江戸川区が発表した「ひきこもり」の調査によると、約70万人の人口のうち、ひきこもり当事者が7919人いるとのこと。100人に一人強であり、江戸川区の世帯数が35万世帯に少し足らないので、ひきこもり当事者が一世帯一人と計算すると、44世帯に一人のひきこもり当事者がいるという計算となる。
ある記事のひきこもりの概要によると、「ひきこもりとは、家族以外との人間関係がなく、社会参加をしていない状態を指します。必ずしも家に閉じこもっているわけではなく、外出をするような方でも家族以外の方との親密な対人関係がない状態は引きこもりに含まれます。不登校をきっかけとして、ひきこもりになる方もいますし、退職をきっかけとしてひきこもりの状態に陥ることもあります。どなたであってもひきこもりの状態になる危険性があり、大きな問題のない一般的な家庭でも起きてしまいます。ひきこもりになってしまうと、社会的な適応度が著しく低下します。さらに、長期化するとともに、精神症状や二次的な問題行動を引き起こしてしまう可能性があり、一生を棒に振りかねない状況におちいる場合すら珍しくありません。正確な情報に基づいて注意喚起を行い、抜け出したいと望む方には適切な支援がなされるように窓口を整備し、正しい介入を行うことが重要です。」とある。
私は、小・中・高と学校には登校していたものの、友人と呼べる人はいなくて、自宅に帰ると、近所を散歩する以外は外出することは稀であったし、退職後も、自宅以外の行動は、妻と毎日買い物に行く以外には、ほとんど外出していないので、ひきこもり人生を生きているのかもしれない。
子供の頃は流石に寂しいものがあったし、かといって、ひきこもりも長期化すると、人と交友すること自体が煩わしく、ある種の恐怖を感じることもあった。発達生理学や運動生理学から考えると、人との関わりの中で社会性が発達すると言うし、幼児期からの遊びも含む運動習慣が、俊敏性などを養い、脳の発達にも影響すると言われている。確かに、ひきこもり生活で失う物は大きく、ひきこもり生活が運動能力や社会対応能力に負の影響を与え、そのことにより抱いたコンプレックスが益々ひきこもりを助長することは論を待たない。それでは、この負のトライアングルから抜け出すことは出来るのだろうか。また、そうすることが当人にとって幸せとなるのだろうか。
例えば、ひきこもりの人に、強引に仕事につけと説得しても、本人は、煩わしいだけだし、人との関わりは一種の恐怖でもある。例えば、適切なカウンセリングが受けられる機関があれば、それも一つの方法であるかもしれないし、当人が自分自身で自覚して、少しずつ無理のない範囲で行動範囲を広げてみるというのも方法の一つなのかもしれないと思うが、一旦、ひきこもり生活に入ってしまうと、自覚していても、その行動に踏み出すことには、かなりの困難さが伴う。
その意味では、私にとっては、仕事に就き、それで失敗を重ねながらも、止む無くして人と触れ合う経験を積んだということや、退職後、放送大学で学び直しが出来て、自分というものを俯瞰的に見ようと出来たのも良かったかもしれない。なによりも、妻の存在も大きなものがある。しかし、上記のひきこもりの定義からすると、私は、まだ、ひきこもりから脱出していないと言われるかもしれないが、今は、それでも良いじゃないかと思っている。
コロナが、もう少し落ち着いたら旅行にも行ってみたいし、今まで行ったことのない地域で、何日か、ブラブラと過ごしてみるのも一興かなあとも思っている。そんな私が日常生活でしていることは、ラジオ英会話を毎日聞くことや散歩に行くことで、英会話については、そもそも、人との会話が苦手なのに外国語を学んだとてと思うこともあるし、記憶能力というか想起能力が年齢と共に衰えて来たのも自覚しているが、それでも、毎日同じ時間にテキストを開いてラジオを聞くということによって、日々の生活でのメリハリを作りたいと思う。散歩については、尿管結石を何度か患ったことがあり、運動習慣がその予防になるのではとも思って、結石の痛みの再発についての強迫観念を意図して持つようにしている。そして、このブログを書くことも一つの頭の体操にもなると考えている。
孤独であることは何よりも辛いが、しかし、孤独に慣れてくると、今度は人との関わりがうざくなってくる。現代は、孤独であっても、何とか生きていける時代ではないかと思っているが、そんな人間も存在していることを世間に理解して欲しい。もっとも、孤独な人間も社会との関わりなくては生きてはいけないのは当然ではあるが、・・・・・