何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

さようならの向こう側 で、政府専用機はどうする?

2022-09-12 12:15:57 | ニュース

その報に接したとき、「そうならねばならぬのなら」という言葉が、浮かんだ。ソース画像を表示

<エリザベス女王死去の発表時、バッキンガム宮殿に虹 SNSで話題>   毎日新聞9/9(金) 12:34配信より引用
エリザベス英女王死去の報が流れた8日夕、ロンドンの上空に虹がかかったとして話題になっている。
【ダイアナ妃とエリザベス女王 今は亡き二人】
英エリザベス女王死去 96歳 在位70年 [写真特集7/17] | 毎日新聞 (mainichi.jp)
ロイター通信によると、バッキンガム宮殿に市民が続々と集まる中、上空に虹が現れた。この日のロンドンは断続的な雨に見舞われたが、夕方には一時、日が差す時間があった。

 

「そうならねばならぬのなら」

それは先日、先月8月24日が、リンドバーグ夫妻が日本に初飛行した日だと(何か)で聞き、久しぶりに「遠い朝の本たち」(須賀敦子)を読み返していたからかもしれない。

私の心を打った「遠い朝の本たち」一文は、 大西洋横断無着陸飛行を達成し、「翼よ!あれが巴里の日だ」で有名なチャールズ・オーガスタス・リンドバーグの妻アン・モロウ・リンドバーグの著書「翼よ、北に」からの引用なのだそうだ。

『さようなら、とこの国々の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、
 もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。
「そうならねばならぬのなら」。
 なんという美しいあきらめの表現だろう。
 西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。
 英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアディユも、神のもとでの再会を期している。
 それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ』
(『 』「遠い朝の本たち」より)

日本をいよいよ発つ時、横浜埠頭を埋め尽くす人々が口々にした「さようなら」という言葉の意味を知り、アン・リンドバーグは上記のように感動したという。

 

70年

第二次世界大戦後の激動の世界を見守り続けられた偉大な人生

「女王陛下の外交戦略」(君塚直隆)によれば、たぐいまれな知性の持ち主であられたことも分かる。

だが、その報に接したとき「そうならねばならぬのなら」という言葉が浮かんだのは、崩御ということばかりではないような気もする。若くして亡くなられた英国のバラをふと思い出したことも、あるだろう。

さて、19日にも行われるという国葬に、天皇陛下のご参列が検討されているという。

今上陛下がご即位されるなり、女王陛下みずから国賓として天皇陛下をご招待して下さったことは記憶に新しく(コロナのため実現していない)、また両陛下がともに英国留学をされていることからも、ぜひ日本を代表して「さようなら」の儀式に臨んでいただきたいと願うのだが、総理も出席を検討していると、観測気球のようなニュースが流れている。

いや、リンドバークの話題だけに、飛行機がらみで〆を一つ。

政府専用機はどうするのだ!

女王陛下の崩御を、日本を代表して悼んでくださるのは、天皇皇后両陛下であるべきだと思う。

 


虹の写真は、ネットから頂いたもので、英国に架かった虹ではありません


曲がり角の先の、好い日

2022-05-17 23:51:15 | ニュース

良識ある皇室の方々は、ご自分の意見や思いを伝える術をもたれない。
これだけ誰もがネットを介し好き放題言う時代なのだから、もう少し生のお声を拝聴する機会があってもという意見もあろうが、(最近自分の懇意の記者に自分勝手な自己都合的言い訳を書かせた方もおられるが、それをしてしまえば、もう中立も公正も公平もなく下手をすれば強権的な言論封じによる反発しか生じないので)特定の記者や特定の出版社やマスメディアを用いての情報発信をされてはお終いだ、とも私は思っている。

そんなことを考えていた時、タイムリーな記事を見つけた。

「“明日は好い日になる”と私も信じ…」 天皇陛下が“制約”の中で国民に訴えた意外な“言葉”  
文春オンライン 5月12日掲載https://bunshun.jp/articles/-/54165

「赤毛のアン」(モンゴメリ)より
「あら、早咲きの小さなばらが一輪咲いてるわ。美しいこと。
あの花は自分がばらなことをよろこんでるにちがいありませんわね? 
ばらが話せたらすてきじゃないかしら。きっと、すばらしく美しい話を聞かせてくれると思うわ」


「“明日は好い日になる”と私も信じ…」 天皇陛下が“制約”の中で国民に訴えた意外な“言葉”    
文春オンライン 5月12日掲載https://bunshun.jp/articles/-/54165


記事全般は、新型コロナに対するお言葉や対応について日本の皇室と海外の王室を比較し進められるが、制約が多いなか発せられるからこその天皇陛下の言葉の重みについて言及していることも、(皇室の方の言葉や活動を、自分の思想に都合よく利用するマスコミが多いなか)お誕生日や新年のお言葉そのものをひたすら丁寧に読み解くことで御意思を拝察しようとする姿勢も、私は共感できる。

記事(資料①)では、昨年のお誕生日会見での新型コロナに関する「今は確かに困難な日々を送らざるを得ませんが、一人一人が自分にできる感染防止対策を根気強く続けることで『明日は好い日になる』と私も信じ、そうなることを願わずにはいられません」というお言葉に注目している。

大木記者は、天皇陛下が前の御代のような「願う、希望する」ではなく、「信じる」という言葉を用いられることを挙げている。
確かに、「願う、希望する」というのは意図しようがすまいが、行動するのは希望された側でありそれが上手く運ぶよう高い処からご覧になっている、という雰囲気があるのかもしれない。一方「信じる」という言葉には、行動する側を強く信頼するという点など行動する側と信じる側とに強い一体感がある、のかもしれない。
が、私はもう少し単純で、本当に天皇陛下は、歴史に鑑み、国民がこの困難を乗り越えることが出来ると「信じ」ておられるのだと思う。
それは、同じ誕生日の会見のなかでも言及されている歴代天皇の御自跡や(資料②)、水の研究での論文や講義のなかで、何度も我が国が大災害や疫病を乗り越えてきたことに触れておられるからだ。
こういう時、歴史学者でもあられる天皇陛下を戴いていることや、長い歴史を持つ国であることの有難さを強く感じる。

確かに今は困難な時代を生きているが、もっと困難な時代を先人は立派に乗り越えてきた、その歴史を天皇陛下が示して下さることはなんと心強いことだろうか。

もう一つ、天皇陛下はイギリス人のトム・ムーア氏の言葉「明日は好い日になる」に共感され、その言葉を引用されているが、その言葉に共感されたのは、それが天皇陛下の信念だからに違いない、と、これは私が勝手に拝察している。

天皇陛下は皇太子時代にご臨席された青少年読書感想文全国コンクールの式典でも、皇太子としての最後の大学での講義の際にも、「赤毛のアン」(モンゴメリ)の言葉を引き、若者を励まされている。
「学校生活を送る中で、あるいは学校を卒業後も、さまざまな曲がり角に出会うでしょう」「その先にあるものがよいものであるという希望を持って、未知の世界に羽ばたいていっていただきたいと思います」
「曲がり角を曲がった先に何があるかは分からない。
 でもきっと一番良いものに違いない」


新型コロナは間違いなく時代の大きな曲がり角を形成する。
そして、大小さまざまな地震に見舞われている我が国は、新型コロナの先にも、何があるか分からないという大いなる不安をもっている。
しかし、艱難辛苦を乗り越えてきた長い歴史と先人の歩みを思えば、その先に一条の光を見出すことができる。

その道標を示して下さる天皇陛下を、私は信じている。

すずらん 
花言葉 再び幸せが訪れる

時は五月
赤毛のアンを思いだしたことにより、その最後に記されていた詩を思いだす。

「春の朝(あした)」
(ロバート・ブラウニング 上田敏訳・「海潮音」)

時は春、
日は朝、
朝は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。

全て世は事もなし

明日は好い日

 

資料① https://bunshun.jp/articles/-/54165
誕生日会見でのさらなる進化
新年ビデオメッセージから約2カ月後の記者会見でも「信じる」が使われた。陛下は再びコロナ禍について触れ、ある英国人の言葉を引用した。医療従事者支援のため、100歳の誕生日までに自宅の庭を歩いて100往復する活動により多額の寄付金を集めたトム・ムーアさんだ。陛下はこう語った。
「今は確かに困難な日々を送らざるを得ませんが、一人一人が自分にできる感染防止対策を根気強く続けることで『明日は好い日になる』と私も信じ、そうなることを願わずにはいられません」
事態の好転を「信じる」の主語は、ここでははっきりと「私」になっている。

資料②(令和3年 お誕生日会見より)
日本の歴史の中では,天変地異や疫病の蔓まん延など困難な時期が幾度もありました。これまでの歴代天皇のご事蹟せきをたどれば,天変地異等が続く不安定な世を鎮めたいとの思いを込めて奈良の大仏を作られた聖武天皇,疫病の収束を願って般若心経を書写された平安時代の嵯峨天皇に始まり,戦国時代の後奈良天皇,正親町天皇など歴代の天皇はその時代時代にあって,国民に寄り添うべく,思いを受け継ぎ,自らができることを成すよう努めてこられました。


神とともに

2021-12-01 00:00:01 | ニュース

12月1日 神様の使者が集う冬の鹿寄せが始まるという。

先日 所用で奈良公園にでかけ、春日大社と飛火野を歩いた。
コロナ禍で観光客げ減り鹿煎餅がもらえず痩せてしまった鹿さんが奈良町を心細げにあるいている、というニュースは度々目にしていたが、確かに鹿さんは少し痩せていたように思う。
だが、ここへきて少し戻ってきた人出が嬉しいのか、コロナ禍で二年近く人が絶え本来の姿を取り戻したのか、初めて鹿の鳴き声を聞いた。
そんな鹿さんの優しそうな賢そうな目を見ていて、12月1日は敬宮愛子内親王殿下の二十歳のお誕生日だと思ったのは、鹿さんが天照大神の御使いだからかもしれない。

その昔 天照大神が、常陸の国鹿島神宮の祭神・武甕槌命(タケミカヅチノミコト)に、「香取神社の祭神 経津主命(フツヌシノミコト)と共に出雲へ行き、大国主命に、出雲国を天照大神に譲るように説得してきなさい」という使者を送った。この時、天照大神の使者を務めたのが、鹿の神・天迦久神(アメノカグノカミ)。その甲斐あり、武甕槌命と経津主命は出雲国に出向いて強談判の末、大国主命に「国譲り」をさせることに成功したという。
これにちなみ、鹿島神宮の神使は鹿とされるようになった。
そんな鹿さんが、飛火野を闊歩なさるようになったのは、春日大社社伝によると、称徳天皇の頃という。
称徳天皇は(767年)、平城京鎮護のため、鹿島神宮の武甕槌命を春日大社の祭神に勧請されたそうだが、この時 武甕槌命は白鹿に乗って三笠山に来られたことから、春日大社は鹿を神鹿として保護敬愛しているという。

であれば、優しく賢そうな鹿さんの目を見て、天照大神の御子孫 令和唯一のお姫様を想うのは当然のことかもしれない。

敬宮愛子内親王殿下 二十歳のお誕生日 おめでとうございます

愛人者人恒愛之
敬人者人恒敬之
人を愛する者は他人も常にその人を愛し
人を敬う者は他人も常にその人を敬う

<愛子さま、黒田清子さんのティアラ借りて成年行事…宝冠大綬章の授与を閣議決定>
読売新聞2021/11/16 12:21配信より引用
12月1日に20歳の成年になられる天皇、皇后両陛下の長女愛子さまに同日付で宝冠大綬章が授与されることが16日の閣議で決まった。宝冠章は女性のみに贈られる勲章で、大綬章はその最高位。
宮内庁によると、愛子さまの成年行事は大学の授業などに配慮し、平日の12月1日と日曜日の同5日に分けて行われる。1日は夕方に皇居・御所で宮内庁長官らから祝賀を受け、夜は両陛下と祝いの御膳を囲まれる。5日は宮中三殿を参拝した後、宮殿で天皇陛下から勲章が授与される。続いて皇族方や三権の長らから祝賀を受けられる。
成年になった女性皇族にはティアラが新調されるが、コロナ禍で多くの国民が苦労している状況を考慮し、愛子さま用のティアラは制作されていない。このため愛子さまは、陛下の妹の黒田清子さんのものを借りて成年行事に臨まれる。コロナ禍のため祝宴や茶会も開催しない。


死神の悪手

2021-11-30 23:42:42 | ニュース
これも時間マジックを使うので、ニュースの内容と固有名詞は曖昧に、でも事実はそのままに。
五冠がかかった対局が始まった。将棋のことは何も分からないのだが、一局目前半のある一手について解説をしている9段が、これは彼だから何も言われないけれど10年前に普通の人が指したら怒鳴られるような手だと話した。
時代が定石を変えていくのか、人がそれを変えていくのか
もし10年前普通の人が指したそれを認めていたら、その世界は進化したのか?
それとも、10年の年月は必要だったのか?
だが、人によってはアリとなるのなら、もしかすると埋もれてしまった才能は多くあるのかもしれない。
 
 
私は将棋をしないので、本当のところは何も分かっていないのだろうが、高校の卒業式で、人生を将棋の駒に例えての訓示を聞いて以来、棋譜の一つも分かりもしないくせに、将棋を扱う本は読むようにしてきた。
 
「神の悪手」(芹沢央)
本の帯より引用
『26歳までにプロになれなければ退会――苛烈な競争が繰り広げられる棋士の養成機関・奨励会。リーグ戦最終日前夜、岩城啓一の元に対局相手が訪ねてきて……。追い詰められた男が将棋人生を賭けたアリバイ作りに挑む表題作ほか、運命に翻弄されながらも前に進もうとする人々の葛藤を、驚きの着想でミステリに昇華させた傑作短篇集』
 
将棋の世界は途轍もなく厳しく、そのほとんどが苦悶と挫折の物語だ。

「兄は頭が悪かったので将棋を続けることはできず、東大に行くしかなかった」と言った(とか言わないとか)名人もおられるそうだし、谷川浩司棋士のご兄弟は「自分は弟のように強くないから奨励会には入れず(入らず)東大に行った」と言われているほどに、棋士への道は険しい。(灘中灘高から東大に進んだ兄と同様の成績だった谷川少年は、灘へ進むか奨励会へ入るか迷われたという)

というような東大など歯牙にもかけないような頭脳 同士が争うのだから、勝負そのものが高度なのはもちろんだが、それほどの頭脳集団が他のすべてを犠牲にして将棋にかけても、年齢制限という抗うことのできない壁も厳然とある。
 
そのうえ将棋は自ら「負けました」と投了しなければならない。
 
棋譜の一つも読めないけれど、物語であっても将棋の世界を垣間見たくなるのは、他の何を犠牲にしてもいいと努力したことがあるからかもしれない。
目標の諦め方が分からない苦しみを知っているからかもしれない。
だから、棋譜の一つも読めないけれど、倦むような苦しみだけはよく分かる。
 
どれほど努力しても4段にあがれそうにない。
そして年齢制限は確実に迫ってくる。
そんな切羽詰まった日々、思うこと、突きつけられること。
(『 』「神の悪手」より引用)
『ただ、時折聞こえる「戦争」という言葉に興奮した。日本も無関係ではいられなくなるのだという議論に身を乗り出した。
もし大変なことになったら、という夢想は、彼の心を惹きつけた。それは具体的ではないからこそ、甘く柔らかく、口の中で転がすことができた。』

『将棋は彼の弱い部分ばかりを浮き彫りにした。踏み込むべきところで躊躇ってしまう臆病さを、限界を超えて考え尽くせない胆力のなさを、既にあるものを小器用に組み合わせて取り繕うことしかできない凡庸さを。
負けましたと口にするたびに、少しずつ自分が殺されていくのを感じた。費やしてきた時間、正しいと選び取ったこと、自分を自分たらしめるものが、剥ぎ取られていった。』
 
少し前に読んだ将棋の本「死神の棋譜」(奥泉光)にも、負けを認める苦しさが書かれていた 『―負けました。これをいうのは人生で何度目だろう』
 
自ら負けを認めることほど苦しいことはないが、負けを認めるという高度な精神性とは別の次元の、負けを知ることの難しさ、というものがある。
 
これは以前も書いたことがあるかもしれないが、子供の頃にテレビで見た、棋士と芸人さんの対決だ。
名のある棋士だったと思うが、棋士は飛車角落ちどころではない手駒で芸人さんと戦ったいた。
勝負がはじまり程なく、棋士は困った顔をし始めた。
一方の芸人さんは したり顔で指し続けている。
さすがの棋士さんも手駒が少なすぎて戦うことができないのかと子供心に思っていたら、違ったのだ。
もうとっくに芸人さんは詰んでいるのに、それに気づかず得々と指すのを止めないので、困っていたのだ。
その時子供ながらに、負けていることに気づくにも知恵がいることを、知った。
 
棋士もまた将棋の世界の駒の一つだとしたら、勝つ駒負ける駒ともに知恵と度量があるからこそ、その世界は高潔さを保たれている。
 
だが、あれから随分 時が経ち、世間は負けが分からないまま調子こいてるものや、負けを認めるのが嫌で卑怯な手を使うものが跋扈する時代になった。
 
ズルと卑怯が頭になるくらいなら、頭はいらない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
数え始めたら、その暴挙と卑怯とズルと恥知らずにはキリがないのだが、最近のお笑いは、マスコミ報道を含め特にネット上の罵詈雑言には規制が必要とかいう戯言。
めったに言わない言葉を思わず呟いた、おまいう
男児が産めなかったと病む義姉と、女児だと軽んじられる姪と、妻と娘を守る兄を、後ろから前から撃っていたのは誰なのだ。
手駒を総動員して、ネット上で兄の立場を剥ぎ取る活動をさせていたのは誰なのか。
手駒を総動員して、ないことないことマスコミに書かせて兄一家を苦しめ続けた首謀者は誰なのか。
兄の一世一代の儀式にはケチをつけ、自分の家には50億近くも投じる勝手を押し通すのも呆れるが、まだまだ懲りずにまたまた裏から頭2を押し込み、rord to トー台と嘯いている。
そんな恥知らずの頭1と2の立場はゆるがせにしてはないないらしい。
もういいや
このご時世、制度として詰むのは目に見えていた。
それを回避するには、新たな駒に活躍してもらうしかなかったと思う。
だから神は、しなやかな転換のため女児の誕生を続けさせたのではないか
 
だが、
やりたい放題が大手を振る世が確約された今、
もはや心は離れた

工夫すればできる、③

2021-09-11 10:20:30 | ニュース
ワクチンパスポートさえ所持しておれば、来月あたりから、県を越えた活動もお酒を含む飲食も、大勢での会食も、大規模イベントもできるようになるそうだ。
アスピリン薬疹の経験から、ワクチン接種までに不安も不満も含め諸々の経緯があった身からすれば、ワクチンパスポートを水戸黄門の印籠にしてしまっても良いのか、打ちたくとも打てない人への配慮が足りなさすぎるのではないか、という思いもあるが、実際のところ個々人の気持ちを斟酌する余裕がないところまできているのかもしれない。

いろいろ思いが交錯しているときに、すっと心に入ってきたお言葉がある。

「工夫すればできる」

 
今だからこそ書けるが、この夏我慢ならず、上高地に行った。
さすがに山小屋に泊まる山歩きは避けたが、だからこそゆっくりと上高地を歩き、穂高を仰ぎ、二年分の心の洗濯をした。
「人はパンのみにて生くるにあらず」ではないが、どれほど自然のなかを、いや穂高を歩くことが、自分の心を元気にしてくれているのかを実感したコロナ禍でもあった。
だから、穂高へ向かった。
 
 
非国民的行動かもしれないと思いつつ明け方車で出発し、昼食は信州そばも飛騨牛ランチも諦め、あらかじめ用意しておいたパンとお握りを車中で食べ、他人さまとは一言も言葉を交わさず、上高地へ降り立った。
 
 
二年ぶりの上高地
上高地は雪深いこともあり、宿泊施設はすべて山開きの4月末から11月前半までしか稼働していない。
だから、このコロナ禍の痛手は、ある意味ほかの宿や飲食店よりも厳しいものがあったに違いない。
しかし、いつものお宿 上高地温泉ホテルの方々は本当に明るく出迎えてくださった。
そして、ひとたびホテルに入ると、ここで感染するはずはない、というほどに工夫と努力をされていた。
立派なパーテーションに、間隔を大きくあけた座席
見れば見るとき、ありとあらゆる所を さりげなくしかしシッカリと消毒されていた


香淳皇后の甥御さまである青蓮院門主の書
上高地温泉ホテルは門主さまとご縁を頂かれているようで、ロビーでは書を拝せるし、
山の宮様で有名な秩父宮殿下もお泊りになられたようで、その際の茶器も飾られている
 
あれから一月半がすぎ、穂高からはもちろん大きな元気をもらったのだが、諦めないことと工夫することも、上高地の宿や自然から教えてもらったと思っている。そのような思いを、先の「工夫すればできる」というお言葉は思い出させてくれたのだ。
例年ならホテル前で足湯をされていたのだが、コロナ禍でそれも中止
足湯をされていた辺りの可憐な花が目を楽しませてくれる
 

<コロナ禍ご滞在先で異例の対応 陛下、皇居へご転居>産経新聞 9月6日20:40配信より引用

代替わりに伴い、天皇、皇后両陛下と長女の敬宮(としのみや)愛子さまが6日、赤坂御所から皇居に移られた。今回の天皇ご一家の引っ越しでは、荷物を新御所に運び込む期間中、ご一家が宿泊設備のない皇居・宮殿に、寝具を運び込んで滞在される異例の対応が取られた。背景には新型コロナウイルス禍を憂慮し、帰省や旅行を控える国民に寄り添う天皇、皇后両陛下の強いお気持ちがあったという。
平成5年の代替わりに伴う引っ越しでは、上皇ご夫妻は葉山御用邸(神奈川県葉山町)にご滞在。これに倣い、ご一家も今回、静養も兼ねて那須御用邸(栃木県那須町)に滞在されることが想定されていた。
ところが7月以降、東京をはじめ広域に緊急事態宣言が発令。側近によると、両陛下は厳しい感染状況に、「県境をまたぐ移動は、国民への誤ったメッセージになるのでは」と懸念されたという。宮内庁はホテルなども含め都内のご滞在先を複数検討したが、警備や感染対策などの観点から難航していた。
「宮殿もありますね」 宮殿は、こうした検討過程で天皇陛下から一案として示されたという。宮殿には浴室もあり、昭和46年、
昭和天皇香淳皇后とともに、外国訪問前にリハーサルで宿泊したことがあるが、10日間の滞在は異例。側近は「ご不便をおかけしてしまうと思ったが、陛下は工夫すれば利用できるという考えを明確にお持ちだった」と打ち明ける。 ご滞在中は、公的な行事を行う部屋を避けて居住空間を確保。長女の敬宮愛子さまの学習スペースも設け、お世話をする職員を最小限にするなど、感染対策を講じながら過ごされる。

 

ちなみに、一回目のワクチン接種、翌日多少腕が上がりにくい以外は、何の副反応もなかった。

ちなみに、今般の諸々あれこれを見るに、令和が長く長く続くことを祈り、もうそれでよい、と思う。よもや私が、こう感じるようになるとは、あちこち誠に罪深い。