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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

霊的な心 第4回

2015年05月17日 | 日記

私たちが生きるのは、口から物を食べるその栄養によりますが、のみならず私たちは神様の口から出る一つひとつの言葉によっても生きている者です。では私たちは、どのようにして神様の言葉を食べるのでしょうか、どうやって食べると思いますか?聞かなくてはいけないのです。目で聖書を読むこともありますけれども、それは、つまりみ言葉を聞いていることなのです。ですから、聖書でよくイエス様は言われました。「耳のある者は聞くがよい」と。真理を聞き、噛みしめて、そして消化させなくてはいけません。

多くのクリスチャンにとって、神様のみ言葉の理解というのはきわめて表面的なもので終わってしまっているのです。表面的理解で終わっています。しかし本当の意味で私たちは神様を知らなくてはいけません。神様の思い、神様の意志を私たちは知らなくてはいけないのです。神様のみ心、神様の真理を、私たちはもっともっと思いめぐらさなければいけないのです。神様のみ言葉について考えれば考えるほど、それによって私たちの思想は形づくられていくのです。私たちの感情にも影響を与えます。私たちの思考と感情が一緒になって、私たちの道徳的品性は形作られるのです。

私たちはどうやって品性を建設するのですか。考えることによってです。思いによって、思考によってです。ご存知でしたか?み言葉を聞くだけでなく噛んで、消化するわけですね。咀嚼する・・・。そうすることによって思考パターンができてきます。パターンとは何でしょう。私たちの習慣的な振る舞い、行為です。一定の方向に考えをめぐらし続けるならば、それが私たちの習慣となります。それが品性となっていきます。その考え方、その感じ方、誰かが、皆さんをぶん殴ったとします。皆さんはどうしますか。どのように反応しますか。そのような時どのように考えるか、どのように相手を扱うか、それが思考パターンです。

ある人は非常にせっかちに言葉を出します。また、いつも何か喋っている人がいますね。途切れることなくしゃべって、しゃべりまくる人がいます。ある人はずっと無口で黙っています。何も言いません。そういう人と一日座っていても、二言、三言話すだけで終わってしまいます。


霊的な心 第3回

2015年05月16日 | 日記

 神様の言葉を聞くこと

過去2年にわたって、私は色々な健康の問題が出てきました。ご存知のように昨年心臓の大手術を受けました。非常に困難な経験でした。私が生きてこうして皆さんにお話しが出来るというのは、神様の恵み以外の何ものでもないと思います。私の経験は皆さんには分からないかもしれませんが、私に言わせれば、今こうやって座って、このように皆さんに話をしているのは、神様の奇跡なんです。

心臓手術を受ける前には、右目の問題をかかえていました。右目がだんだんぼんやりして、はっきりと物が見えなくなっていました。家内には、私がこのミニストリーの働きにあまりにも打ち込んでしまっているために、自分の体を虐待してボロボロにしたと言われました。「それは不摂生ですよ、あなた」と言われました。それは私の認めるところです。 

しかし、そういった経験を通して、私はもっともっとイエス様のおいでを待ち望む者となりました。出来ることなら、もう一度、20台、30代、40代のそういった肉体を持ちたいのですけれども、しかし私が肉体的にだんだん弱っていった時に、もっともっと、考えを巡らすようになりました。色々なことを冥想するようになりました。以前のように読書に打ち込むのも困難になってしまったので、もっと考える時間を持つようになりました。そしたら、あることを悟るようになったのです。「ああ、私たちの霊的経験というのは、私たちの考え方、冥想の仕方に密接に関係しているのだ」ということが分かってきました。

私たちは、どうやって、どのようにして真理を理解するのでしょう。見ることによってではなく、神様の言葉を聞くことによってなのです。み言葉を冥想し、考え、そして、よく噛みしめることによって理解するのです。


霊的な心 第2回

2015年05月15日 | 日記

それはある像を私たちの内に形作るようなものです。神様のみ心、神様の律法に従う、そのような像です。私たちが自らを捧げて、自分自身の額の部分を神様にゆだねる時に、神様が私たちの品性を形作って下さいます。

私たちは見るものによって変えられて行きますよね。皆さんが毎日見るもので品性というもの、人格というものが変わっていきます。これはきわめて重要な点です。私たちが生きている時代は、もう、娯楽にあふれています。この世俗の、俗的なものが、そのようなことばかり考えるように私たちをいざないます。そうなってしまうと、娯楽とかそういった世俗的なものにとらわれてしまうと、自分で正しい考えを持つことができないほどになってしまいます。世の中にあふれている情報が私たちのうちに入ってきて、大変混乱した状態になっています。インターネットとか映画とかドラマ、音楽とか、様々な広告、新聞、ラジオ、ありとあらゆる情報が私たちに攻撃をしかけてきています。そうなると、考える時間がないほどなんです。静かに落ち着いて考える暇がなくなっているんです。冥想する時間もない。常に何かを見聞きし学んでいて、自分で考える暇が、余裕がなくなってきているんです。そして知らないうちに世の影響に染まっていって、世の形に変えられてしまっているのです。

私たちが霊的な人間にならないように、サタンは常に私たちを汚そうとしています。皆さんの品性を破壊しようと、常にたくらんでいるんですね。世俗的なものに心が捕らわれた時、サタンが勝利することになります。


霊的な心 第1回

2015年05月14日 | 日記

 

見るものによって変えられる

今日のお話のテーマは、非常に重要でありながらも、多くのクリスチャンがそれに気づいていない事柄について話したいと思います。この主題を理解なさるなら、皆さんのクリスチャン経験の手助けとなることでしょう。

私は、多くのクリスチャンがイエス様との歩みにおいて、しばしば倒れてしまう、そういった経験をしてしまっていると考えています。では、何がそんなにたやすく皆さんを倒れさせるのでしょうか?そして、霊的な状態を低めてしまうのでしょうか?私たちの霊的クリスチャン経験というのは科学そのものなのです。神様は私たちの体である宮を通して働きかけられます。

聖書によりますと、私たちの額に印を受けるとあります。それはどういう意味でしょうか。なぜ、聖書は額という特定の場所について述べているのでしょうか。『エゼキエル書』9章を見てみますと、エルサレムで行われている様々な背教、堕落について、嘆き悲しむ人たちの額に、ヘブル語でいうと「タウ」というのを押しなさいと書いてあるんですね。この[タウ]と言う文字は、ヘブル語のアルファベットの最後の文字です。それは、一つの意味は、これら額に[タウ]を押される人々というのは、最後の時代の残りの民、最後まで神様に忠実な者であるということを表わしています。そしてこの[タウ]と言う文字ですが、それは後に簡素化されて、実は十字架そっくりの形になったんですね。

この「タウ」という文字について、印を押される経験について、深く掘り下げていく時間はここではないのですけれども、神様は私たちの額を通して、この場所を通って働きかけられます。なぜそうなんでしょうか。額のこの部分に私たちの理性とか判断力とか、善悪を見極める能力、品性を司る部分がここに位置しているんです。印する経験とは、一瞬ポンと印鑑を押すみたいなものではなくて、これはある一定の過程なのです。真理を信じて受け入れて、聖霊を受け入れて、私たちのうちに働いていただくならば、私たちの品性から聖徒となるのにふさわしくない部分を聖霊が取り除いて下さるのです。そして、宇宙で義人として永遠に生きるのにふさわしい者として、聖霊が私たちの品性を形作って下さるのです。

それはある像を私たちの内に形作るようなものです。神様のみ心、神様の律法に従う、そのような像です。私たちが自らを捧げて、自分自身の額の部分を神様にゆだねる時に、神様が私たちの品性を形作って下さいます。


救いは取り消されないのか 第28回 (この項最終回)

2015年05月13日 | 日記

  

先ほど紹介した例話を、間違って理解することがないように、もう少し詳細に説明したいと思います。救助を受けるために、彼が縄をしっかりつかんでいなければらなかったことは、私たちが私たちの行為によって救いを獲得しなければならないという意味でしょうか?絶対に違います。彼は縄を自ら作ることができません。ただ舟から投げられた縄をつかんでいただけのことです。そして、彼自身の力によらず他の力によって引かれて行った事実を覚えてください。彼は単にその力に協力しただけでした。彼がしたことは、ただ縄をつかんでいることだけでした。彼が安全に引かれていくためにはそのようにしなければなりませんでした。

縄をつかむということは、クリスチャンとして私たちがキリストに対する信仰を告白して、そのお方に引き続き従っていくことを表します。そのお方にしっかりつながり、従順の実を結ばなければなりません。それがキリストに従う私たちの果たすべき役割です。キリストは、決して私たちを追い払うことをなさいません。そのお方から私たちを分離させる方法はただ一つ、それは、私たち自身がそのお方から離れ去ってしまうことです。私たちには、それが可能な、自由意志と選択権が与えられています。私たちがクリスチャンになったからといって、私たちの自由意志がなくなるわけではありません。

私たちがクリスチャンとして生活している間に、私たちはいつでも昔に戻ることを決心して、天国と天の事物の代わりに、この世の事物を選択することができます。私たちは、イエス・キリストを私たちの救い主として信じる信仰を通してのみ救われます。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)。

 

しかし私たちは、私たちの良い行いによって信仰を証しできます。それはそのお方に対する愛の表現です。神様の戒めを守り、正しい行いをすることは、ただ私たちの心の中に聖霊がおられる結果です。そしてその結果が、豊かな聖霊の実となって表れます。私たちは救われるためではなく、救われたゆえに行いが表れるようになります。私たちは、心を尽くして主を愛するので、そのお方に喜んで服従したいと願うようになります。私たちはイエス様から投げられた救いの縄を、決して手離さないでしょう。私たちは私たちの唯一の望みであるキリストに、引き続き堅く従っていかなければなりません。

「霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである」(ヤコブ2:26)。

             救いは取り消されないのか 最終回