デビット・カン著 福音の道しるべ 106
本章では、次のことを吟味していく。第一に、罪の赦しと罪の除去との違いを。第二に、罪が消し去られるのは正確にはいつなのかを。第三に、罪の除去の過程を。そして最後に、罪が拭い去られたら、私たちはどうなるのかを吟味していく。
罪の赦しと罪の除去〔消去〕は、全くの別物である。聖所において、罪の赦しは、日ごとの儀式の結果与えられた。罪の除去は、年ごとの儀式の結果なされた。従って、罪の赦しは年中与えられていたが、罪の除去は、年に一度の贖罪の日に、罪が最終的に赦され排除された結果なされるものであった。私たちの経験に当てはめるならば、赦しには、日常的につきまとう罪の悔い改めが含まれる。神は憐れみのうちに、私たちの名前のそばに「赦免済み」と書くことによって罪を免除なさる。神が個々人の件を調査し、私たちの誠意と品性を調査しておられる間は、罪の記録が消去されることはない。罪は、巻物に書かれたままである。しかし、それにもかかわらず、悔い改めるたびに、私たちは神の恵みによって、永遠に赦された者とみなされる。もしこの経験を最後まで継続するならば、赦しも永続するのである。神は忠実で、決して変わらないお方であり、変わりやすいのは人間のほうである。人の心は移り気で、一度は罪を悔い改めても、その同じ罪に立ち戻り、滅びの道を選んでしまうことさえある。赦しはまだ手の届く範囲にあるが、もしも不服従の道を最後までたどり続けるならば、人は裁きの時に、自らの罪の責任を負わなければならなくなる。この移り気のゆえに、完全な罪の除去、あるいは覚えの書から罪の記録が永久的に消去されるのは、私たちの件が決定されるまで持ち越されるのである。この観念は、霊感の筆によって支持されている。
新生への道:悔い改め ⑫
たとえそれがどんな小さい悪癖、どんな欲望であっても、いつまでも心の中でもてあそんでいるなら、ついには福音のすべての力を無にしていまいます。魂は罪にふけるごとに、神をきらう心が強くなります。頑固に神を信じようとせず、真理に対して全く冷淡であるという人は、ただ自分の播いた種を収穫しているにすぎません。昔の賢人は、罪人は「自分の罪のなわにつながれる」(箴言5:22)と言いましたが、悪をもてあそぶことが恐ろしいということを、これほど適切に忠告しているものはありません。
キリストは、いつでも私たちを罪から解放しようとしておられます。けれども、私たちがどこまでも罪を犯し続け、その結果、意志は全く悪に傾き、罪から解放されることを望まず、キリストの恵みを受け入れようとしないならば、キリストは何をなさることができるでしょうか。私たちは彼の愛をどうしても受け入れようとしないため、自らを滅びに陥れるのです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(Ⅱコリント6:2)「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、・・・心を、をかたくなにしてはいけない」(ヘブル3:7,8)
「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)。人の心には、喜びと悲しみがあるかと思えば、横道にそれようとするわがままな心があって、さまざまな不純と虚偽が宿っています。神は、その動機、意図、また目的そのものをごらんになります。汚れたそのままの心で、神のみもとに行きましょう。詩篇の記者がうたったように、すべてをごらんになる神に心を大きく開いて、「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、私を試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください」(詩篇139:23,24)と願いましょう。