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今は、まだ、肩書きを重んじる時代かな。一流大学を出ようと、一部の人が、まだ、競争している。入るのに数が限られているからして、どんなに頑張っても、周りがもっと頑張っていれば、入れないことになる。入る為に、小さい時から塾通い。そんなこと、長い目で見ると、どんなものだのだろうか?
確かに、試験は、どんな時代になっても、無くならないだろう。ある所では、順位が付く世界を避けては、通れないだろう。しかし、それが全てって感じになって、それが目的になるのは、どうかと思う。
一休禅師の逸話がある。
ある時、金持ちが盛大に先祖の法要を営み、僧に供養しているのを見て、一休禅師は、その家の門に立って食をこうた。しかし、家の者は、破れ衣の一休禅師を乞食坊主と見て、追い返した。
その後、例の金持ちが再び法要を営んだ時、一休禅師は、今度は、金襴の衣を着けて家に入ると、上の座に迎えてご馳走を運んできた。一休禅師は、やおら衣を脱ぎ、膳禅をその上に供えた。
家人が訳を聞くと、「ご馳走は、私にではなく、この衣に供えられたものだ」と言った。
衣の豪華さ、色で、僧の偉さや位が付けられていた時代である。その無意味さを一休禅師は、教えたのである。
チベットに行った人から、間接的に、ダライラマの話を聞いたことがある。ダライラマが乗っていたジプシーを見て、余りにもボロ車だったので、びっくりしたとのこと。ダライラマが住んでいる所に行って、もっとびっくしりしたとのこと。実に質素な家に住んでいて、実に質素な生活をしていたのである。どこかの国では、僧侶の中には、立派な車に乗り、きらびやかな服を身に付け、それなりのお金を要求し、夜は、飲み歩く人もいる例もあると聞くが。
肩書きが付くと、「自分は偉いのだ」と思い上がる人がいる。一流大学出イコール一流人間だと思い込み、他人を見下すものまでいる。これらは、自分を飾る「飾り物」を見せびらかし、威張っている人に他ならない。やがて、その人の本当の真価が中身で問われた時、メッキが剥げて、誰からも相手にされなくなって、寂しい晩年を送ることになるだろう。
そうならない様に、今からでも遅くはないでしょうから、私を含めて、気を付けましょう。