日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

盆踊り太鼓(15日)

2009-08-15 22:49:44 | Weblog
 佐伯市蛇崎に19時前に行った。番匠(ばんじょう)川を渡って初めの角のガソリンスタンドで尋ねると、向こうに見える公民館だろうと言われた。で、行くと、女島で会った太鼓打ちの人がいた(昨日、延岡出身で、盆踊り太鼓を打つのが上手なこの人から、今日、蛇崎で盆踊りがあることを教えてもらったのだ。昔、この子どもさんを私はかかりつけの医者として診ていたが)。19:30から始まるという。
 その公民館の駐車場に上品なおばあさんが座っていた。肌の色も良くて、とても元気そう。歳を聞くと93歳と言う。80歳前と思っていたが。この新しい公民館が30年程前に出来る前から、公民館の世話をずっとしているとのこと(館長?)。
 29歳の時に、(当時36歳の)旦那さんが、戦争中に台湾の沖で亡くなって、後家になったと言われた。昭和18年~19年は、戦争で旦那をなくした後家が沢山いたと言われた。女一つで大変な苦労をしながら、3人の子どもを育てて、永いことずっと一人でいるとのこと。
 (ムムッ、子どもがいて、旦那さんが早く亡くなっている人、ほとんど例外なく長生きしている感じだなあ・・・何故かなあ?!)。
 おばあさんの話だと、昔は、ここでの盆踊り、沢山の人で大変で、18時過ぎから朝方まで踊っていたとのこと。ホント、少なくなったと言われた。今年は、4人の位牌があって、線香をあげて祈った。
 19時半前から、盆踊りが始まった。獣医の○田君がしばらくして来た(彼が毎年ここで打っていると、昨日、聞いていた)。
 (一緒に来た彼の奥さんの話だと)彼は、池船地区の子ども達に、11年間も盆踊り太鼓を教え続けているとのこと(新しい太鼓打ちがいなくて、それも、子どもが特にいなくて困っているのに、池船地区は、その心配全くないとのこと)。彼の父親も盆踊り太鼓を打ち(尺八が上手なことで有名だったが)、彼は父親から小さい時から教わり、又、子ども二人(男)にも教えてきているが、今日は、子ども二人がどうしても別のイベントで来れなかったとのこと。
 自分の場合、依頼されて、佐伯のみなと地区の子ども達に盆踊りを教えた。息子にも教えたが、残念なるかな、実践まではいかなかった。(現在、息子は、月に2回、東京のライブハウスでメタルで演奏していて、もう1年以上になるが。つい最近、CDも出したみたいだが・・・?!)
 地踊りは、○田君とそこの人の2人が打ち、それ以外は、4人が代わる代わる打った(が、地踊り以外では、自分が一番沢山打ったかな)。○田君の地踊りの打ち方は、本物で年期が入っているなあと思った。自分が初めに打つと、93歳のおばあさんから、とても上手だと言われた。
 (小学生の低学年の)子ども達が、休憩時間に太鼓を打っていたので、休憩後に「佐伯音頭」が始まると、手をとって打たせてあげたら、喜んでいた。日本だと気軽にこれが出来るが、オーストラリアだと、子どもに前もって許可を得ないと出来ないなあ(生徒の体にバチを介してもむやみに触れない)。
 (高校の時の同級生の)○田君、今から(別の土地に)新しく病院を作り直すとのこと。奥さんが、「私たちのかってからの夢ですから、悔いが残らない様にしようと言うことで、・・・」と言われた。
 スゴイなあ。もう、自分には、大きな借金をする勇気はないなあ。
 夢を持って何か大きなことをしようとする人、何かを任されて社会に役に立っている人、元気だなあ。

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平 和

2009-08-15 06:41:30 | Weblog
 今の日本の平和は、多くの人の犠牲の上で成り立っている。同じ日本人、外国の人、多くの人のお陰だ。
 平和をかちとる為に、先人たちは、死ぬ思いをしてきている。今も銃を持って生活しないといけない国と違って、いろいろ言われても、日本はやはり安全な国だ。
 皆保険もある。読み書きできない人はまずいない。ただで水が飲める。物乞いが目に付かない。道端にゴミがない(もちろん、全くない訳ではないが)。美しい日本。
 終戦後、他からの援助を受けながら、日本人が一生懸命に頑張ってきた結果が今の姿だ。それにあぐらをかいてしまって、借金国になってしまった日本。今、正に曲がり角だ。
 私の叔父(衛生兵)が書いた「饑餓の島」の一部を、以下に掲載します(再掲)。
 ・・・今は、極限との闘いで、死を考える前に食うことを考えるばかりだ。戦争をしたくても、銃も弾も食料も体力も気力も底をついている。目の前の作業している姿は、子どもの時にお寺で見た地獄の絵と同じだ。肋骨の数が良く分かるし、胃の部分は膨れ、足首は大きく、栄養失調の状態だ。付近の椰子林は切り尽くしてしまい、パパイヤの木の芯を食い、雑草や木に「うさぎ」なんて名前を付けて食う。・・・歳は若くても、体は老人だ。野糧収集に出たまま、体力尽きて帰って来ない人もいる。禅僧が栄養失調寸前まで、自分を律し、妻も娶らずに生涯が送れる気持ちが分かる様な気がする。・・・今は、食う為に生きるのであって、生きる為に食うのとは違う。極限の生活をした人のみが分かる言葉だ。・・・戦友や患者が亡くなって埋める時に出る言葉は、いつも、「君達は埋めてくれる人が居る間に死亡して幸せだ。自分が死んだら、誰が埋めてくれるのだろうか?」だ。・・・
 (この本を書き上げて、胃ガンで非常に苦しんでいた叔父は、安心し切った感じになって、他界して行った。) 

以下は、海外の戦地の子どもの声(インターネットより)
 「平和、平和。ぼくには祖国の平和を求める叫び声が聞える。戦争はたくさんの残虐行為を残した。ああ平和がやって来てほしい。ぼくは独りぼっちだ。お父さんもお母さんもいない。兄弟や姉妹とは道ではぐれてしまった。ぼくの1本の腕はない。ぼくはどこにいるのだろう。誰と一緒に生きているのだろう。ぼくの名前は平和だ。ああ平和がやって来てほしい」(Sorrie Kamara 10才、シエラ・レオネ)
 「両親が二人とも死んでしまい、ぼくは孤児になった。両親は1994年の大量虐殺で死んだ。ぼくはおばあちゃんと暮らしていたけれど、おばあちゃんは年を取っていてお金も食べ物もなかったから、ぼくは家を出て食べ物を探しに行かなければならなかった。ぼくは、ギコンゴロ(Gikongoro)の道で会ったぼくより年長の子供たちと一緒に、空き家で立ったまま眠ったりした。時々彼らはぼくを追い払ったりした。また彼らはぼくに居てほしくないから、時々ぼくをひっぱたいたりした。彼らはぼくを殺そうともしたし、大きな棒で強く殴ってきたりもした。ぼくは別の少年と友達になって、救済団体のドアをノックしてお腹が空いていることとと病気にかかっていることを話したら、彼らは中へ入れてくれたんだ」(Amouza 7才、ルワンダ)
http://www.youtube.com/watch?v=hBrfgaIOwzU&feature=fvw

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