conscience

my diary

アシモフの小説から現在の出来事を見て

2022年06月06日 | 日記
 SF小説が子供の時から好きでよく読んでいたが、アラ古希の年齢になって、改めてアイザック・アシモフの「銀河帝国の興亡」を読んでいる。アシモフが活躍した時代は、第二次世界大戦前後から20世紀半ば過ぎが主であったようだが、今読んでいると、やはり、その時代に生きた人ならではの発想で書かれており、現代の、コンピュータと通信技術の融合による、産業革命や社会生活の変化などが書かれていないことに何かしらの違和感を感じて仕方がなかった。もっとも、現在のウクライナ戦争にしても、プーチンという専制者による欧米との覇権争いの戦争であり、戦争の態様も、ドローンやミサイルなどが使用されてはいるが、現実の戦場では、大砲や戦車などの火力による攻防が主体となっているなど、第二次世界大戦時からして、社会状況の大本には、そんなに変化がないようにも見えるので、必ずしも、アシモフの小説が時代遅れという訳でもなかろう。
 この小説では、心理歴史学という、群集心理学や社会心理学をベースにした未来予測の学問が取り上げられているが、本当に、遠い将来にそんな学問が登場したとして、未来予測など出来るのだろうか。確かに、現代でも、気象予測の分野では全地球規模での気候観測と大型コンピュータによる高精度な計算によって、ある程度までの気候の変化や天気予報が可能になっているが、それを人間社会に応用することは可能なんだろうかと考えた時、例えば、中国、北朝鮮のように、国家による徹底的な国民監視と、社会体制に不都合な情報の遮断、現指導部に従順であることを強いる洗脳教育、体制に都合の良いような歴史の改変、国家管理の中での資本主義経済を行うとの前提であれば、或は、そのような未来予測の確立計算を行うことも可能ではないかと思うが、一方では、そのような専制国家は、得てして停滞状況に陥ることも避けられないだろう。それこそ、アシモフが、この小説で取り上げているような帝国の崩壊と復活ということと類似するかもわからない。しかし、ウクライナ戦争もそうだが、いつも歴史の中で翻弄されるのは庶民であるとすれば、何ともやるせない思いもすることになるし、未来の社会は、国家による専制管理社会ではなく、自立した個人による共存社会であって欲しいと願ってやまない。
 今の時代こそ、未来の社会が、国家やAIによる総管理社会か、それとも、自立した多様性のある人間による社会となるかの分岐点ではないだろうかと、この小説を読んで考えている。管理される社会に暮らすことは、ある意味では全て指示してくれて楽ではあっても、本来の人間とは、多少厳しくあっても、主体性というものが大切ではなかろうかとも思っている。
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