日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

自分のルーツ

2009-06-18 20:17:33 | Weblog
 市の茶室に行ってお茶を飲むつもりが、家内の勧めで、88歳の母の所にお茶道具を持って行って、お茶を一服点てて上げることにした。落雁(らくがん)のお菓子と懐紙と抹茶と(まだ使っていない)茶筅と茶碗(と5本調子の篠笛)を持って行った。行くと、兄も一緒にいて、2人に点てて上げた。
 母は、どうもあまり美味しくない様な顔をして、残している。見ると、落雁(らくがん)を食べていない。それを先に食べてから飲んでと説明する。その時、一緒に持って行った焼き芋を食べていたのだ。
 傍に、父の家系と母の家系を(兄が)まとめた写真の小雑誌が置いてあった。自分のルーツがここにまとめられている。父の兄弟は、11人で、父は10番目。母の兄弟は、7人で、母は5番目。今、母以外、全て他界している。母は、母の母は、とても賢かったと自慢げに言う。
 最後のページに、昭和26年に撮った家族6人の写真があった。自分が2歳の時で、ふっくらとした顔をしていて、何故か左手にしっかりと(棒状の)お菓子を1本、しっかりと握っている。父は、背広で、母と姉は着物で、兄二人は学生服でバチっと決まっている。全く覚えていない(当たり前だが)が。多くの親戚の人の写真、こんな人に囲まれて自分が生まれてきたし、育ってきたのだなあと思うと、懐かしく思えてしょうがなかった。
 母には、例の如く、「青葉の笛」と「君が代」を吹き、帰る直前に、又、(母が最も好きと思われる)「青葉の笛」を吹いた。
 今日の母は、終始、ニコニコしていた。又、来るからと言って、帰った。


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還暦での挑戦(その14、ピクニック・・・)

2009-06-18 12:28:02 | Weblog
5月23日(土)
 午前中に、ドナさんから、明日のピクニック出発時間の変更の電話があった。電話だけで、英語でやりとりするのって、難しい。声だけで姿が見えないだけに、コミュニケーションの情報が少なくなるからだ。
 子どもの言っている英語は、聞き取れない。それを先生に、分かり易く言ってもらって理解していることが多い。しばしば子どもに先生が何度も聞き直していることがある。こんな訳だから、自分が理解できるはずがない。が、私の下手な英語も、何とか通じているみたいだ。が、次第に驚いてきたのは、家内のヒアリングのレベルの高さだ。私が分からないとアドバイスしてくれる。が、時に、トンチンカンなアドバイスをもらうこともあったが・・・?!
 マリーナに行ってお土産店にも寄ってみた。グラッドストーンの正午前後の日差しは、強烈だ。これによる皮膚ガン発生のケースが目立つそうだが。昨日買った帽子を被っても、暑い。
 宿舎で、自分の創った練習曲の16番まで(20番まであり)のオタマジャクシの楽譜がやっと何とか出来た。こんな所で、言葉が楽譜になるとは、予想もしてなかったなあ。
 夕食は、安くて量が多くて美味しかったタイ料理店に再び行ったが、予約していなかったので、入れなかった。土曜は、予約席で満席なのだ。仕方なく、スコッティーズなるイタリアレストランに行った。ここも、又、さほど高くなくて、量も多くて、美味しかった。美味しいいワインも飲んで、2人共、大満足で帰った。
 グラッドストーン市の最も中心になる通りのグーンドゥーン通りで、多くのレストランの中で、生き残って行くためには、それなりに美味しく安くせざるを得ないのだろう。
 帰りの南十字星、又、新たに見た感じで感動した。家内も、直ぐに見つけられる様になった。南十字星の近くに、南の冠座とサソリ座がよく見えた。

5月24日(日)
 午前中は、太鼓の打ち方の練習を(二人で)し、日本に出すハガキ10枚を書いた(私が3枚、家内が7枚)。14:00にドナさんが迎えに来てくれて、ピクニックに行った。 オーストラリアの多くの個所は、水不足気味にある。グラッドストーンに関しては、アウンガーダムの存在で、それを免れている様だ。lake awoonga を見に行った。この湖は、グラッドストーン市にとっては、命綱だ。そこで魚釣りをしている人、水上スキーをしている人、周囲を散歩している人、いろいろ。
 そこでドナさんといろんなことを長く話し、又、持ってきたお土産も上げた。ドナさん、日本がとても好きなんだなあ。自分たちの食事も用意してくれていて、美味しく頂いた。楽しかった。火曜日、又、会いましょうと言われた。
 タイ料理店が18時オープンで、ちょうど18時に入って、タイ料理を注文して美味しく食べた。家内は、毎日ここで食べてたいとも言う。この夜、汗を一杯かいたが、この日に食べた「トムヤンクン」のせいであった様だ。

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還暦での挑戦(その13、絶対音感の子)

2009-06-18 10:21:44 | Weblog
5月22日(金)
 本当のボランティアは、学校への往復も自分ですると思うが、自分はしていない。皆に迷惑を掛けているなあ。10年前の時は、佐伯市とグラッドストーン市が、直接動いていた感じだったので、タクシーでよく往復していたが(1週間だけだったが)。
 グラッドストーンの友好協会の人がとても協力的で助かるけど、これがなかったら出来ないことだと思う。自分の場合は、車の運転が出来ないので(自動車免許証を持っているが、完全なるペーパードライバーで、来年、切り替えの時に、返上しようと思っている。どっちもち、視力検査で不合格になるだろうし)、オーストラリアの様な車社会の所では、難しい。
 午前中は、ベナラビー校でした。付いてくる子とそうでない子がいて、付いてこない子が先生から叱られて、別の個所に移動させられてしまった。その子のことがとても気になって仕方なかった。終わってから、その子が、ごめんなさいと自分に言いたいと言ってきて、ホットすると同時に、とても嬉しかった。ここでは、行儀の悪い子は、目立つ感じで、容赦なく叱られている感じだ。その点は、日本よりも厳しいかな。
 自分の教え方のまずさが原因と思っていただけに、子どもに悪いと思って、少し、落ち込んだ。そんな自分を救ってくれたのは、絶対音感の○クだった。
 午後のサウス校で、1時間教えた後に、○クが、個人レッスンをしてもらいたいと言って来た。で、自分の創った練習曲を、彼が持ってきた(個人使用の)ボンゴで、自分の太鼓と合わせて手で打たせてみた。スゴイ、初め少し間違えたが、2回目、殆ど完璧。
 彼は、絶対音感(perfect pitch)の持ち主なのだ。音楽だけでなく、外国語も直ぐに覚え、他の教科も抜きんでて出来る為に、数学などは、特別の教師が彼に専属で付いているとのこと。公立学校でも、優秀な子は、それなりの教育をしてもらえるのだ。その点、日本は、エレベーター式に上がって行って、上と下が犠牲になって、受験勉強に明け暮れているって感じかな?!


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