何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

花愛でる心に生きるワンコ

2017-03-31 23:55:05 | 自然
「花見るまでの心なりけり」で、高杉晋作の辞世の句について書いた。
「おもしろきこともなき世を面白く 住なしものは心なりけり」

この句には諸説あるが、望東尼の句を受けて作られたとする「花見ぬひまの」(諸田玲子)の説を好んでいるのは、私にとっては望東尼の句あっての晋作の「心なりけり」だからだ。
「おもしろきことも無き世と思いしは 花見ぬひまの心なりけり  望東尼」

子供時代に、カナリアを可愛がっていことある。
だが、カナリアとの二度の別れの辛さが身に堪えた私は、生き物はもう二度と飼うまいと心に決めた。
生き物は、どれほど大切にしても いずれ旅立ってしまう、それが耐えられなかった。
そんな私の心が向かったのは、草花や野菜を育てることだった。
一年草は時がくれば確かに枯れるが、それは終わりを意味するのではなく、次の季節へ移り変わることを期待させるものでもあったし、花の時期が過ぎた草花を土に戻し寝かせれば、次の草花を生かす養分にもなる。
この、命の循環を感じさせる庭仕事は、私の心を大いに楽しませ、そして救ってくれた。

これを一言で云い表せば、「花は根に 鳥は古巣に」ということになるのだろうが、この原典があの崇徳上皇であることを私は知らなかった。
昨年来「上皇」という言葉が紙面を賑わすようになったため「後白河院」(井上靖)を読み、親子・兄弟で皇位を争う様に倦み疲れたとき、歌の才に恵まれた風流人であられた崇徳院の歌をいくつか拝読したのだが、そこに記されていたのが「花は根に、鳥は古巣に」の原典となった歌である。
花は根に鳥は古巣に帰るなり 春のとまりを知る人ぞなき 千載集より 崇徳院御製の歌」

崇徳院の無念の最期に思いを寄せつつ読めば、「春のとまりを知る人ぞなき」には、移ろいゆく寂しさを感じるが、現在 ’’物事は廻り回って大元に帰ってくる’’との意味で「花は根に 鳥は古巣に」を使う時には、寂しいイメージは無いと思う。
崇徳院の歌にあわせて私の写真を掲載するのは憚れるが、もう何年も庭の同じ場所で、春の訪れを知らせてくれている花を記しておきたい。
   
 
  

庭いじりで命の循環を実感した頃に出会ったワンコが、昨年1月20日 17歳と2か月でお空組の新入生となってしまった。
昨年は桜が咲くのを恐れていたが、それ以前の数年も、春がくるのが怖かった。
ワンコが少しずつ少しずつ老いるにつれ、春は「来年もワンコと桜を見ることができるだろうか」と不安を感じさせる季節となった。
そして、ワンコに触れることができなくなった(お空組・一心同体組2年生)今、春は心寂しい季節ではあるが、毎年庭で必ず咲く花の葉や根をワンコの棺に入れた為、それらの花が咲くのを心待ちにしている自分もいる。
犬星として、庭の草花として、ワンコが命の循環のなかで生きているのだと、私は信じている。
そう信じながら、春から夏への花や野菜作りの準備をしている今日この頃である。
庭の草木の契り
図書館に予約していた本を受け取った。まだ新しい本を読む気力が湧かないとは思ったが、順番を待つ人もいる人気の作家さんなので、とりあえずザッと読み、早く返却しようと思い、手に取り驚......
追記1 ワンコ&ペチュニア
毎年春になると園芸店に並ぶのを見て、てっきり一年草だと信じ込んでいた、ペチュニア。
ワンコの手術や老化で、庭仕事にかける時間が取りづらくなり、ペチュニアは軒下に置いたままになっていた。
それが、越冬に成功し子カブが育ったことから、多年草だと知ったのは、一昨年の春だった。
そのペチュニアが又また越冬に成功し、今は紫色の蕾を膨らませている。
ワンコと戯れたペチュニアが、今年の夏も目を楽しませてくれるのだ。

ワンコの命の息づかいを、私は今も感じている、信じている。

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花見るまでの心なりけり

2017-03-30 18:21:17 | ひとりごと
幕末から現代の政治にまで多大な影響というより強大な実権を握り続けている’’薩長’’だが、一括りに’’薩長’’と雖も、私にとっての印象はかなり異なる。

両県に縁もゆかりもないのは同様なのだが、一頃寮歌に凝った私が大いに気に入ったのが、旧制第七高等学校のあの「北辰斜めに」だったこと、山崎豊子氏の数ある作品のなかでも、薩摩隼人を主人公とする「二つの祖国」が印象深かったこともあり、薩摩・鹿児島により親近感を覚えてきた。
そのような事情もある為、錦帯橋と岩国城を訪問するにあたり、何か長州・山口のものを読もうかと思ったが、なにせ急に決まった旅行ゆえに、時間がないまま出発となり、帰宅後も結局その関連本は読んでいないので、今回は写真だけ掲載しておこうと思っている。

岩国駅から錦帯橋まで乗ったタクシーの運転手さんは、郷土愛が強く又お客さん思いでもあるのだろう、「あと一週間遅ければ、桜がきれいだったのに・・・」としきりに残念がっておられた。
岩国駅から錦帯橋までの川沿いには、ずっと桜並木が続いていたのだが、錦帯橋の河川敷の桜も今頃咲き始めているだろうか。
写真出展ウィキペディア   https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kintaikyou_bridge.JPG

五連のアーチからなる木製の優美な錦帯橋は、河原に降り遠くから撮らねば、その良さは伝わらないが、この辺りから体調が思わしくなかった私はそそくさと先を急ぎ、岩国城へと向かったのだ。
 
錦帯橋を渡り、頂上へとロープウェイに乗り、そこから更にしばらく登ったところに聳え立つ(・・と云うには、ちくと こじんまりとした)岩国城。
四層六階建ての天守構造をもつ城内で展示される美術品(刀や鎧兜、日本の名城の写真、長州らしく明治以降に中央で活躍した要人の写真)は なかなか見ごたえがあり、最上階からの眺望も素晴らしかったが、私の印象に一番強く残ったのは、城でもお宝でもなかった。

  
天守閣へ向かう急な坂道に、椿の花が散り落ちていたのだが、それを拾って石垣の隙間に埋め込んだ、風流人がいたようだ。
これを見た時、道半ばで逝った長州の志士の辞世の句が浮かんだ。
「おもしろきこともなき世を面白ろく 住みなしものは心なりけり」
高杉晋作のこの句は諸説あるが、望東尼の「おもしろきこともなき世と思ひしは 花見ぬひまの心なりけり」を受けてのものだという説をとる「花見ぬひまの」(諸田玲子)を私は好んでいる。

途中から体調を崩したため、錦帯橋や岩国城の写真もさほど撮れず残念だったが、石垣の椿から二つの句が浮かんだことが、この旅行における長州の印象を趣深いものとしてくれた。

参照、「おもしろきこともなき世を」 「聖地での勝利」


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あぁボケ人生論ノート②

2017-03-28 21:00:00 | ひとりごと
「あぁ勘違い人生論ノート①」より

二年前 園芸店で''木瓜''を見つけたことから、「拙を守って偉くなれ」で、「家栽の人」(毛利甚八 作、魚戸おさむ 画)「草枕」(夏目漱石)について書いている。

園芸店で見かけた’’木瓜’’と、我が家の<ボケ>があまりにも違ったため、木瓜について書いたのだが、二年前の時点では我が家のそれを、私はたしかに’’木瓜’’だと思っていた。
だが、その後、我が家の<ボケ>について家人に問うと、「あれは’’木瓜’’ではない。長寿梅だ」と言う。
ボケた記事について、「ボケてました」と訂正するのも恥ずかしく、そのまま放置していたのだが、この度の旅行で、なんと我が家のそれは、やはり’’木瓜’’だと判明したのだ。
これぞまさしく、ボケた話

原爆ドームと平和記念資料館を訪ねた我々は、広島から足を延ばし、錦帯橋と岩国城へと赴いた。
錦帯橋を越え、山頂にある岩国城へと向かう途中の吉香公園には、旧目加田家という江戸時代中期の武家屋敷が公開されている。 (岩国の観光com http://www.iwakuni-kanko.com/kikko/mekatake/)
その武家屋敷の素朴な入り口に、一際賑やかしく咲いている、赤い花。
木の根元にある木札を見ると、’’木瓜’’とある。
赤い花はと見ると、どうにも我が家の’’長寿梅’’に似ているのだ。

二年前、家人に「長寿梅だ」と指摘された時には確認もしなかったが、この時ばかりは疑いを深め、家に帰るなり植物辞典を調べると、長寿梅とは’’木瓜’’の一種だという。
しかも、''木瓜''属の長寿梅は四季咲きであることが特徴だというが、季節を問わず一年に何度でも咲くことが <ボケ>のボケたる所以だと思っていた私は、その点でもボケだった。
・・・・・と間抜けな事をボケボケと書いてきたが、漱石「草枕」で書いた’’木瓜’’は、私のごときボケとは勿論 違う。

夏目漱石「草枕」より-
…木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。
それなら真直かと云うと、けっして真直でもない。
ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、
斜に構えつつ全体が出来上っている。
そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑咲く。
柔かい葉さえちらちら着ける。
評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。
世間には拙を守ると云う人がある。
この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。
余も木瓜になりたい…

これは、私が大好きな陶淵明「守拙帰園田(拙を守って園田に帰る)」から来ているという。
少きより俗に適うの韻なく
性 本 丘山を愛す
誤って塵網の中に落ち
一たび去って三十年。
羈鳥は旧林を恋い、
池魚は故淵を思う。
荒を南野の際に開かんとし
拙を守って園田に帰る


「守拙帰園田」などという心境にはほど遠く、どちらかと云うと、「山月記」(中島敦)の李徴の嘆きの方が身に沁みるが、だからこそ陶淵明に強く惹かれるのだと思う。
これからも勘違いに気付くことばかりの続く人生かもしれないが、ボケを笑い飛ばす厚かましさを体得し、図々しく生きていこうと思っている。


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あぁ勘違い人生論ノート①

2017-03-27 19:00:00 | 
「絶対的なワンコ飛行」の追伸で、「これまでの私がするのは’’旅’’だったと思うのだけど、今回のそれは旅行だったんだよ ワンコ」と書いた経緯などを記しておこうと思う。

かなり子供の頃から、読書が趣味というより癖である私は、国語の教科書も、授業そっちのけで読みこんでいた(笑い)。
そんな私だが、授業で習った作品を、後にわざわざ買ったのは、三冊しかない。
「しろばんば」(井上靖)
「山月記」(中島敦)
「人生論ノート」(三木清)


「人生論ノート」は、国語のテキスト(副教材)にあった「旅について」を収録している為に購入したのだが、とにかく本の内容に影響を受けやすい私は、長年「旅について」に記されている思索(の解釈)に囚われてきた。
たしか、テキストには「人生は旅、とはよくいはれることである」からの一節が引用されていたと思うのだが、先生はその前の段落のある箇所を紹介しながら、「旅と旅行の違い」について自説をぶたれた、これに長年影響を受けてきたのだ。
(『 』「旅について」より先生が拘られた箇所を引用)
『旅は過程である故に漂泊である。出発点が旅であるのではない、到達点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味ふことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといはれるのである。日常の生活において我々はつねに主として到達点を、結果をのみ問題にしている、これが行動とか実践とかいふものの本性である。しかるに旅は本質的に観想的である。旅において我々はつねに見る人である。平生の実践的生活から脱け出して純粹に観想的になり得るといふことが旅の特色である。旅が人生に対して有する意義もそこから考えることができるであらろう』

あの頃、世はバブルであった。
巷は海外旅行(パック旅行)の宣伝で溢れかえっていた。
おそらく先生はその風潮を良しとされていなかったのだろう、「旅は、ある地点から ある地点へ動くことを云うのではない。人生にも重ねうる’’旅’’とは過程こそが重要であり、その過程は、自らが全ての計画・手筈を整え責任を持つことをもって完成する。しかるに旅行会社のツアーに参加するアレは、単なる移動であり、’’旅’’とは似て非なる旅行である」と授業の間中 先生は力説されており、それに長年すっかり毒されていた(もとい、影響を受けてきた)私は、この年になるまで頑なにツアー旅行というものへの参加を拒むどころか、旅行会社を頼ることすらしないできた。
その姿勢の最たるものが、歩く行程すべてが自己責任の’’山歩き’’なのかもしれない。

しかし今回は、そうとばかりは言っておれなかった。
緑内障の進行具合から先行きに不安を覚えた御大が、突然、残りの人生で是非とも訪問しておきたい場所を幾つかあげた。
そこへは家族皆で訪れたいとも言うが、突然の提案なので、家族皆の都合を合わせながら計画することは、なかなかに難しい。
ともかく、この春にも一つ訪問しておこうとなった時、忙しい我々が頼ったのが、旅行会社だったのだ。
幸いにも家人には、仕事を通じて懇意にしている旅行会社があり、事情を説明すると、急な計画にもかかわらず巧い具合にmyプランを万事手配して下さった。
かくなる騒動を経て向かった先が、原爆ドームと平和記念資料館を第一の目的とした広島・山口なのだった。
最寄りの駅を出発する時点から、最寄りの駅に帰り着く全ての過程を人任せにした旅行であったが、これがケッコウ良かったのだ。
たとえ’’移動’’と揶揄されるものであったとしても、プロの計画には無駄がなく(「この無駄こそ味わうべきだ」という先生の声が聞こえてきそうだが)、’’移動’’そのものを楽しめれば、大船にのったような’’移動・旅行’’であり、大満足なものとなった。
日頃利用する新幹線では馴染みのない紫色の奇抜な車体に初めて乗った。
エヴァンゲリオン号とかいうらしいそれには、実物大コックピットまであるという。
広島ー岩国間では、コックピットを楽しむことはできなかっが、思わず撮り鉄もどきになってしまったのは、お気楽旅行モードのおかげだと思う。
http://www.500type-eva.jp/?utm_source=listing&utm_medium=google

長年 先生の解釈に毒され(もとい、影響を受け)旅行会社を頼ることを避けてきたことを、決して後悔はしていない。
行き先、行程、乗り物の手筈などを自分でする’’旅’’の醍醐味を知ることができたのは、結果的には良かったと思う。
ただ今回、旅行会社の指示通り動いた旅行も、なかなか良かった、そして、そう感じることを、三木清氏も否定はされないと思うのだ。
そんなことを考えながら、もう一度、テキストに掲載されていた箇所を読み返している。

『人生は旅、とはよくいわれることである。芭蕉の奧の細道の有名な句を引くまでもなく、これは誰にも一再ならず迫ってくる実感であらう。人生について我々が抱く感情は、我々が旅において持つ感情と相通ずるものがある。それは何故であらうか。
何処から何処へ、ということは、人生の根本問題である。我々は何処から来たのであるか、そして何処へ行くのであるか。これがつねに人生の根本的な謎である。そうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として変わることがないであろう。いったい人生において、我々は何処へ行くのであるか。我々はそれを知らない。人生は未知のものへの漂泊である。我々の行き着く処は死であるといわれるであろう。それにしても死が何であるかは、誰も明瞭に答えることのできぬものである。何処へ行くかという問は、翻って、何処から来たかと問はせるであらう。過去に対する配慮は未来に対する配慮から生じるのである。漂泊の旅にはつねにさだかに捉へ難いノスタルジヤが伴っている。人生は遠い、しかも人生はあわただしい。人生の行路は遠くて、しかも近い。死は刻々に我々の足もとにあるのであるから。しかもかくの如き人生において人間は夢みることをやめないであろう。我々は我々の想像に從つて人生を生きている。人は誰でも多かれ少かれユートピアンである。旅は人生の姿である。旅において我々は日常的なものから離れ、そして純粹に観想的になることによって、平生は何か自明のもの、既知のものの如く前提されていた人生に對対して新たな感情を持つのである。旅は我々に人生を味わさせる。あの遠さの感情も、あの近さの感情も、あの運動の感情も、私はそれらが客觀的な遠さや近さや運動に関係するものでないことを述べてきた。旅において出会うのはつねに自己自身である。自然の中を行く旅においても、我々は絶えず自己自身に出会うのである。旅は人生のほかにあるのでなく、むしろ人生そのものの姿である。』

追記
旅と旅行について、長年 勘違いならぬ変な思い込みを持ってきたが、この旅でもう一つ自分の勘違いを見つけてしまった。
そのあたりについては又つづく

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十五の心 15の青い空

2017-03-26 12:05:55 | 
「祝号外 敬宮様ご卒業」 「敬宮様の青い空 15の心」より

3月11日を前に、東日本大震災を考える本を図書館で探していて見つけたのが「おれたちの約束」(佐川光晴)だった。
本の帯には、「おれは、ひとりじゃなかった! 生き抜くこと、を深く問いかける感動の青春小説」という大文字とともに、「札幌を離れ、仙台に進学した陽介を襲った大地震」とある。

本書は「おれのおばさん」シリーズの第三弾ということだが、生憎図書館には第一弾がなかったため、第二弾・三弾を借りて読んでいた。
その第二弾「おれたちの青空」について今回記録しておこうと思うのは、第二弾の主人公が敬宮様と同じ15歳であり、敬宮様の作文で強く印象的に残る「空」が本のタイトルにあるからだ。

「おれたちの青空」(佐川光晴)
「おれたちの青空」は、札幌の児童養護施設「魴鮄舎(ほうぼうしゃ)」に暮らす14人の中学生と、その世話を一人で引き受ける「おばさん」の話で、本書は三人を主要な人物とする三編からなる。

第一編は、父の死を切っ掛けに母から拒絶(虐待)され、養護施設で暮らすようになった卓也の物語「小石のように」。
仕事熱心な父と、家庭を守る優しい母に育てられていた卓也は、実は、この両親の血をわけた子ではなかった。
夫の身体的理由により子供を授かる可能性がなかった夫婦が、特別養子縁組により、レイプ犯罪の被害者が産んだ男の子・卓也を、引き取ったのだ。
優しい両親の元、養子であることを知らされずに何不自由なく暮らしていた卓也の生活は、父が突然の交通事故で亡くなることにより、一変してしまう。
それまで「たくちゃん」と呼び可愛がってくれていた母が、突然「養子の あんたなんか本当は育てたくなかった、レイプされて仕方なく生まれた子なんて育てたくなかった」と言いながら虐待を始めた。
学校からの通報で、警官と救急隊員に救われた時には、体中が傷だらけになっていたのだが、追い打ちをかけるように、めったなことでは離縁が許されない特別養子縁組の解消まで母は望んでいると、卓也は知らされる。
行き場のなくなった卓也は、児童養護施設を転々とし、最終的に札幌の「魴鮄舎」で暮らすようになる。
10才の少年には過酷すぎる経験だが、臨床心理士や「おばさん」との出会いに救われ、また本人の生来の明るさも幸いし、15歳となった卓也は恵まれた体格を生かしたスポーツで進路を切り拓くべく青森の高校へ進学を決める。

この卓也と同い年で、同じく「魴鮄舎」に暮らす陽介を描いたのが、第三編の「おれたちの青空」だ。
大手都市銀行の副支店長だった父が女性に貢ぐために銀行を金を横領し逮捕されたのを切っ掛けに一家離散となり、「魴鮄舎」で暮らすようになった陽介。
それまで、東大合格日本一ともいわれる中高一貫の私立中学に通っていた陽介の生活が一変する苦しい過程は、私が読んでいない「おれのおばさん」シリーズ第一弾に詳しいのかもしれないが、本書「おれたちの青空」で描かれる陽介は、転校先の公立中学で、父が服役中であることをバラされ中傷されても歪むことなく、常に明るく学年一番の成績を維持し続け、自力で高校進学と生活費を賄う為、成績上位者に特待生度がある仙台の高校へと進学を決めるのだ。

スポーツ万能の卓也に成績優秀な陽介は、児童養護施設で暮らす事情に臆することなく、常に明るく前向きだ。
このような二人を、かつては中傷した同級生すら、「一流の人間」だと認め、こう云う。
(『 』「おれたちの青空」より引用)
『一流の人間っていうのは、どんな不幸でも糧に変えて、さらに成長していく。だけど二流三流の人間は、不幸から逃げようとして、しかも逃げ方が中途半端だから、結局は不幸につかまっちゃう。もちろん不幸を糧に変えるなんて思いもよらない。自分の覚悟のなさは棚にあげて、世を恨み、不運を嘆き、他人のせいにするだけ。つまりは進歩がないってこと。それどころか現状維持もできなくて、年々気力も品背も失って、加速度的にだらしなくなっていく』
『一流の人間ってやつは、目指してなれるもんじゃないんですよ』
『一流の奴には、彼にふさわしい難題が次から次と降りかかって、脇目もふらずに立ち向かっているうちに鍛えられて、人間性にも磨きがかかっていく。一流でない奴は、一流になるためのコツとか心構えを見に着ければ自分も一流になれると思っちゃうわけだけど、その時点でもうダメだってことですよ』
『とにかく、君たちは一流だよ」 と。

しかし、同級生のこの言葉を聞きながら、卓也は「それは違う」と感じている。
「不幸に見舞われても、それを乗り越えて強くなる奴が一流だと云う人もいるが、そうじゃない」
『強くならなくても生きていけるなら、それがいいに決まっている。
 だから、どういう奴が一流なのかといえば、
 強くなってしまったことのいたたまれなさを、心底わかっている奴が一流という事だ』と卓也は思う。

明るくムードメーカーな卓也にも屈託があるように、常に前向きな陽介にも、それと気づかぬほどの諦めという名の屈託がある。
『ここ(魴鮄舎)ではないどこかに理想的な世界があるわけではなく、人生にはこれを達成したらokという基準もない、そうではなくて、今ここで一緒に暮らしている仲間のなかでどう振る舞うかが全てなのだ』 と。

他人からは「一流」だと思われながらも、心の深いところに屈託を抱える二人には、二人にだけ共有できる想いがあったのだろう。
いよいよ一人は青森へ、一人は仙台へと旅立つ時に、どこまでも広がる青い空を見上げて、こう思うのだ。
『俺たちは同じ空の下で生きていく。心の底からそう思えるから、札幌を離れることがあまり怖くないのだろう』

敬宮様だけでなく、卓也と陽介も、15の心は、空を仰いで希望を見出している。

命を脅かすようなバッシングのなか、空を見上げて平和と幸せに思いを巡らせておられる少女は、お立場を越えて「一流」だ。
大の大人でも堪えがたいような状況を乗り越えられただけでなく、敬宮様が『強くなってしまったことの居たたまれなさを心底分かって』おられると拝察するのは、自分をバッシングするマスコミの問いかけに、お応えになる表情があまりにも柔和だからだ。

弱冠15歳にして、『どんな不幸でも糧に変えて、さらに成長して』いかれる「一流」のお姫様の空が、青く澄みつづけることを、心から祈っている。

すべての15の春が、希望あるものであることを祈っている。

追記
とかく公務の数を云々される雅子妃殿下が、何年も私的に続けておられるご活動に、児童養護施設との交流があるという。
ご病気になられる前に、涙を浮かべながら施設から出てこられた御姿が撮られたのを最後に、その後の ご活動や交流はすべて私的なものとなったというが、今でも交流は続き、施設の生徒さん方に慕われておられるという。
公務の、活動の質について考えさせられるエピソードだと考えている。

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