Umi kakasi

自分が感じたことを思うままに表現してみたい。

偉大な横綱逝く

2013-01-21 01:09:13 | 日記

第48代横綱大鵬(納谷幸喜72才)さんの死去

昭和の大横綱・大鵬関のご冥福を心からお祈りしたい。
  
大鵬関の死去は個人的に無縁とは言いがたい、大鵬関が生まれたのは1940年、
ウクライナ出身の父と、日本人の母の間に北海道旧樺太(現サハリン)で
生まれた。終戦と共に北海道に引き揚げ、中学卒業後、スカウトされて
16歳で二所ノ関部屋に入門し、31年秋場所9月場所から初土俵を踏み相撲
人生が始まった。
ちょうどその年、昭和31年の春、小生が九州は陸の孤島宮崎から、就職列車で
上阪した同じ時代でもあった、それから5年後の36年の秋場所後に、のちの
ライバル柏戸とともに、21歳3ヶ月の若さで、第48代横綱に柏戸と共に同時に
横綱に昇進(当時最年少昇進)だった。
  
その後、「剛の柏戸」「柔の大鵬」と言われ「柏鵬時代」と呼ばれる大相撲の
一時代を築いた。この対照的二人の取り組みは、ファンを沸かせ黄金期を
築き上げた大鵬関、子供から大人に至るまで、昔からキャンプ地を宮崎に置く、
強い読売巨人軍と大鵬関、なんといっても子どもの好きな玉子焼き、これらを
称し、好きな代名詞として「巨人:大鵬:玉子焼き」が流行語にもなった。
野球は読売巨人軍の常勝時代ON(王・長嶋)と並び、国民に圧倒的人気の
横綱大鵬関は、当時の国民に勇気を与えたようだ。
こうして大鵬関の過去を顧みると、1956年9月場所、二所の関部屋から初土俵。
59年夏、新十両。60年初、新入幕。同年九州で初優勝を飾り場所後に大関昇進。
61年秋場所後に21歳3か月と当時史上最年少で第48代横綱に柏戸関と横綱に
同時昇進「柏鵬時代」到来で相撲ブームは頂点に達した。
初優勝、大関昇進、横綱昇進はいずれも当時の最年少記録。史上初の6場所連続
優勝など記録を挙げたらきりがない71年夏場所中に引退。
優勝回数は史上最多の32回、全勝優勝8回はいまだに史上1位、幕内在位69場所で
746勝144敗、引退後は一代年寄「大鵬」として部屋を起し関脇・巨砲らを育て、
05年5月の定年と同時に相撲博物館館長に就任、08年12月に同館庁を退任。
09年には各界初の文化功労者に選ばれた。

戦前より戦後20年代は、この国の国技である相撲は、年二場所の為、地方では、
めったに相撲は見ることが出来なかったが、その間、協会は大相撲普及に
日本各地へ出向いて、大勢のファンに相撲を見せるため、相撲の地方巡業は
活発に開催された。
  
現在の様にテレビなどで見ることもできなかった、当時の各地方では、メディア
はラジオだけで、本物の相撲取りを見るのは、いつ来るかわからい、相撲の
地方巡業の来ることを、心待ちにしていた時代でもあった。
そしてやって来たのが昭和13年にようやく、我がふるさと九州は、宮崎の
片田舎油津にもやってきた、今でも言われることだが、体の弱い子供は、
お相撲さんに抱いてもらうと子供は元気で強くなると言われ、幼少の頃、体の
弱かった私は、大鵬を育てた二所ノ関部屋の先々代関取、「玉の海」に抱いて
頂いたせいか、元気で今に至っているが、先々代玉の海に、「抱かれて」
元気に人生を過ごした、小生としては、名門「二所ノ関部屋」が、場所後に
閉鎖になることが決まったことで、さみしく感じるのは私だけではあるまい。
二所ノ関部屋は1909年に創設、100年の歴史あるこの部屋、横綱は大鵬の
他にも32代の玉錦、元関脇の神風、玉ノ海、後にプロレスラーとなった
力道山らを輩出した。この歴史ある「二所の関部屋の閉鎖」には
何と言ってよいのか、複雑な心境だ。
偉大な横綱大鵬も心残りで残念だっただろう。
改めてご冥福をお祈りしたい。合掌

 

 

HP みやざきに「きやらんか」