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my diary

常識に潜む罠

2023年03月26日 | 日記
 学校教育は、子供達が社会に調和する為のルールや知識を教えるものだが、明治期に始まった学校教育の目的は、天皇を中心とした国家の役に立つ臣民を育てるということに主眼が置かれ、軍国主義の流れは、国体を守る為に一億総玉砕の覚悟を国民に求めたものになっていった。戦後の平和教育も、GHQの方針によって、戦争への反省と理想論的平和主義を学生・生徒に教え込むものになったように思う。そして、また、学校教育は、学業成績優秀で規範意識のある生徒を醸成することを主な目的とすることになった。そして、更に言えば、学校の管理者側としては、有名校に何人入るかとか、スポーツ活動で全国大会等で優勝するとかも目的の一つになっていき、その方針から逸脱した学生・生徒のケアなどに目を向けることは少なくなってしまった。
 しかし、現代は、有名大学を卒業して有名企業に就職したとしても、それで将来的な安泰が保証されたわけでもないし、例えば、聖職とされてきた教師や警察官に就いていても、盗撮や性犯罪、万引き等で検挙される者が何人もいる。人は、欲望や嫉妬・羨望にまみれた生き物であり、それを外見的に体裁良く整えているに過ぎない。また、世の中に合わせることの巧みな人は、それだけで高い評価をされることになるが、だからといって聖人君子な訳ではない。芸能人アイドルも、隠れた本質では異性関係等が派手であることが多いだろう。今、話題の多い三浦夫婦も、高学歴や外見的な派手さで本質を隠してきたが、本当は、かなり違っていたとのこと。
 世の中には様々な人がいるが、立派なことばかり言っている人こそ本当は油断がならない。統一地方選挙中だが、立派な公約の影には何が隠れているのだろうか。例えば、女好きだというような候補者がいたとしても、それが私的な範囲にとどまり、公的な立場で国民の為になる政策を実現してくれるのなら何も言うことはない。LGBTQ法案なども、そのことによって世の中の多様性が実現するなら言うことはないが、単に、発言力が高いグループの取り込みを狙った人気取り政策であるなら疑問だ。
 多様性尊重ということは、今まで常識とされてきたことを打ち破るということであり、家中心の保守的な考え方や、核家族を中心とした各種の政策を変えることでもある。差し詰め、マイナンバー制度を利用した個人単位の年金・保険制度への移行や、夫婦別姓などの実現も視野に入れるべきだろう。それが進めば、外国人移民の受け入れ制限の大幅緩和ということにも進むだろう。しかし、それだけの覚悟が自民党や野党の政治家達にあるのだろうか。更に進めば選挙制度自体も変更する必要もあるだろうし、当然、憲法や各種の法律の改正も考えなければならない。岸田首相も、異次元の少子化対策と発言するなら、そのくらいの覚悟を持ってやって欲しい。
 常識を守るということは、ある意味では、コンホートの中に留まり、多様な未来の可能性に目を背けているということでもある。その意味では、世の中から距離を置いた方が、世の中で行われていることを客観視出来る可能性があることでもある。
 英語を勉強していて思うのだが、外国語を覚えようとすることは、長年に渡って自分に染みついた考え方の癖などを変えるということでもある。百回も読んで暗唱すれば、高齢となっていても、その文章そのものを覚えることは出来るかもしれないが、しかし、考え方の癖までも変えることは困難ではなかろうかと思う。日本に産まれ、戦前生まれの親に育てられ、文部省の管理する学校教育を受け、マスコミなどの影響や、職場での環境も、私の頭の中に固定観念を育んできたが、この年齢になって、ようやく私が常識と思っていたことは、そのほとんどが思い込みに過ぎないことに思い至ようになった。

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