ねぇワンコ
同じものでも、真反対から見たら、まったく違う光景が広がってるよね
上高地のバスターミナルを梓川沿いに歩きはじめると、
すぐに目に飛び込んでくる雄大な景色
河童橋の向こうにそびえ立つ穂高連峰を見上げると、
そこに自分が立つことは信じられないのだけど、
上高地から歩きはじめること10時間、
奥穂のてっぺんから上高地を見下ろすと、
あれだけ観光客で溢れている河童橋さえ見分けられないんだよ
さてさて、今月のワンコお告げの「介護人k」(久坂部羊)
これまで、久坂部氏の役に立たないものは消えちまえ!的な作品は、氏独特のアンチテーゼと思って読んできたのだけれど、
超高齢化社会における医療の在り方を問う氏の作品を続けて読むと、存外それは、氏の本心のような気がしてきたんだよ
ねぇワンコ
ワンコが天上界に引っ越しする前の半年ほど、
ワンコは夜鳴きや丑三つチッチするようになり、 家族皆がクタクタになってしまったよね
夜鳴きが始まった当初 御大たちは、
勤めや学校がある私たちの生活リズムを慮って、夜自分たちの寝室でワンコを看てくれていたけれど、
体力的に無理だと言い出すのに、一月とかからなかったね、
それにワンコは、私の腕枕で寝たがったから、最期の日まで私と一緒に寝てくれたよね
ワンコの丑三つチッチに付き合い夜中や明け方に庭に出たおかげで、それは美しい星やお月さんを見ることができ、
そのおかげで、ワンコとの約束の星もできたから、
最後の一月は私自身かなり体調を崩してフラフラになり、傍目にも限界が来ているように見えたようだけど、
それでも私は、ワンコと過ごすことができる有難さをかみしめていたんだよ
今でもさ、これだけは自信をもって言えるんだよ
ワンコの介護(お世話を)疎ましいと思ったことは一瞬たりともないんだと・・・
ちょっとさ、そういう自分を過信しているところがあったのだけど、
それは違ったね 介護ということでは全くないのに・・・
年を重ねなんとなくどことなく調子が悪い時が増え、愚痴っぽくなっている母に、優しくできないね
お盆休みの10連休、久しぶりにゆっくり時間があったのだから、
母にすれば、とりとめのない話や、年のせいで抱える不具合を、ただ聞いてほしいだけだったのかもしれないよ
それを、ただ隣で、うんうん肯き耳を傾けるだけでいいのかもしれないけれど、
最近とくに忙しない時間が流れている自分には、とりとめのない話というのが、それだけで苦痛だったんだよ
だから、本格的な介護の本で、 介護する側の本音や、介護される側の本音を読むのは、しんどいことだったんだよ
だからこそ、ワンコはこのところ立て続けに、この手の本をお告げしてくれるんだよね
しっかり考えろと、 お前だっていつかは年をとるし、なんどき病を得るかもしれないんだぞ、と
でもさ、休み明けから忙しく、週末も持ち帰り仕事に追われている身では、しっかり考える余裕がないんだよ
だから、振り返って考えるときのために、 次回は、双方の立場の言葉を記録することにするね
この岩の塊は、「ジャンダルム」というんだよ
これはフランス語で、前衛という意味があるのだけれど、
「前衛」には、大切なものを守る役割があるそうなんだよ
ねぇワンコ
何が本当に大切なのかを見極めるのは難しいことだけど
大切なものを守る強さが欲しいよ
ワンコ
ワンコに触れることができないことが、どうしようもなく寂しい時があるけれど、
ワンコが毎月お告げしてくれる本のおかげで、ワンコと魂の深いところで会話できているし、
今なら一緒にどこへでも旅することができるから、
楽しいこともあるよね
ワンコブラザーズも一緒に、穂高岳山荘の美味しいけれど少しゆるいカレーライスを食べたね
今年はさ、本当に忙しくて何の訓練もしていなかったので、
自分自身、穂高や槍に登るのは無理なんじゃないかと思っていたんだよ
だから無理をせず、ワンコの声に従って、自然に癒され骨休めの旅にしても良いな、と思っていたのだけど、
ワンコが応援してくれたおかげで、
自分でも意外なほど楽しく楽に、奥穂のてっぺんに立てたんだよ
ワンコのおかげだな
そんな山行の写真は、休み明けの忙しさと、パソコンの調子を伺いながらとなるので、
だいぶと遅れるかもしれないけれど、
まずは、ワンコお告げの本について記しておくね
たいした成果も変化もないにも拘わらずくそ忙しく、図書館に予約し待ち望んでいた本すら読めない日々が続いている。
追い打ちをかけるように私用のパソコンがお釈迦になってしまったので、尚更ブログは書きづらい。
こんな日々なので、一旦ブログも閉じた方が良いのではないかとも思うのだが、時節柄あるいは私の心模様として、気になった言葉だけは記録しておこうと思う。
令和元年 5月四日(河童橋より焼岳を望む)
その一つは、令和初の参議院選挙の前後にも拘わらず、新聞のテレビ欄が一日中芸人会見ばかりをとり挙げているのを見て、「どうでもいいですよ」と呟いた、その視線の先に偶然あった、言葉だ。
折々のことば1532 (鷲田清一)
『世間ではいつもどうでもいいことが一番問題にされる』
キェルケゴールのこの言葉を説明するために、鷲田氏は「死に至る病」(キェルケゴール 斎藤信治・訳)の文章を要約したものを記している。(『 』引用)
『人はつねに自分と他人の差異に執着する。どんな賞賛を得るか、どう重きをなすか、どの地位につくか。そんな世間の「符牒」でもって自らを意識する。が、それは他の人々に自分が「騙りとられる」ということ、つまり自分を見失うこと。世間はこのようにそれに「身売りしている」人たちばかりから成ると、19世紀のデンマークの哲学者は断じた。』
一連の騒動が話題になっている時、この言葉を選んだ鷲田氏は、どのような思いを込めておられたのだろうか。
人を笑わせることを生業とする人は、自らの事を客観的に観ることができなければ、優れた芸はできないと、私は思う。
そういう意味では、あの失地回復の会見は、大いに反省しているように見せかけながら、その実どう見せるか、いやどう見せたいかを周到に計算した、「騙りとられる」事「身売りしている」事に精通したプロの技だったように思う。
だが、鷲田氏がそのような事を考え、この言葉を選んだのではないのではないか。 私には、あの時期のあの狂騒に対し「どうでもいいですよ」と言いたかったように思えてならない。
もう一つは、この夏お勧めのドラマ特集記事のなかで紹介されていた、セリフだ。
「凪のお暇」TBSドラマ 原作・コナリミサト、脚本・大島里美)
『空気って読むものじゃなくて、吸って吐くものだと思うから』
このドラマは見ていないので、どのような場面で飛び出したセリフかは分からないが、どうも空気を読みすぎ心病み過呼吸で倒れてしまった主人公のセリフのようだ。
記事を読んだ時には、「そうそう」と肯いたのだが、最近頭を痛めている諸々を思いだすに、この言葉が流行るのも考えもののような気がしている。
読んで欲しい人は、無駄口を乗せたco²を気持ちよさげに吐き散らし、読までもよい人が、読んだ空気を浄化させようとして、心を痛める。
「おーい、そこの君、君だよ君、頼むから空気読んでくれよ」
・・・・・・ どうでもいいニュースのかげに隠れてはいるが、私的には重要な最新情報に気をつけ、まとわりついた空気を払う旅に出ようと思っている。
令和元年8月2日16時00分 気象庁地震火山部発表