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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されないのか 第27回

2015年05月12日 | 日記

9、過去、現在、未来の救い

ある人が陸地から遠く離れた海の上で、小舟に乗って釣りをしていました。ところが、突然舟がひっくり返って、水の中に沈んでしまいました。その人は泳ぎが出来ませんでした。ちょうどその時、他の舟が近づいて来ました。しかしその舟はたくさんの荷物を載せていたため、それ以上人を乗せることは不可能でした。しかし溺れているこの人を助けてあげたいと、縄を投げました。「ここにある縄をつかんでください!私たちがあなたを陸地まで引いてあげます」と言いました。その人は縄をつかんですぐに「神様、本当に感謝します!私は助かりました!」と言いました。彼が縄をつかんでいる限り、彼は救助を受けた状態にあるのです。

 

救いはまさしくそのようなものだと言えます。神様の救いの中では、その人がやるべき役割があります。もし彼が、つかんでいた縄を離して、再びつかむことを拒むなら、これ以上彼を救助できなくなります。そのように、罪から救われた者も同じです。彼がキリストの手をつかんでいる限り、彼は救われた状態にあります。しかし、彼がつかんだ手を離そうと決心して、代わりに悪魔の手を掴むなら、彼は滅びるでしょう。人の救いは、その人自身の選択にかかっています。

 

実際には私たちは、救いを、過去、現在、未来の、三つの時制に分けて考えることが出来ます。彼が縄をつかんだ時「私は救われた」ということができます。その舟によって引かれている時、「私は救われている」と言えます。彼が陸地に足を置く時「私は救われた者になった」と言えます。悔い改めた人は赦され、罪の刑罰から救われました。神学的に私たちはそれを「義認」と言います。同じく彼が現在、罪の勢力から救われているならばこれを「聖化」と言います。そしてイエス様が来られる時、彼は罪の本性と弱い肉体から救われることになるでしょう。それを「栄化」と言います。この三つの時制は皆、聖書が救いに関して説明する場合に用いられています。

 

英語の聖書には、より明白にこの三つの時制が表されています。

① ローマ人への手紙8章24節「わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか」(過去: We were saved;私たちは救われた)

② 第一コリント1章18節「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」(現在:We are being saved;私たちは救われつつある)

③ 使徒行伝15章11節「確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」」(未来: We shall be saved;私たちは救われるであろう)

このように、私たちは聖書から救いについて説明している三つの時制すなわち、過去、現在、未来のすべてを見ることができました。


救いは取り消されないのか 第26回

2015年05月11日 | 日記

サタンとその手下たちによって、救いからふるい落とされないで、そのお方の内に留まる方法は、そのお方のみ言葉に聞き従う事です。神様は、檻の中にいる羊を盗もうと、機会を狙っている敵から守って下さるのであって、羊の檻の主人であられるキリストに、これ以上従わないと決心して檻の外に出てしまった不従順な羊たちを保護すると言っておられるのではありません。檻の中にいる羊を、誰も父なる神様のみ手から奪い去ることはできませんが、彼らは、いつでも自ら天のお父様の保護の外へ飛び出して行くことが可能です。

神様は、決してご自分に従う人たちから、選択の自由を奪われることはありません。罪人にはいつでも、神様が賜物として与えてくださる救いを受け入れることも、拒むことも、自由に選択できます。

 

もし背教が不可能であるならば、背教の危険について警告している聖書の数々のみ言葉は、全く無用のものとなってしまいます。もし人の滅亡が不可能なのであれば、なぜ聖霊や、パウロやペテロあるいはその他の使徒たちは、永遠の滅びについてあれほど熱心に警告と勧告を与えたのでしょうか?かりに、一度受けた救いが永遠に保証されるものであるなら、悪魔はクリスチャンたちを誘惑して信仰を捨てるように努力することなど何の意味もないことですから、そのようなことに時間を費やしたりは決してしないでしょう。しかし私たちは、サタンが聖徒たちに、キリストに従わないようにさらに熱心に働いている事実を、体験として十分に知っているはずです。

 

今や私たちは、救いが過去や現在の一度だけの公約によって、永遠に取り消されることはなくなるという教えが誤りであると言う結論を下す時が来ました。救いを受けるということは、神様が着せて下さる義と分け与えて下さる義を、絶えず受け続けていくクリスチャンの生涯の経験です。それは、永遠の命の源泉であるキリストとの、継続的で生き生きとした関係によってしか、現実のものとなっていきません。

救いの問題を、聖書的に完全に理解するためには、救いを過去、現在、未来の、三つの時制の中で注意して調べて見なければなりません。救いは過去に起きて、現在に起きていて、未来にも継続するべきものです。


救いは取り消されないのか 第45回

2015年05月10日 | 日記

 

7、信仰を捨てた者も、死の直前になると必ず主のもとに戻れるのか?

 

いいえ、違います!イスラエルの最初の王であったサウロの話は、そのことについてよく説明しています。サウロについて聖書は、彼が「新しい人」となったと言っています。「その時、主の霊があなたの上にもはげしく下って、あなたは彼らと一緒に預言し、変って新しい人となるでしょう」(Ⅰサムエル10:6)。しかしサウロは神様の命令よりも自分の判断を重んじ、信仰を捨てて神様に逆らい、結局自分の命を自ら断ちました(Ⅰサムエル31章1節から6節参照)。サウロ王は新しい人に生まれ変わりましたが、信仰を捨てて罪に陥り、神様の言葉に従わず、結局は何の悔い改めもしないまま死んでしまいました。

 

8、誰も奪われる必要がない!

 

最後に、「永遠の救いの保証」についての教理を一番よく支持しているとして引用される聖句を、見てみましょう。

「わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない」(ヨハネ10:28、29)。

 

神様を信頼して従うすべての子供たちにとって、これはどんなに驚くべき約束でしょうか。そしてこれは、一見霊的に失われる可能性など全くないかのような、不変の救いの保証のように見えます。しかし、この前後関係を注意して読んでみてください。27節を読まないと、この言葉を書いたヨハネの意図をひどくゆがめてしまうことになります。実は、ヨハネによる福音書10章27節は、28節と29節の約束を成就させるのに必要な条件を提示しているのです。

「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」。神様のお守りの中で安らぐ者たちは、ひたすらそのお方に従う者であることを忘れないで下さい。そのお方はご自分の声に聞き従う、忠誠を尽くす羊だけに永遠の命を与えられます。


救いは取り消されないのか 第24回

2015年05月09日 | 日記

  

おびただしい人たちが信仰から離れ去っています。もともと彼らは、信仰の中に留まっていた人々でした。兄弟姉妹たちと共に教会に出席し、礼拝を捧げ、共に祈りあっていた人たちです。彼らはある時は熱心に福音を伝え、教会の活動のために資金を捧げてきた人たちです。彼らは教会の牧師たちであり、役員たちであり、指導的な立場に立っていた聖徒たちでした。それにも関わらず、彼らは信仰から離れて行きました。彼らは堅固でもなく、忠誠な者でもありませんでした。

やがて、終末の時代、サタンの最後の猛攻撃が起こります。迫害や言い尽くせない苦しみが襲ってきて、ある人たちは堅く立つことができなくなるでしょう。それは彼らが、この世の事物や、悪霊の仕掛けた罠に魅惑されるためです。悲しいことに、彼らは、十字架の救い主に対する忠誠心を捨て去るでしょう。彼らはキリストを愛していると公言しながら、キリストが語られた真理に背を向けてしまいます。彼らも以前はキリストの側に付いていました。ところが、世の誘惑や試練が襲う時に、彼らは敵の側に加わるようになるのです。

 

しかし、よく聞いて下さい。もし皆さんが「永遠の命」を願うのであれば、皆さんは必ずそれを手に入れることができるのです。それは毎日、毎瞬間をキリストの内に留まることで可能になります。皆さんがキリストを選択して、そのお方の内に留まり続けるなら、皆さんは勝利することが出来ます。キリストは失敗なさることがありません。失敗することなど出来ません。そのお方は真実なお方であり、「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない」(詩篇55:22)と言われる方です。そのお方の内に留まる限り、そのお方は常に皆さんの内におられるでしょう。「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』」(ヨハネ14:6)。

ヨハネが主について記したのは「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(Ⅰヨハネ5:11、12)ということでした。


救いは取り消されないのか 第23回

2015年05月08日 | 日記

「無条件的な救いの保証」という立場をとる人々は、神様の子供たちが、犬や豚にたとえられることはないと言います。しかしこの聖句が与える教訓は明白です。彼らは、神様と救い主イエス・キリストを知る知識を通して、この世の汚れから逃れました。彼らは悔い改めました。彼らはキリストの味方になりました。彼らは彼らの生涯を主にゆだねました。しかし彼らは世俗や罪の『穴』を再び思い出しました。エジプトから出た昔のイスラエルの民のように、彼らは「肉のなべのかたわら」と「にらとにんにく」を懐かしがりました。彼らは罪の楽しみを思い出し、あたかも、豚が洗われてもまた泥の中に転がるように、キリストを離れて再びこの世へ戻ってしまいました。どんなクリスチャンも、豚のように過ごしてはいけません。しかしペテロの教訓は、そのようなことが、あらゆるクリスチャンに起きる可能性があることを教えています。

 

聖霊も、この問題に対して明白な警告を与えています。「しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう」(Ⅰテモテ4:1)。これはいつ起きるのでしょうか?いつどんな人が「信仰から離れ去る」のでしょうか。それは今です。それは私たちが住んでいる今の世代であり、私たちが直面しているこの時代です。このことについて、これまで一度も考えたことがなかった方は、一度深く考えてみて下さい。今の時代こそ、間違いなく「惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去る」危険がある時です。