実は、かなり気になっていながらブログに書いていなかった本がある。
「失踪者」(下村敦史)
下村氏には、登山経験がないのかもしれない。
それは、下村氏の「生還者」を読んだときから感じていることだったが、本作「失踪者」を読み、その印象を強くした。
両作品とも、純粋にミステリーとして読めばとても面白いのだが、ミステリーの前に「山岳」の文字をつけるには、少しの寂しさと違和感を感じていたのだ。
山岳ミステリーに分類される本書は、もちろん山でなけでば成立しえない謎が仕掛けられている。
腕のある山屋が、セブンサミッターを目指す登山家の山岳カメラマンに甘んじていたのは何故なのか。
そのカメラマンは何故いつも頂上を目前にしてダウンしてしまうのか、又カメラマンがダウンするせいで登山者のヘッドカメラで撮影した(登頂の)映像しか撮れないにも拘らず、何故この登山家とカメラマンはコンビを解消しないのか。
このような疑問を、山岳カメラマンの山屋としての技量を知る友人は抱いていたのだが、その疑問を問いただす前に、カメラマンはクレバスに落ちて遭難してしまった。
だが、10年後にクレバスに遺体を迎えにゆくと、明らかにその遺体の顔は10年前より老けていた。
クレバスに落ちたカメラマンは、そこから生還し、かなりの時を生きていたのか。
生きていたなら、何故また同じクレバスに戻り、死を選んだのか。
本書をミステリーという点に絞ってあらすじを書けば、山特有の謎に満ちているのは承知しているが、それでも「山岳」モノとして読んだ時に寂しさと違和感を持つのは、その謎の根底にあるのが、極めて世俗的な理由だからだ。
金と名誉欲と保身
山は、そのように汚れたものだっただろうか。
かつて日本には世界記録を打ち立てた錚々たる登山家がいた。 (参照、「みんな山が大好きだ」)
彼らを登場人物とする数多くの本に書かれた(実話にもとづく)エピソードは、キレイごとばかりではない。誰かを蹴落としてでも初登頂に拘る山屋さんもおれば、物量や人海戦術に物をいわせる極地法を嫌い単独行に向かった山屋さんもいたし、他人の技術と命への責任を拒否して単独行にはしった山屋さんもいた。
エベレストに登ったり、冬の三大北壁に単独行で登頂するような登山家は皆さん強烈な個性の持ち主で、一般社会の物差しでは図ることのできないものを持ち合わせているのは本からも伝わってくるが、一つ確かなことは、当時の登山家は山に対して真剣で誠実だったということだ。
その真剣さと誠実さを、井上靖氏は「氷壁」のなかで、こう書いている。(『 』「氷壁」より)
『登山は単なるスポーツではありませんよ』
『スポーツ、プラス、アルファです』
『(アルファとは)フェアプレーの精神の非常に純粋なものとでも言いましょうか。山頂を極めたか極めないかは誰も見ていないんです』
井上氏は、誰が見ていなくとも、登山家というものは山頂を極めたか否かについて偽わらないと信じているし、そう信じさせるだけの誠実さが、当時の山岳会にはあったのだと思うのだ。が、どうも最近の山岳会はそうではないらしい。
「失踪者」には、登頂を偽る事件が記されている。(『 』「失踪者」より)
『登頂を偽るなど赦されることではない。日本人で「嘘」をついた事件は過去にないものの、海外では何度かあった。有名なのは韓国の女性登山家の例だ。女性世界初の14座登頂成功と報道されたが、後に山頂の写真の不整合性とシェルパー山を案内したり登山をサポートしたりするネパールの少数民族ーの証言で嘘が発覚した。おそらく大きなスポンサーの金銭がからんでおり、登頂と失敗では大きな差があったから嘘をついてしまったのだろう。』
同じく登頂を偽る例は、笹本氏の「大岩壁」にも記されている。(『 』「大岩壁」より)
『近年はヒマラヤでも単独登攀の記録は珍しくなくなったが、そこについて回るのが、本当に登ったのかという問題だ。これまでも登頂に成功したという本人の主張が否定された例は少なくない。
なかでも有名なのが、1990年に当時未踏だったローツェ南壁をソロで初登攀したとされるソロべニアの登山家トモ・チェセンのケースで、登頂時に撮影された写真や頂上からの展望についての談話に疑義がもたれ、現在は成功を否定する見解が大勢を占めている。』
ご自身が山に登るという笹本氏の山関連の本は、人の良心の一番純粋なところを信じさせてくれるような温かい言葉に溢れていたが、その笹本氏の山岳本の最新作でさえ、登頂を偽る事例に言及しているだけでなく、幼稚で我儘な登山家の出現を書いているのだ。
登山家は変わってしまったのだろうか、それを知るため登頂捏造で検索していると、最近のニュースを見つけた
<インド人警官夫婦のエベレスト登頂写真はねつ造 ネパール当局> 2016年07月06日 21:21AFP配信より一部引用
世界最高峰エベレスト(Mount Everest)登頂の認定を受けていたインドの警察官夫婦が証拠写真をねつ造したとする疑惑をめぐり、ネパール観光当局は6日、ねつ造が確認されたと述べた。
インドの警察で共に巡査を務めるディネーシュ・ラソッド(Dinesh Rathod)さんとタラケシュワリ・ラソッド(Tarakeshwari Rathod)さん夫婦は、今年5月23日にエベレスト登頂に成功したと記者団に語っていた。しかし、夫婦の山頂での写真はねつ造されたものだと他の登山家らが指摘したことから、疑惑が浮上した。~略~
エベレスト登頂に成功した人の多くは、その体験に基づき講演者や作家として収入を得たりキャリアを築いたりしている。
http://www.afpbb.com/articles/-/3093094
「失踪者」の登頂捏造事例とこのニュースを見て、気が付いたことが一つある。
それは、人間が金と名誉欲の奴隷となり下がったということだ。
かつて未踏峰と呼ばれる場所が世界にまだあった頃は、偉大なる自然に対して人間はもっと謙虚であった。
そこには、『スポーツ、プラス、アルファ』とも云うべき『フェアプレーの精神の非常に純粋なもの』があったのだと思う。
だが、頂の多くが人間の足で踏まれた頃から登山家が対峙するのは、偉大なる自然ではなく、「より若く(早く)・より速く・より多くの登頂を」という数値化されたものとなっていったのではないか。
「大岩壁」には、『合理主義なんて、けっきょく損得勘定の言い換えじゃないですか。それももちろん大事だけど、世界がそれだけになっちゃったら、人間は欲得の使い走りになっちまう』という言葉があるが、その通りになってしまった現実社会があり、それが山にまで持ち込まれたことを図らずも書いたのが、山を知らない人の手による「失踪者」だったのかもしれない。
そう考えると、私が当初「失踪者」に抱いた寂しさと違和感というものは、結局のところ現実社会への違和感・不満なのかもしれない。
もちろんセブンサミッターになるためにもヒマラヤ遠征するにも資金は必要だが、世俗での金銭と名誉を得るため、登頂に拘るとすれば、これほど本末転倒なことはない。
だが、その本末転倒に東奔西走しているのが、登山界にかかわらず現代社会の醜い現実のものなのかもしれない。
金と名誉のためなら、なんとしても頂上に立ちたい、
金と名誉のためなら、捏造してでも頂上に立ったことにしたい。
天辺付近とは、なんと醜いところになってしまったことだろうか、そのような事を考えさせる霜月晦日という日である。
「失踪者」(下村敦史)
下村氏には、登山経験がないのかもしれない。
それは、下村氏の「生還者」を読んだときから感じていることだったが、本作「失踪者」を読み、その印象を強くした。
両作品とも、純粋にミステリーとして読めばとても面白いのだが、ミステリーの前に「山岳」の文字をつけるには、少しの寂しさと違和感を感じていたのだ。
山岳ミステリーに分類される本書は、もちろん山でなけでば成立しえない謎が仕掛けられている。
腕のある山屋が、セブンサミッターを目指す登山家の山岳カメラマンに甘んじていたのは何故なのか。
そのカメラマンは何故いつも頂上を目前にしてダウンしてしまうのか、又カメラマンがダウンするせいで登山者のヘッドカメラで撮影した(登頂の)映像しか撮れないにも拘らず、何故この登山家とカメラマンはコンビを解消しないのか。
このような疑問を、山岳カメラマンの山屋としての技量を知る友人は抱いていたのだが、その疑問を問いただす前に、カメラマンはクレバスに落ちて遭難してしまった。
だが、10年後にクレバスに遺体を迎えにゆくと、明らかにその遺体の顔は10年前より老けていた。
クレバスに落ちたカメラマンは、そこから生還し、かなりの時を生きていたのか。
生きていたなら、何故また同じクレバスに戻り、死を選んだのか。
本書をミステリーという点に絞ってあらすじを書けば、山特有の謎に満ちているのは承知しているが、それでも「山岳」モノとして読んだ時に寂しさと違和感を持つのは、その謎の根底にあるのが、極めて世俗的な理由だからだ。
金と名誉欲と保身
山は、そのように汚れたものだっただろうか。
かつて日本には世界記録を打ち立てた錚々たる登山家がいた。 (参照、「みんな山が大好きだ」)
彼らを登場人物とする数多くの本に書かれた(実話にもとづく)エピソードは、キレイごとばかりではない。誰かを蹴落としてでも初登頂に拘る山屋さんもおれば、物量や人海戦術に物をいわせる極地法を嫌い単独行に向かった山屋さんもいたし、他人の技術と命への責任を拒否して単独行にはしった山屋さんもいた。
エベレストに登ったり、冬の三大北壁に単独行で登頂するような登山家は皆さん強烈な個性の持ち主で、一般社会の物差しでは図ることのできないものを持ち合わせているのは本からも伝わってくるが、一つ確かなことは、当時の登山家は山に対して真剣で誠実だったということだ。
その真剣さと誠実さを、井上靖氏は「氷壁」のなかで、こう書いている。(『 』「氷壁」より)
『登山は単なるスポーツではありませんよ』
『スポーツ、プラス、アルファです』
『(アルファとは)フェアプレーの精神の非常に純粋なものとでも言いましょうか。山頂を極めたか極めないかは誰も見ていないんです』
井上氏は、誰が見ていなくとも、登山家というものは山頂を極めたか否かについて偽わらないと信じているし、そう信じさせるだけの誠実さが、当時の山岳会にはあったのだと思うのだ。が、どうも最近の山岳会はそうではないらしい。
「失踪者」には、登頂を偽る事件が記されている。(『 』「失踪者」より)
『登頂を偽るなど赦されることではない。日本人で「嘘」をついた事件は過去にないものの、海外では何度かあった。有名なのは韓国の女性登山家の例だ。女性世界初の14座登頂成功と報道されたが、後に山頂の写真の不整合性とシェルパー山を案内したり登山をサポートしたりするネパールの少数民族ーの証言で嘘が発覚した。おそらく大きなスポンサーの金銭がからんでおり、登頂と失敗では大きな差があったから嘘をついてしまったのだろう。』
同じく登頂を偽る例は、笹本氏の「大岩壁」にも記されている。(『 』「大岩壁」より)
『近年はヒマラヤでも単独登攀の記録は珍しくなくなったが、そこについて回るのが、本当に登ったのかという問題だ。これまでも登頂に成功したという本人の主張が否定された例は少なくない。
なかでも有名なのが、1990年に当時未踏だったローツェ南壁をソロで初登攀したとされるソロべニアの登山家トモ・チェセンのケースで、登頂時に撮影された写真や頂上からの展望についての談話に疑義がもたれ、現在は成功を否定する見解が大勢を占めている。』
ご自身が山に登るという笹本氏の山関連の本は、人の良心の一番純粋なところを信じさせてくれるような温かい言葉に溢れていたが、その笹本氏の山岳本の最新作でさえ、登頂を偽る事例に言及しているだけでなく、幼稚で我儘な登山家の出現を書いているのだ。
登山家は変わってしまったのだろうか、それを知るため登頂捏造で検索していると、最近のニュースを見つけた
<インド人警官夫婦のエベレスト登頂写真はねつ造 ネパール当局> 2016年07月06日 21:21AFP配信より一部引用
世界最高峰エベレスト(Mount Everest)登頂の認定を受けていたインドの警察官夫婦が証拠写真をねつ造したとする疑惑をめぐり、ネパール観光当局は6日、ねつ造が確認されたと述べた。
インドの警察で共に巡査を務めるディネーシュ・ラソッド(Dinesh Rathod)さんとタラケシュワリ・ラソッド(Tarakeshwari Rathod)さん夫婦は、今年5月23日にエベレスト登頂に成功したと記者団に語っていた。しかし、夫婦の山頂での写真はねつ造されたものだと他の登山家らが指摘したことから、疑惑が浮上した。~略~
エベレスト登頂に成功した人の多くは、その体験に基づき講演者や作家として収入を得たりキャリアを築いたりしている。
http://www.afpbb.com/articles/-/3093094
「失踪者」の登頂捏造事例とこのニュースを見て、気が付いたことが一つある。
それは、人間が金と名誉欲の奴隷となり下がったということだ。
かつて未踏峰と呼ばれる場所が世界にまだあった頃は、偉大なる自然に対して人間はもっと謙虚であった。
そこには、『スポーツ、プラス、アルファ』とも云うべき『フェアプレーの精神の非常に純粋なもの』があったのだと思う。
だが、頂の多くが人間の足で踏まれた頃から登山家が対峙するのは、偉大なる自然ではなく、「より若く(早く)・より速く・より多くの登頂を」という数値化されたものとなっていったのではないか。
「大岩壁」には、『合理主義なんて、けっきょく損得勘定の言い換えじゃないですか。それももちろん大事だけど、世界がそれだけになっちゃったら、人間は欲得の使い走りになっちまう』という言葉があるが、その通りになってしまった現実社会があり、それが山にまで持ち込まれたことを図らずも書いたのが、山を知らない人の手による「失踪者」だったのかもしれない。
そう考えると、私が当初「失踪者」に抱いた寂しさと違和感というものは、結局のところ現実社会への違和感・不満なのかもしれない。
もちろんセブンサミッターになるためにもヒマラヤ遠征するにも資金は必要だが、世俗での金銭と名誉を得るため、登頂に拘るとすれば、これほど本末転倒なことはない。
だが、その本末転倒に東奔西走しているのが、登山界にかかわらず現代社会の醜い現実のものなのかもしれない。
金と名誉のためなら、なんとしても頂上に立ちたい、
金と名誉のためなら、捏造してでも頂上に立ったことにしたい。
天辺付近とは、なんと醜いところになってしまったことだろうか、そのような事を考えさせる霜月晦日という日である。