これは、超上から下まで いかなる世界でも同様の傾向があるとは思うのだが、本の世界を例にとってみると、最近の新刊は、書店のポップや帯などの煽りが仰山なため、残念な結果を生じさせていると思っている。
一つには、前振りで異様に持ち上げハードルを上げているため、実体が伴っていないことが明らかになった時、却って失望感が強くなってしまうという事がある。が、これはまだマシで、より大きな問題は、空疎で空虚な煽りを そのまま受け入れる人が続出することで、真に賞賛すべきモノが理解できない、あるいはその基準が低下してしまう事にあると、思う。
その例として、新刊がでれば必ず読むことにしている作家さんの本をあげるのは、かなり心が痛むが、本作に限っていえばタイトルからして、作家さんご自身が かなり皮肉を込めておられる気がするので、仰山な宣伝文句の例としてあげる無礼をお許し願いたいと思っている。
「素敵な日本人」(東野圭吾)
~本の帯より~
『たとえば、毎日寝る前に一編。
ゆっくり読んでください。
豊饒で多彩な短編ミステリーが、日常の倦怠をほぐします。
夢中になってイッキ読み。寝不足必至のサスペンス。
それもいいけれど、読書は、もっと優雅なものでもあるのです。
意外性と機知に富み、四季折々の風物を織り込んだ、極上の九編。』
東野氏の作品には他に、内容においては「豊饒で多彩」「意外性と機知に富み」とされるものも、読み方においても「寝不足必死」「優雅」と云わせるものがあると思うのだが、タイトルと内容がアンバランスな本書で、この帯をつけてしまうと、これからの作品は どう表現するのだろうかと、要らぬ心配をしていまう。
本書は、帯によると四季折々の風物を織り込んだ短編集とのことだが、タイトルに相応しく日本らしい風物が描かれているのは、第一章「正月の決意」と三章「今夜は一人で雛祭り」なので、今回はそのうちの一編を記しておきたい。
<正月の決意>
例年通り書初めをし、例年通り初詣に出かけた夫婦は、しかし心に常にはない決意を抱いていたのだが、訪れた神社で町長の死体を発見・通報しために、当初の決意を翻し、新たな決意をするという物語。
死体で発見された町長も町長なら、かけつけた警察官も警察官、関係者として現れる教育長に宮司さんまで死体に関わる皆が皆、自分勝手を押し通している。そんな現場で唯一真っ当だったのが、死体発見の夫婦だが、この夫婦は初詣から帰宅した後、お屠蘇に仕込んだ青酸カリで自殺する予定だった。
青酸カリは、夫の工場で保管していたものだ。
その工場は、仕事が激減し、従業員の給料は何か月も未払いで膨らんだ借金を返せる見込みもなく、倒産は時間の問題だった。
そのうえ、夫婦の家も抵当に入っていたので、倒産すれば忽ち住むところもなくなってしまう。
ひたすら誠実に真面目に生きてきた夫婦は、それでも上手くいかないことがあると思い知ったとき、他には道がないという結論に達した。
それは、二人が死ぬことで、生命保険を子供に残し、そのお金で迷惑をかけた人々に出来るだけお詫びしてほしいという事だった。
その趣旨の遺書はすでに認めてある。
夫婦には、迷いはなかった。
だからこそ、いつもと同じように正月の儀式をしようと決めたのだ。
最期の書初めで「誠意」としたためた夫は、初詣で、自分達の成仏と、後に残していく人々の幸福を祈るつもりだった。
ところが、その初詣で神様に御参りできなかった。
自分勝手な理由で死体となり転がったり、自分勝手な理由で死体の処置を押し付け合ったりする、町のお偉いさんたちの所為で、神様に御参りすることができないまま帰宅した真っ当な夫婦は、書初めの文字「誠意」を見つめて「死ぬのはやめましょう」という。
~引用始め~
「あんないい加減な人間たちが、威張って生きている。あんな馬鹿なくせに、町長だったり、教育者だったり、警察署長だったりー」
「宮司だったりする・・・・・」
「それなのに、どうして私たちのような真面目な人間が死ななきゃならないの?そんなの絶対に変よ。馬鹿馬鹿しい。
あなた、頑張りましょう。私達も、これからは負けないでもっといい加減に、気楽に、厚かましく生きていきましょうっ」
これまでに聞いたことのない力強い声だった。
そうして二人は、誠意とかいた書初めを、びりびりと真っ二つに引き裂いた。
~引用終わり~
本作で、タイトル通りの「素敵な日本人」は?というと、生真面目に誠実に生きてきた結果 自殺を考えねばならぬほど追いつめられた夫婦だと思うのだが、この夫婦が死体発見を機に出会った おエライさん達の馬鹿馬鹿しさ身勝手さが延々書かれているため、タイトルとは程遠い印象を受けてしまう。
最終的に、真面目で誠実な夫婦が自殺を思いとどまるのは良かったが、その理由が、「あんな人でも恥ずかしげもなく生きているのだから頑張りましょう」までなら結構だが、「あの身勝手さに負けないで、自分達も もっといい加減に厚かましく生きましょう」となると、なんともはや。
世は、自分勝手で強欲な輩が、自分勝手で馬鹿馬鹿しい理屈を振りかざして、好き放題やっている。
神輿は軽い方が良いから、バカを祀り上げながら心の中で舌を出している方が面白いから、とオカシナ世論操作をしていると、軽い神輿をエライと勘違いし本物を見抜けない者が出てきたり、あれでも巧くやっているのだから自分もテキトーでいいではないか、と思う者ばかりが増えてしまう。
そうなってもいいのか日本、そう問いかけたい霜月晦日という日であった。
一つには、前振りで異様に持ち上げハードルを上げているため、実体が伴っていないことが明らかになった時、却って失望感が強くなってしまうという事がある。が、これはまだマシで、より大きな問題は、空疎で空虚な煽りを そのまま受け入れる人が続出することで、真に賞賛すべきモノが理解できない、あるいはその基準が低下してしまう事にあると、思う。
その例として、新刊がでれば必ず読むことにしている作家さんの本をあげるのは、かなり心が痛むが、本作に限っていえばタイトルからして、作家さんご自身が かなり皮肉を込めておられる気がするので、仰山な宣伝文句の例としてあげる無礼をお許し願いたいと思っている。
「素敵な日本人」(東野圭吾)
~本の帯より~
『たとえば、毎日寝る前に一編。
ゆっくり読んでください。
豊饒で多彩な短編ミステリーが、日常の倦怠をほぐします。
夢中になってイッキ読み。寝不足必至のサスペンス。
それもいいけれど、読書は、もっと優雅なものでもあるのです。
意外性と機知に富み、四季折々の風物を織り込んだ、極上の九編。』
東野氏の作品には他に、内容においては「豊饒で多彩」「意外性と機知に富み」とされるものも、読み方においても「寝不足必死」「優雅」と云わせるものがあると思うのだが、タイトルと内容がアンバランスな本書で、この帯をつけてしまうと、これからの作品は どう表現するのだろうかと、要らぬ心配をしていまう。
本書は、帯によると四季折々の風物を織り込んだ短編集とのことだが、タイトルに相応しく日本らしい風物が描かれているのは、第一章「正月の決意」と三章「今夜は一人で雛祭り」なので、今回はそのうちの一編を記しておきたい。
<正月の決意>
例年通り書初めをし、例年通り初詣に出かけた夫婦は、しかし心に常にはない決意を抱いていたのだが、訪れた神社で町長の死体を発見・通報しために、当初の決意を翻し、新たな決意をするという物語。
死体で発見された町長も町長なら、かけつけた警察官も警察官、関係者として現れる教育長に宮司さんまで死体に関わる皆が皆、自分勝手を押し通している。そんな現場で唯一真っ当だったのが、死体発見の夫婦だが、この夫婦は初詣から帰宅した後、お屠蘇に仕込んだ青酸カリで自殺する予定だった。
青酸カリは、夫の工場で保管していたものだ。
その工場は、仕事が激減し、従業員の給料は何か月も未払いで膨らんだ借金を返せる見込みもなく、倒産は時間の問題だった。
そのうえ、夫婦の家も抵当に入っていたので、倒産すれば忽ち住むところもなくなってしまう。
ひたすら誠実に真面目に生きてきた夫婦は、それでも上手くいかないことがあると思い知ったとき、他には道がないという結論に達した。
それは、二人が死ぬことで、生命保険を子供に残し、そのお金で迷惑をかけた人々に出来るだけお詫びしてほしいという事だった。
その趣旨の遺書はすでに認めてある。
夫婦には、迷いはなかった。
だからこそ、いつもと同じように正月の儀式をしようと決めたのだ。
最期の書初めで「誠意」としたためた夫は、初詣で、自分達の成仏と、後に残していく人々の幸福を祈るつもりだった。
ところが、その初詣で神様に御参りできなかった。
自分勝手な理由で死体となり転がったり、自分勝手な理由で死体の処置を押し付け合ったりする、町のお偉いさんたちの所為で、神様に御参りすることができないまま帰宅した真っ当な夫婦は、書初めの文字「誠意」を見つめて「死ぬのはやめましょう」という。
~引用始め~
「あんないい加減な人間たちが、威張って生きている。あんな馬鹿なくせに、町長だったり、教育者だったり、警察署長だったりー」
「宮司だったりする・・・・・」
「それなのに、どうして私たちのような真面目な人間が死ななきゃならないの?そんなの絶対に変よ。馬鹿馬鹿しい。
あなた、頑張りましょう。私達も、これからは負けないでもっといい加減に、気楽に、厚かましく生きていきましょうっ」
これまでに聞いたことのない力強い声だった。
そうして二人は、誠意とかいた書初めを、びりびりと真っ二つに引き裂いた。
~引用終わり~
本作で、タイトル通りの「素敵な日本人」は?というと、生真面目に誠実に生きてきた結果 自殺を考えねばならぬほど追いつめられた夫婦だと思うのだが、この夫婦が死体発見を機に出会った おエライさん達の馬鹿馬鹿しさ身勝手さが延々書かれているため、タイトルとは程遠い印象を受けてしまう。
最終的に、真面目で誠実な夫婦が自殺を思いとどまるのは良かったが、その理由が、「あんな人でも恥ずかしげもなく生きているのだから頑張りましょう」までなら結構だが、「あの身勝手さに負けないで、自分達も もっといい加減に厚かましく生きましょう」となると、なんともはや。
世は、自分勝手で強欲な輩が、自分勝手で馬鹿馬鹿しい理屈を振りかざして、好き放題やっている。
神輿は軽い方が良いから、バカを祀り上げながら心の中で舌を出している方が面白いから、とオカシナ世論操作をしていると、軽い神輿をエライと勘違いし本物を見抜けない者が出てきたり、あれでも巧くやっているのだから自分もテキトーでいいではないか、と思う者ばかりが増えてしまう。
そうなってもいいのか日本、そう問いかけたい霜月晦日という日であった。