮外苑です。もう一度原点に戻り、歴史文化的存在としての神宮外苑に向き合い、絡まった糸を丁寧にほぐし、つむぎなおすことが、都市デザインに求められています。

 神宮外苑の都市デザインを、韓国の都市デザイン専門家の皆さんに大手を振って紹介できる日が来ることを願うばかりです。

This is an essey on Dongdaemun Design Plaza, or DDP, in Seoul I visited last year as a member of NPO Town Desgn Aid. Everybody knows DDP, designed by a renowned architect Zaha Hadid  as a  successful case on urban design. While I also appreciate it, I found myself not fully satisfied  with her way of design. She left behind something indispensable to human oriennted urban design I had been pursueing.  

高谷時彦

建築・都市デザイン

Tokihiko TAKATANI

architecture/urban design