SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

霊的な心 第9回

2015年05月22日 | 日記

これは新しい創造なんです。天使のような肉体をいただくのです。その肉体をいただいて、永遠に、永久に生き続けるのです。命の木の実を食し、それを消化することが出来るようになります。命の木の実を食べることが出来るようになります。その実は今、この肉体では食べることは出来ません。いのちの木の実の栄養をきちんと消化するためには、新しい強靭な肉体を必要とするのです。

一口食べたとします。かつて味わったことのない味を経験することでしょう。本当に元気になるような、甘いのかちょっと酸っぱいのかわかりませんけれども。私自身、色々な国に行ったことがありまして、いろいろな種類の果物を口にしたことがあります。サボテンの実を食べたこともあります。とてもおいしいです。信じられないくらいおいしかったです。砂漠の、サボテンになっている実だったんですね。韓国の言葉に、三人の人と一緒に食べたら、その人たちが死のうとどうなろうとかまわないくらい美味しい、と言う表現がありますが、そのくらいおいしかったんです。本当に素晴らしい味でした。それを食べながらこのように考えました。「生命の木の実、どんな味がするんだろう」。イエス様が私たちをお救いになった時に、私たちのために用意しておられるいろいろな賜物、贈り物について考える時、本当にワクワクしませんか?

皆さん、永遠の命にふさわしい者となるために、私たちは今、品性を形作らなければいけないのです。この正しい過程を、いかなるものにも邪魔されたり、危険にさらされたりしてはいけません。最も重要なのは永遠の命を獲得することですから、この品性建設の働きを、誰にも妨げられてはいけないのです。


霊的な心 第8回

2015年05月21日 | 日記


詩篇139篇を見てみましょう。詩篇139篇1節2節です。「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます」。神様はすべてをご存知ですね。私たちの思いを読むことがお出来になります。これは本当に特別なことではないでしょうか。神様は遠いところにおられても、私たちの思いをご覧になります。知っておられます。私が、立って歩いている時も私の思いをご覧になります。そして、絶えず、一瞬一瞬私たちの思いを天の記録の書、天のコンピューターに記録されているのです。天のコンピューターに、このようにして私たちの全ての思いが記録されていくんです。

 

   復活は新しい創造

復活の経験というのは、どういうものかご存知ですか。時には若い人たちからこのような質問を受けることがあります。ある人が海で溺れて死んでしまって、海の魚たちが群がって来て、体の一部一部を食いちぎってしまって、もうバラバラになってしまったとします。その結果、体の一部はオーストラリアに、日本に、アメリカに行ってしまうことがあるかもしれません。ある時にはその死体が、大きな魚に飲み込まれることがあるかもしれません。そうすると魚が食べてしまった体が、魚の肉となり血となるわけです。それから、その魚を捕まえた漁師がその魚を食べたとします。そうしたら、その死んだ人の肉体がその漁師の、その魚を食べた人の体の一部となってしまうわけです。どんどん話が複雑になってきましたね。

イエス様が私たちを甦らされる時、私たちの肉体にどういうことが起こるのでしょうか。肉体の断片はもう、あちらこちらに散らばってしまいました。神様はどうやってその肉体を集めて、もとに戻すことができるのでしょうか。

本当に頭のいい若者たちが、こういった質問をぶつけてくることがあるのです。そのたびに私はこのように答えます。「若者よ、復活と言うのは、甦りというのは創造のみ業です。神様は私たちのために新しい体、肉体を創造なさるのです。朽ちない、永遠に生き続ける肉体です」。

私は今のこの肉体欲しくないです。皆さんはどうですか。私はこんなもの欲しくないです。もっといい、性能のいい肉体が欲しいです。もっと強靭な、朽ちることのない、永遠に生き続ける肉体を欲しています。この病に侵された肉体なんかいらないですよ。皆さんはどうか知りませんが、私は完璧な肉体が欲しいんです。

神様は約束に従って、私に完璧な新しい肉体をお与えになることでしょう。せっかく甦らされても、こんな同じ肉体を持っているのはいやです。そんなことをされたら私はイエス様に言いますよ。「主よ、こんなものいりません。新しい肉体にして下さい。こんな古い肉体は欲しくないです」。

 


霊的な心 第7回

2015年05月20日 | 日記

     思いを見られる神様

私には3歳半になる孫がおります。本当に可愛いです。私にとっては世界で一番麗しい少年です。皆さんがどう思っているか私にはどうでもいいのですけれど、しかし、私にとってはこの孫は世界で最も麗しい少年なんです。私のところに来るたびに、「おじいちゃ~ん」と呼んでくれると、私の心は溶けてしまいます。もう心からこの孫を愛しています。私の言わんとしていること、お分かりの方いらっしゃいますよね。もう孫というのは特別の存在なんですよね。

若い時に自分の子供を育てますが、その時は忙しくやっていますよね。子育てを・・・。でも孫が出来たら、これは特別の経験です。今こうしてお話ししながら孫のことを考えています。世界中を旅行している間に、スカイプで孫と話をする機会があります。テレビ電話みたいに話ができるわけです。顔と顔とを合わせながら・・・。そしたら孫が「おじいちゃ~ん!」。もう素晴らしい経験です。私はここにいますけれども、日本と言う国にいて、アメリカから遠く離れていますが、もう、あっと言う間に思いにおいて、アメリカにいる孫のところに行くことができます。興味深いことではないでしょうか。

どうしてこういうことを今、私は話しているのでしょうか。皆さんに、ある大事なことを伝えたいからなのです。私たちの品性を形成する最も小さな粒子、あるいは要素というのは、思考、思いなのです。私たちの品性形成は思いから始まるのです。何を考えるか、どのように考えるかということは大変重要なことです。天の故郷に帰る時に、私たちが地上から持って行ける唯一のものは私たちの品性ですよね。今現在こうして椅子に座っておられる間に、誰かに対して憎しみを抱くことも出来ます。誰かに対して愛情を抱くことも出来ます。誰かを軽蔑、見下すことも出来ます。ここにいて遠くにいる誰かをぶん殴って戻ってくることもできます。そういうことが出来るんですよ。どうやって?思いを通してです。

神様は、その、皆さんの思いを、思考をご覧になるお方なのです。私たちの心の中枢部分を見ておられます。それは何ですか。それは私の思い、思考です。その思考パターンを、何を好んでいるか、何を好まないで嫌っているか、何を欲しているか、やりたいか、何を食べたいか、何について話したいか、どのような人と接するか。これ、すべて私たちの品性の一部です。それはすべて思いから始まっているのです。神様は、そのような皆さんの思いをご覧になっています。そして、それに基づいて、私たち人間がどういう人間かということを神様は裁かれるわけです。もうどれほど私たちの思考が、思いが重要であるかということをお分かりいただけたと思います。

 


霊的な心 第6回

2015年05月19日 | 日記

神の微粒子

2012年の7月4日、科学者たちがスイスのジュネーブで、このようなことを発表しました。「ついに神の微粒子を見つけた」と言うんですね。その意味を多くの人は理解できませんでしたが、しかし、科学界に於いては驚くべき発見だったのです。カンタム物理学(量子力学)という分野なんだそうですが、カンタム物理学というのは、この宇宙で小さな要素、粒子を集めて大きな物を形作る、そういったものの研究です。物質という、物体を形作る一番最小の単位がかつては、原子であると思われていました。その原子の核が一番小さいと思われていたのですけども、もっと小さい核が見つかって、それが一番小さい単位だということがわかったというのですね。その微粒子が集まって、集まってこの宇宙の塊、色々な物質を作るというのです。そして、昨年、科学者がさらに小さい、これが世界最小の微粒子であるという、そういったのが発見されて、神の微粒子と言われたわけです。

これが最小なので、それ以上切ってもさらに小さくすることはできないというわけです。神様は、これら神の微粒子を使って何ものかを創造なさっているわけです。それを、ヒッグスゾーンと言います。その記事を読んだ時に興味深く思いました。この世界には、2種類の宇宙がありまして、この大きな広大な宇宙ですね。見えます、巨大な宇宙です。もう一つ小さな宇宙がありまして、小宇宙と言うんですが、これは私たちの肉体のことです。絶えず私たちの脳の中に宇宙が存在しているのです。私たちは思いの中で、宇宙全体を把握することが出来るようになっているんですね。興味深いことではないでしょうか。私たちが考える時、私たちは概念のうちにこの大きな宇宙を、銀河までも取り込むことができるのです。

何億という星を、思いにおいて取り込むことができるのです。月や星や太陽も、大きな天体も、私の思いの中に取り込むことができるのです。驚くべきことではないでしょうか。私たちの思い、この思考というのは神様の奇跡そのものです。神様はどうして私たちを、このような思いを巡らす者にして下さったのでしょうか。

今皆さんはここに座って私の話を聞いておられますね。しかし実際には、皆さんが頭の中でどういうことを思い巡らされているか、私にはわかりません。皆さんの思考、思いがどこにあるかわかりません。ここにいながら、今現在、地球の、世界のどこにでも旅することができます。「ああ、あの美味しい食べ物を、今朝残してしまった。ああ、食べそこなったなあ。今晩うちに帰ったら真っ先にあれを食べよう」。皆さんがそういった食べ物のことを考えているか、考えていないか私にはわかりません。

ここに何人か若い方がおられますが、ある女性は、「私は韓国に住んでいるあのハンサムな男性にまた会いたい」、と思っているかも知れません。どうやって人の思いがわかりますか。皆さんの思考、思いが今どこに飛んでいるか、どうやってわかりますか。火星にまで行っているかもしれません。一瞬にして皆さんは宇宙のどこにでも、思いにおいて行くことが出来るのです。この思考、思いというのは神様の奇跡なのです。


霊的な心 第5回

2015年05月18日 | 日記

極端な例をあげましたけれども、私たちが話すというのは、私たちの思いが表現されたものなんですね。私も話が好きです。会話するのが好きです。人と会ったら会話を交したいと考えます。ずっと沈黙していたいとは思いません。そうすると、時に家内からこのように言われます。「あなた、あなたもうちょっと黙ったらどうですか。話すのにエネルギーを費やし過ぎますよ。ちょっと自粛したら・・・」。「わかった、わかったもう一言だけ言ったら黙るから」。そしたら、そのあと15分くらい話してしまうとことがあります。私、しゃべるのが大好きなんです。言いたいことがいっぱいあります。なぜなら世界中を旅行して、色んなものを見てきたので、色んな話したいこと、話題があるわけです。

しかし、ある重要なことを悟りました。黙って思い巡らすことが大切なのだということです。そこで私は、深く考えるという訓練を自分で自分に課すようになってきました。『ハバクク書』2章20節に「主はその聖なる宮にいます、全地はそのみ前に沈黙せよ」という聖句があります。どういう意味でしょうか。礼拝する時は、皆ずっと黙っていなくてはいけないということですか?口を開いてはいけないのでしょうか。どういう意味でしょうか。神様がその宮にいますから、全地はみ前に沈黙せよと言う聖句ですね。こういう意味なんです。学生たちは教室に先生たちが入ってくるまでは、もう、おしゃべりをしたり討論をしたり大騒ぎをしている場合がありますね。何かいつも言い合いしているわけですね。「あんた間違っているよ、僕は正しいんだ」。「あ、あの人、間違っている。あっちが正しいけど・・・」。ところが先生がドアを開けて入って来ますと、そして教壇に立ったら、全員がシーンと静まります。誰も一言も発しません。教えられる時が来たからです。

教える時ではなくて、討論する時ではなくて、イエス様の足もとにひざまずいて、私たちは教えられるという姿勢をとる訓練をすべきなのですね。神様のみ言葉によって教えられるということです。 

健康問題をかかえているために、私はかつてのように精力的に、聖書研究することができなくなりました。かつては、常に暇さえあれば読んで研究していました。今はそういうことが出来なくなっているんですね。そこで以前よりもっと考えるようになりました。私が記憶していること、かつて理解に達したこと、そういったことをまた思い出して噛みしめる、咀嚼するのです。そうしたら私の魂にとって、ものすごく有益な経験となってきました。

ここで単純なことを皆さんに申し上げたいのです。私たち皆が永遠の命にふさわしい者となるように、品性建設を目指していますよね。どうやったそれを成し遂げられるのでしょうか。私たちはどうすればよいのでしょうか。私たちの品性を正しく形成するために何をしなくていけないのでしょうか。