「花見るまでの心なりけり」で、高杉晋作の辞世の句について書いた。
「おもしろきこともなき世を面白く 住なしものは心なりけり」
この句には諸説あるが、望東尼の句を受けて作られたとする「花見ぬひまの」(諸田玲子)の説を好んでいるのは、私にとっては望東尼の句あっての晋作の「心なりけり」だからだ。
「おもしろきことも無き世と思いしは 花見ぬひまの心なりけり 望東尼」
子供時代に、カナリアを可愛がっていことある。
だが、カナリアとの二度の別れの辛さが身に堪えた私は、生き物はもう二度と飼うまいと心に決めた。
生き物は、どれほど大切にしても いずれ旅立ってしまう、それが耐えられなかった。
そんな私の心が向かったのは、草花や野菜を育てることだった。
一年草は時がくれば確かに枯れるが、それは終わりを意味するのではなく、次の季節へ移り変わることを期待させるものでもあったし、花の時期が過ぎた草花を土に戻し寝かせれば、次の草花を生かす養分にもなる。
この、命の循環を感じさせる庭仕事は、私の心を大いに楽しませ、そして救ってくれた。
これを一言で云い表せば、「花は根に 鳥は古巣に」ということになるのだろうが、この原典があの崇徳上皇であることを私は知らなかった。
昨年来「上皇」という言葉が紙面を賑わすようになったため「後白河院」(井上靖)を読み、親子・兄弟で皇位を争う様に倦み疲れたとき、歌の才に恵まれた風流人であられた崇徳院の歌をいくつか拝読したのだが、そこに記されていたのが「花は根に、鳥は古巣に」の原典となった歌である。
「花は根に鳥は古巣に帰るなり 春のとまりを知る人ぞなき 千載集より 崇徳院御製の歌」
崇徳院の無念の最期に思いを寄せつつ読めば、「春のとまりを知る人ぞなき」には、移ろいゆく寂しさを感じるが、現在 ’’物事は廻り回って大元に帰ってくる’’との意味で「花は根に 鳥は古巣に」を使う時には、寂しいイメージは無いと思う。
崇徳院の歌にあわせて私の写真を掲載するのは憚れるが、もう何年も庭の同じ場所で、春の訪れを知らせてくれている花を記しておきたい。
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庭いじりで命の循環を実感した頃に出会ったワンコが、昨年1月20日 17歳と2か月でお空組の新入生となってしまった。
昨年は桜が咲くのを恐れていたが、それ以前の数年も、春がくるのが怖かった。
ワンコが少しずつ少しずつ老いるにつれ、春は「来年もワンコと桜を見ることができるだろうか」と不安を感じさせる季節となった。
そして、ワンコに触れることができなくなった(お空組・一心同体組2年生)今、春は心寂しい季節ではあるが、毎年庭で必ず咲く花の葉や根をワンコの棺に入れた為、それらの花が咲くのを心待ちにしている自分もいる。
犬星として、庭の草花として、ワンコが命の循環のなかで生きているのだと、私は信じている。
そう信じながら、春から夏への花や野菜作りの準備をしている今日この頃である。
毎年春になると園芸店に並ぶのを見て、てっきり一年草だと信じ込んでいた、ペチュニア。
ワンコの手術や老化で、庭仕事にかける時間が取りづらくなり、ペチュニアは軒下に置いたままになっていた。
それが、越冬に成功し子カブが育ったことから、多年草だと知ったのは、一昨年の春だった。
そのペチュニアが又また越冬に成功し、今は紫色の蕾を膨らませている。
ワンコと戯れたペチュニアが、今年の夏も目を楽しませてくれるのだ。
ワンコの命の息づかいを、私は今も感じている、信じている。
「おもしろきこともなき世を面白く 住なしものは心なりけり」
この句には諸説あるが、望東尼の句を受けて作られたとする「花見ぬひまの」(諸田玲子)の説を好んでいるのは、私にとっては望東尼の句あっての晋作の「心なりけり」だからだ。
「おもしろきことも無き世と思いしは 花見ぬひまの心なりけり 望東尼」
子供時代に、カナリアを可愛がっていことある。
だが、カナリアとの二度の別れの辛さが身に堪えた私は、生き物はもう二度と飼うまいと心に決めた。
生き物は、どれほど大切にしても いずれ旅立ってしまう、それが耐えられなかった。
そんな私の心が向かったのは、草花や野菜を育てることだった。
一年草は時がくれば確かに枯れるが、それは終わりを意味するのではなく、次の季節へ移り変わることを期待させるものでもあったし、花の時期が過ぎた草花を土に戻し寝かせれば、次の草花を生かす養分にもなる。
この、命の循環を感じさせる庭仕事は、私の心を大いに楽しませ、そして救ってくれた。
これを一言で云い表せば、「花は根に 鳥は古巣に」ということになるのだろうが、この原典があの崇徳上皇であることを私は知らなかった。
昨年来「上皇」という言葉が紙面を賑わすようになったため「後白河院」(井上靖)を読み、親子・兄弟で皇位を争う様に倦み疲れたとき、歌の才に恵まれた風流人であられた崇徳院の歌をいくつか拝読したのだが、そこに記されていたのが「花は根に、鳥は古巣に」の原典となった歌である。
「花は根に鳥は古巣に帰るなり 春のとまりを知る人ぞなき 千載集より 崇徳院御製の歌」
崇徳院の無念の最期に思いを寄せつつ読めば、「春のとまりを知る人ぞなき」には、移ろいゆく寂しさを感じるが、現在 ’’物事は廻り回って大元に帰ってくる’’との意味で「花は根に 鳥は古巣に」を使う時には、寂しいイメージは無いと思う。
崇徳院の歌にあわせて私の写真を掲載するのは憚れるが、もう何年も庭の同じ場所で、春の訪れを知らせてくれている花を記しておきたい。
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庭いじりで命の循環を実感した頃に出会ったワンコが、昨年1月20日 17歳と2か月でお空組の新入生となってしまった。
昨年は桜が咲くのを恐れていたが、それ以前の数年も、春がくるのが怖かった。
ワンコが少しずつ少しずつ老いるにつれ、春は「来年もワンコと桜を見ることができるだろうか」と不安を感じさせる季節となった。
そして、ワンコに触れることができなくなった(お空組・一心同体組2年生)今、春は心寂しい季節ではあるが、毎年庭で必ず咲く花の葉や根をワンコの棺に入れた為、それらの花が咲くのを心待ちにしている自分もいる。
犬星として、庭の草花として、ワンコが命の循環のなかで生きているのだと、私は信じている。
そう信じながら、春から夏への花や野菜作りの準備をしている今日この頃である。
追記1 ワンコ&ペチュニア庭の草木の契り図書館に予約していた本を受け取った。まだ新しい本を読む気力が湧かないとは思ったが、順番を待つ人もいる人気の作家さんなので、とりあえずザッと読み、早く返却しようと思い、手に取り驚......
毎年春になると園芸店に並ぶのを見て、てっきり一年草だと信じ込んでいた、ペチュニア。
ワンコの手術や老化で、庭仕事にかける時間が取りづらくなり、ペチュニアは軒下に置いたままになっていた。
それが、越冬に成功し子カブが育ったことから、多年草だと知ったのは、一昨年の春だった。
そのペチュニアが又また越冬に成功し、今は紫色の蕾を膨らませている。
ワンコと戯れたペチュニアが、今年の夏も目を楽しませてくれるのだ。
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ワンコの命の息づかいを、私は今も感じている、信じている。