何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

紛いものが目指す捏造の天辺

2016-11-30 06:44:49 | 
実は、かなり気になっていながらブログに書いていなかった本がある。
「失踪者」(下村敦史)

下村氏には、登山経験がないのかもしれない。
それは、下村氏の「生還者」を読んだときから感じていることだったが、本作「失踪者」を読み、その印象を強くした。
両作品とも、純粋にミステリーとして読めばとても面白いのだが、ミステリーの前に「山岳」の文字をつけるには、少しの寂しさと違和感を感じていたのだ。

山岳ミステリーに分類される本書は、もちろん山でなけでば成立しえない謎が仕掛けられている。
腕のある山屋が、セブンサミッターを目指す登山家の山岳カメラマンに甘んじていたのは何故なのか。
そのカメラマンは何故いつも頂上を目前にしてダウンしてしまうのか、又カメラマンがダウンするせいで登山者のヘッドカメラで撮影した(登頂の)映像しか撮れないにも拘らず、何故この登山家とカメラマンはコンビを解消しないのか。
このような疑問を、山岳カメラマンの山屋としての技量を知る友人は抱いていたのだが、その疑問を問いただす前に、カメラマンはクレバスに落ちて遭難してしまった。
だが、10年後にクレバスに遺体を迎えにゆくと、明らかにその遺体の顔は10年前より老けていた。
クレバスに落ちたカメラマンは、そこから生還し、かなりの時を生きていたのか。
生きていたなら、何故また同じクレバスに戻り、死を選んだのか。

本書をミステリーという点に絞ってあらすじを書けば、山特有の謎に満ちているのは承知しているが、それでも「山岳」モノとして読んだ時に寂しさと違和感を持つのは、その謎の根底にあるのが、極めて世俗的な理由だからだ。

金と名誉欲と保身
山は、そのように汚れたものだっただろうか。

かつて日本には世界記録を打ち立てた錚々たる登山家がいた。 (参照、「みんな山が大好きだ」
彼らを登場人物とする数多くの本に書かれた(実話にもとづく)エピソードは、キレイごとばかりではない。誰かを蹴落としてでも初登頂に拘る山屋さんもおれば、物量や人海戦術に物をいわせる極地法を嫌い単独行に向かった山屋さんもいたし、他人の技術と命への責任を拒否して単独行にはしった山屋さんもいた。
エベレストに登ったり、冬の三大北壁に単独行で登頂するような登山家は皆さん強烈な個性の持ち主で、一般社会の物差しでは図ることのできないものを持ち合わせているのは本からも伝わってくるが、一つ確かなことは、当時の登山家は山に対して真剣で誠実だったということだ。

その真剣さと誠実さを、井上靖氏は「氷壁」のなかで、こう書いている。(『 』「氷壁」より)
『登山は単なるスポーツではありませんよ』
『スポーツ、プラス、アルファです』
『(アルファとは)フェアプレーの精神の非常に純粋なものとでも言いましょうか。山頂を極めたか極めないかは誰も見ていないんです』
井上氏は、誰が見ていなくとも、登山家というものは山頂を極めたか否かについて偽わらないと信じているし、そう信じさせるだけの誠実さが、当時の山岳会にはあったのだと思うのだ。が、どうも最近の山岳会はそうではないらしい。

「失踪者」には、登頂を偽る事件が記されている。(『 』「失踪者」より)
『登頂を偽るなど赦されることではない。日本人で「嘘」をついた事件は過去にないものの、海外では何度かあった。有名なのは韓国の女性登山家の例だ。女性世界初の14座登頂成功と報道されたが、後に山頂の写真の不整合性とシェルパー山を案内したり登山をサポートしたりするネパールの少数民族ーの証言で嘘が発覚した。おそらく大きなスポンサーの金銭がからんでおり、登頂と失敗では大きな差があったから嘘をついてしまったのだろう。』

同じく登頂を偽る例は、笹本氏の「大岩壁」にも記されている。(『 』「大岩壁」より)
『近年はヒマラヤでも単独登攀の記録は珍しくなくなったが、そこについて回るのが、本当に登ったのかという問題だ。これまでも登頂に成功したという本人の主張が否定された例は少なくない。
なかでも有名なのが、1990年に当時未踏だったローツェ南壁をソロで初登攀したとされるソロべニアの登山家トモ・チェセンのケースで、登頂時に撮影された写真や頂上からの展望についての談話に疑義がもたれ、現在は成功を否定する見解が大勢を占めている。』

ご自身が山に登るという笹本氏の山関連の本は、人の良心の一番純粋なところを信じさせてくれるような温かい言葉に溢れていたが、その笹本氏の山岳本の最新作でさえ、登頂を偽る事例に言及しているだけでなく、幼稚で我儘な登山家の出現を書いているのだ。

登山家は変わってしまったのだろうか、それを知るため登頂捏造で検索していると、最近のニュースを見つけた

<インド人警官夫婦のエベレスト登頂写真はねつ造 ネパール当局> 2016年07月06日 21:21AFP配信より一部引用
世界最高峰エベレスト(Mount Everest)登頂の認定を受けていたインドの警察官夫婦が証拠写真をねつ造したとする疑惑をめぐり、ネパール観光当局は6日、ねつ造が確認されたと述べた。
インドの警察で共に巡査を務めるディネーシュ・ラソッド(Dinesh Rathod)さんとタラケシュワリ・ラソッド(Tarakeshwari Rathod)さん夫婦は、今年5月23日にエベレスト登頂に成功したと記者団に語っていた。しかし、夫婦の山頂での写真はねつ造されたものだと他の登山家らが指摘したことから、疑惑が浮上した。~略~
エベレスト登頂に成功した人の多くは、その体験に基づき講演者や作家として収入を得たりキャリアを築いたりしている。
http://www.afpbb.com/articles/-/3093094

「失踪者」の登頂捏造事例とこのニュースを見て、気が付いたことが一つある。
それは、人間が金と名誉欲の奴隷となり下がったということだ。

かつて未踏峰と呼ばれる場所が世界にまだあった頃は、偉大なる自然に対して人間はもっと謙虚であった。
そこには、『スポーツ、プラス、アルファ』とも云うべき『フェアプレーの精神の非常に純粋なもの』があったのだと思う。
だが、頂の多くが人間の足で踏まれた頃から登山家が対峙するのは、偉大なる自然ではなく、「より若く(早く)・より速く・より多くの登頂を」という数値化されたものとなっていったのではないか。
「大岩壁」には、『合理主義なんて、けっきょく損得勘定の言い換えじゃないですか。それももちろん大事だけど、世界がそれだけになっちゃったら、人間は欲得の使い走りになっちまう』という言葉があるが、その通りになってしまった現実社会があり、それが山にまで持ち込まれたことを図らずも書いたのが、山を知らない人の手による「失踪者」だったのかもしれない。

そう考えると、私が当初「失踪者」に抱いた寂しさと違和感というものは、結局のところ現実社会への違和感・不満なのかもしれない。

もちろんセブンサミッターになるためにもヒマラヤ遠征するにも資金は必要だが、世俗での金銭と名誉を得るため、登頂に拘るとすれば、これほど本末転倒なことはない。
だが、その本末転倒に東奔西走しているのが、登山界にかかわらず現代社会の醜い現実のものなのかもしれない。

金と名誉のためなら、なんとしても頂上に立ちたい、
金と名誉のためなら、捏造してでも頂上に立ったことにしたい。

天辺付近とは、なんと醜いところになってしまったことだろうか、そのような事を考えさせる霜月晦日という日である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

落とす作業の一つ カツ丼

2016-11-28 23:13:15 | 
今日11月28日は、今年333日目であり、大晦日まで33日という日らしい。
子供の頃は、「3」は自分のラッキーナンバーの一つだと思っていたが、最近では「3」が重なると、’’さんざん’’という語呂が頭に浮かぶのは年のせいだろうか。
仕事など諸々の絶不調に加えて風邪気味でもあり、今日もどちらかと云えば、散々の方である。

何をやっても上手くいかない時、テンションを上げる工夫をする人も多いが、私は一端 徹底的に沈み込むことにしている。
沈みこんで低空飛行を続けながらも、車の運転中に中島みゆき氏の’’世情~頑固者だけが 悲しい思いをする’’などをがなるようになれば、此方のモノ、復活である。
だが、今は風邪で喉が痛いせいで、がなる元気がないので、沈む本を読むことにした。

「氷の轍」(桜木紫乃)  
桜木氏の本は初めてなので作風は分からないが、本のエピグラフを読む限り二度と浮かび上がれない予感がした。
『 他ト共  北原白秋
 二人デ居タレドマダ淋シ
 一人ニナツタラナホ淋シ
 シンジツ二人ハ遣瀬ナシ
 シンジツ一人ハ堪エガタシ』

本の帯より  (『 』「氷の轍」より引用)
『北海道釧路市の千代ノ浦海岸で男性の他殺死体が発見された。被害者は札幌市の元タクシー乗務員滝川信夫、八十歳。北海道警釧路方面本部刑事第一課の大門真由は、滝川の自宅で北原白秋の詩集『白金之独楽』を発見する。滝川は青森市出身。八戸市の歓楽街で働いた後、札幌に移住した。生涯独身で、身寄りもなかったという。真由は、最後の最後に「ひとり」が苦しく心細くなった滝川の縋ろうとした縁を、わずかな糸から紐解いてゆく。』

サスペンスは悲劇を扱うが、刑法犯的悲劇は一般人にとっては非日常的なので、適度に沈むには’’もってこい’’なのだが、本書は冒頭を読むなり少々反発心を抱いてしまい、読み進めるか否か迷いが生じた。
それは、脳梗塞で倒れた父(64歳)が、左半分が不自由になりリハビリも一進一退を繰り返していることにつき、主人公である娘が『人生における何の罰だったのか』と表現していたことにあったのだが、読み始めると、それを忘れるほど引き込まれてしまうストーリー展開だった。(とは云え、娘の心情が分かっても尚、不用意な言葉だとは思う)

発売から間もない推理モノについて結末を書くのは躊躇われるが、一言で云うならば、過去は過去として置いておくべきもの、といったところだろうか。
本書における殺害動機が、東野圭吾氏の「祈りの幕が下りる時」にも通じることを考えると、人様が忘れてしまいたい過去に善意やお節介で触れたために命を落とすというのは、よくあることのようなので、ミステリーの要素にこれ以上言及することは避け、非常に上手く書かれている心の機微について記しておきたい。

主人公の女性刑事・真由は、両親の「ほんとう」の子ではない。
刑事だった父が結婚後2年目で外につくった女に産ませた子を、同じく警察官だった母が引き取り、夫婦の子として育てたのだ。
真由自身は、体格こそ(血の繋がりある)父に似ているが、物の考え方や性格は(血の繋がりない)母に似ていると感じ、捜査の途中経過や捜査関係者の人物評の相談も、母にする。
そして、その会話が実に良い。
捜査対象者の息子について『どう考えても真っ直ぐ育ちそうもない環境だった』と言う真由の言葉に、継母が『真っ直ぐ育つか育たないかなんて、誰も予測はできないの。困ったことに人は生まれ持った性分を死ぬまで背負って行くらしいのね』とサラリと答えるのにはドキリとさせられるが、それに続く言葉は考えさせられる。
『人の日常は、そういう思惑(私的注、素質か環境か)を超えたところにあると思う、平穏に見える日常は二者択一の連続で成り立っているって、誰かが書いてた。そういう意味では、誰にも平穏なんてないのかもしれないわねえ』
又ある時に、娘が高齢の捜査対象者に会った印象を『生きてきた時間に善し悪しなんてないんじゃないかって思う』と言えば、母は『経てきた時間しか、その人を証明する方法がないのも確かなことだよ』と応える。

本書の事件を解くカギが、「家族や血の繋がりと責任」にあるため、この血の繋がりはないが気脈が通じある継母と娘の在り様や会話は重いのだが、推理小説という処を離れたとしても、鋭い人物観察評は読む人を唸らせる場面は多い。

例えば、あまりに辛い成長期を経験したため鈍感にならざるをえない女がいた。
一見気の毒な境遇のその女を、本書のデカは違う角度から観察する。
『ありがたいと口にしながら何度でも頭を下げられる鈍感さを、生きる力と呼ぶのなら、目の前の彼女は生命力の塊だった。何も放り出さない代わりに、何一つ内側へと取り込まない。自ら傷つきもしないし、他人を傷つける自覚もない。』
『(その鈍感さで)自分が生きることにしか興味がない―』
気の毒な境遇の女性が、ありがたいと弱々しく頭を下げれば、優しい誰かが心を痛める、そこに何らかの責任を感じていれば、何かせずにはおれなくなる。
その結果、『周りはあの鈍感さに、いいだけ振り回され』ることになる。
『自分の手に余るものはみんな、ないことにする人間ってのがいるんだ。肩幅からはみ出したことは、無意識のうちになかったことにできる。姉がいたことも、生まれ育ちについても、面倒と思った段階で放棄だ。知らないっていうよりは、気づくつもりもないんだ』

無意識に『いい人をやっている』人間の本質のところの狡さが鋭く書かれており、思わず唸らされたのだが、この鈍感で無意識にいい人のために犯行に手を染めてしまう人の言葉を後々考えてみると、単に振り回されていたわけではないことに気付き、それだけに一層切ない。
『自分の選択が間違っていなかったという答えを欲すると、人間っていくらでも時間をかけてそのことに取り組めるものだと思うから。』
『いくら便利な世の中になっても、人の感情だけはどうにもなりません。過剰なものを削ることも出来なければ、希薄なものを濃くすることも無理なんです。けど、感情の希薄さに落としどころを見つけるのも、生きる作業のひとつじゃないかと思うんですよ』
これらは、真由と犯人の捜査とは無関係な会話(介護や、生さぬ仲の関係)の一部であるが、それだけに犯人が、『(無意識に)いい人をやってる』鈍感人の「鈍感」を分かったうえで、自ら選択して犯行に及んだことに気付かされるようで、切なさが増す。

心の襞を丁寧に書ききった本書の文学としての素晴らしさは兎も角、止むを得ない犯行というものが、あまりに上手く描かれるのも問題だと思うので、サスペンスとして出色だったのは、真由が容疑者の家を再度訪問する口実にするため、わざとハンカチを落としていく場面としておこう。
『訪問先をもう一度訪ねるために、営業マンが良く使う手だという。
ー 傘とか安いライターとか、見つけた人間が気の毒に思わないようなものをわざと落として来るんです。初回でいい感触がなくても、忘れものをすることで次の訪問のきっかけが掴めるじゃないですか。相手に「こいつ間が抜けてるけど可愛げあるな」と思わせたらこっちのものだんだ。頭を下げながら、相手がちょっと僕のことを仕事のできない馬鹿なヤツとほくそ笑んだところを、見逃さないのがコツなんですよ。』

この、詐欺師の供述を真由が利用する場面が印象に残ったのは、社会科見学で警察本部に行った子供の言葉を思い出したからだ。
「テレビみたいに、本当にカツ丼で釣るんですか」
「・・・・・」
子供の感触では、「アリ」らしい。

33なところから浮かび上がらせてくれた本書に感謝している。

追記
もう一つ、どうしても記しておきたい言葉があった。
『捨てたものを、追ってはいけません。長く生きすぎてもいけない。
 堪えがたい独りでも、ふたりでやるせないよりいは、いいんです。』

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛情ホルモン&「快」感覚

2016-11-25 21:55:05 | ひとりごと
ワンコ 18歳の誕生日 おめでとう

ワンコは犬みしりが強かったから心配していたんだけれど、天上界に友達がたくさんできたのかな?
最近、こっちはすっかり御見限りだなと寂しかったんだよ ワンコ

毎年、誕生日の前にはワンコ実家両親に御挨拶に行ってたろう? ワンコ
今年も御挨拶に伺って、「最近ワンコが遊びに来てくれない」なんて愚痴ったものだから、ワンコ実家母さんに叱られちゃったよ ワンコ
「寂しがってばかりでなく、楽しかったことを笑って思い出してあげなさい。ワンコは家族が喜んでいるのを、一番喜んだでしょう」って。
「分かってはいても、なかなか気持ちが前に向かないのさ」と思っていると、何か視線を感じたんだよ ワンコ

ワンコ実家母さんの後ろから、じっとワンコがこっちを見つめてる! そう感じたんだよ ワンコ

そのわんこは、たくさん並んでいるゲージの一つにいたんだよ
少し小首を傾げて、心配そうな顔をして、私の顔を見るわんこ
話しかけると、耳をピコピコと動かし「聞いてる!」アピールするわんこ
柴の雄としては、かなり珍しい座り方をしているわんこ (我が家で’’よよよ座り’’と名付けていたアレだよ ワンコ)
そのわんこの仕草が、あまりにワンコに似ているので驚いたのだけど、あの時ワンコは、きっとそこにいたんだな
「元気だせ」って言いたかったんだな
だから、自分の誕生日を明るく祝うために天上界から自分の好物を送り届けたんだな ワンコ
いつもなら年末に「お歳暮」として届く例の松葉ガニが、何故か今年は、ワンコ天上界忌とワンコ誕生日の中日に届いたんだよ ワンコの仕業だろう?
ワンコはカニが大好きだけど、消化に良くないという理由で少ししかもらえないって、いつも拗ねていたね ワンコ
だから、毎年「待ちぼーけー待ちぼーけー」っ歌いながら、誰かが落とすのを期待して食卓テーブルの周りを練り歩いていたね
今年はワンコにお裾分けできないのが寂しかったけれど、お裾分けに与ろうと必死なワンコの可愛い仕草をあれこれ思いだし、なんだか久しぶりに楽しい夕食だったよ ワンコ
ワンコ ワンコマジックを使ってくれたんだろう?

何しろ、犬は人間と物理的に感情を共有できるんだからね ワンコ
そんなことは、犬と暮らしている人には判り切ったことだけど、科学的に証明されたんだってさ ワンコ
(参照、<本当のところ、犬は人間の事をどう思っているのか?2016年11月14日配信>ここをクリック!

最新の研究は、他にも嬉しいことも言っていたよ ワンコ
犬は、同族の犬と一緒にいるより 人間の家族と一緒にいる方が幸せだと感じるんだって ワンコ
犬は、たとえ親犬であれ犬とはアイコンタクトをとらないのだけど、人間の家族とならアイコンタクトをとるんだって ワンコ
そんな研究を、米エモリー大学の動物認知学者が最新の脳撮像技術を使って証明してくれたんだって ワンコ
それらは、ハンガリーのエトヴェシュ・ローランド大学が行った犬の神経撮像研究の成果とも一致しているんだって ワンコ
犬は人間家族が大好きで、家族の匂いを嗅ぐと「快」感覚が得られるっていう研究は本当に嬉しかったよ ワンコ
だって、人間が犬から愛情ホルモンを受け取り、心身共に健康になることは既に科学的に証明されているけど(ペットを飼うと健康になるらしい!!)、※その逆は発表されていなかったから、ワンコにばかり負担をかけているんじゃないかと心配していたんだよ ワンコ 
だから、ワンコも私達といて幸せを感じてくれていたのなら、私達は本当に嬉しいよ ワンコ

でも、この研究は少し不備があるんだよ ワンコ
世界でも権威のあるドイツのマックスプランク研究所が、犬がどれくらいの数の言葉を覚えられるかの実験をしたのだけれど、「200語」と発表しているんだよ、それをスゴイって言ってるんだよ
そんなのウソだよね ワンコ
ワンコはもっともっと言葉を理解していたね しっかり理解して、自分で判断して・・・・・
耳をピッピと振って「聞いた」ことだけは知らせながら、必要ないと判断した内容には無視を決め込んでいたね ワンコ

そんなワンコだから、今は私達に笑顔のプレゼントが必要だって判断してくれたんだろう?
だから「楽しいワンコ誕生日にしてやろう、しんみりしない天上界忌にしてやろう」って考えて、カニを届けてくれたんだろう ワンコ

ワンコの優しい気持ちをお腹いっぱいに受け留めて、ワンコのいない淋しい冬をなんとか元気に迎えるよ ワンコ
心配しないでおくれ ワンコ
でも時々、しょっちゅう帰ってきておくれ ワンコ

追記 ※について
私って相変わらずバカだな ワンコ
人と犬との愛情ホルモンについて、去年自分で書いてるよ 「犬と人の愛情物語」
今、読売・毎日の当該記事が消えているから正確なことは分からないけれど、両新聞はどちらかと云えば、人の受ける恩恵に力点を置いていたし、それも心理的効能に注目していたと記憶しているんだよ
まだまだ私の読解力は未熟だな 反省するよ ワンコ
ところで、ワンコ アイコンタクトとか触れ合いで犬も愛情ホルモンがでるのなら・・・ 
私と見つめ合う事とかベタベタ触られる事とか、健康に役立ってたかい? ワンコ
<愛犬との幸せ「愛情ホルモン」が増加する! 2016年08月31日配信> ここをクリック!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プロが辿り着いた答え

2016-11-25 21:54:05 | 
「七転び八起きならぬナナフシ」 「名花が志す名もなき花」より

先日11月22日の福島沖の地震がなければ、少しばかり冗長的で中途半端な話だったという印象だけで終わったのかもしれないが、早朝からラジオが様々な言語で’’フクシマ’’と叫び、テレビ画面が真っ赤な文字で「津波 逃げて」と表示しているのを見たとき、「リーチ先生」(原田マハ)のある場面が蘇ってきたのだ。

それは、関東大震災で東京中が廃墟となったことを、イギリスのリーチ先生やカメちゃんに知らせる柳宗悦の手紙の一文にある。(『 』「リーチ先生」より)
『災害後のこのような非常時に、芸術がなんの役に立つのかと、自分も、芸術家たちも、当初は落ち込んだ。
 しかし、こんなときだからこそ、すさんだ人の心を豊かにする芸術が必要なのではないかと、思い直した』

この思いこそ、災害が頻発する日本で芸術論をを中心とした作家活動をする原田氏の躊躇いではないか、そして答えではないかと、思い至ったのだ。

地震で家屋を壊され、津波に家が流され、土砂に家を潰され、災害で大切な家族や友人を喪うという経験をする人が次々と増えていく、日本。
誰しも、自分に何ができるのか悩むが、芸術に携わる人のそれは、悩みとして深いものがあるのかもしれない。
だが、そのような時こそ、人の心を豊かにするものが必要でありそれが芸術だと、柳宗悦氏の手紙を借りて原田氏が訴えているような気がしたのだ。
そして、それはキュレーターでもある原田氏の叫びではないかと思った時、「ナナフシ」幸田真音氏が力点をおいたことも別にあったのだはないかと思い直したのだ。

幸田氏は、米国系銀行や証券会社で債券ディーラーや大手金融法人を相手に外国債券セールスを手掛けていたという。
ブラックマンデーも日本のバブルもその崩壊も、おそらく第一線で経験された幸田氏が、作家生活に入った後には、山一・拓銀・長銀などの経営破綻が続いたが、日本には、まだ「財務省」と看板を掛け替え財政規律に取り組む体力が残っていたのではないだろうか。この時期の作品には、市場の恐ろしさや厳しい現実が書かれてはいるものの、そこに希望のようなものが示されていたようにも感じられるのだ。
だが、思えばリーマンショック前後から、その作風に変化が生じていたように思われる。
そうであれば、三年前2013年に出版された「天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債」は我々への警告であり、「ナナフシ」は金融マンだった作者の一つの答えなのかもしれない。 (参照、「繋がっている歴史から学ぶ」

「ナナフシ」には、主人公が再就職した外資系金融機関が再度破綻する場面があるが、そこから立ち上がる主人公が「人生と金との向き合い方」について語る場面がある。(『 』「ナナフシ」より)
『金を忌み嫌い、極端に避けていた時期もあった。だが、そうしながらも、金を恃むしかない人間社会がある。嫌悪しながらも、必要性が身に沁みる。金に翻弄されないためには、金の怖さから逃げずに対峙することだ。金さえあればなんでもできると傲慢になることも、金には懲りたと背を向けるのも間違いだろう。金は汚いと批判しても、金がなければ人を救うことも出来ないのだから。
ならば、人生と金が上手く折り合いを見つけられるように、正しい助言をし、手助けをする商売があってもいいはずだ。そんな深尾社長の信念に寄り添い、新生ラインハルトは力強く甦った』

もちろん読者としては、『人生と金が上手く折り合いを見つけられるよう』な正しい助言と手助けの’’内容’’こそを掘り下げて書いて欲しいと思うので、それがない作品には物足りなさも感じてしまう。
だが、日常生活とは切り離された空間で巨万の富を操る人を描いてきた作者が、金融のプロとは何かと試行錯誤した結果に辿り着いた答えが、「金を忌み嫌うでなく拝金主義に走るでなく、人生と金が上手く折り合いをつけられるよう正しいアドバイスすること」だったのではないかと感じたとき、「ナナフシ」への私の印象は大きく変わったのだ。

ともに専門的知識を要する職歴をもつ作家である、原田マハ氏と幸田真音氏。
芸術の素晴らしさ、金の流れを熟知する一方で、その虚しさと人を狂わせうる恐ろしさも知り尽くしている、二人の作家。
この二人が辿り着いた答えが素朴なものであったために、読解力が足りない私は一読では理解できなかったのかもしれないが、今はやはり好きな作家さんだと確信し、次作を心待ちにしている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名花が志す名もなき花

2016-11-24 20:23:35 | 
「七転び八起きならぬナナフシ」より

最近立て続けに、あの作家さんがこの作品か?というものを読み残念に感じていた。
そのような本の二冊目が、「リーチ先生」(原田マハ)だ。

原田マハ氏の作品には波があるようだが、原田氏の専門である美術を扱った作品はみな素晴らしい。
特に、「楽園のキャンバス」「暗幕のゲルニカ」は、推理とサスペンスをベースにしながら、素人にも分かるように専門分野を織り交ぜ芸術論を語り、又それを通じて作者自身の思想を滲ませているあたり、常々見事だと感じていた。それゆえ、原田氏の美術モノは楽しみにしているのだが、本作に限っては少し冗長的というべきか中途半端というべきか、「らしくない」と思いながら読み進めていた。  (参照、「広島で<ゲルニカ>を考える」

私の第一印象はともかく、本作はイギリス人陶芸家のバーナード・リーチとその弟子・沖亀之助の物語である。
1902年、イギリスが世界で初めて同盟を結んだのが日本であるが、その影響もあったのか日英間では芸術分野での交流も活発で、リーチ先生が訪日する契機となったのは、イギリス留学中の高村光太郎と親しくなったからである。この高村光太郎は云わずと知れた高村光雲の長男であるが、光太郎の口利きで高村家に書生として寄宿していたのが、もう一人の主人公・亀之助(カメちゃん)である。

本書は、人と人との出会いが上手く表現されており、何事かをなす歯車が回り出す時とは、このようなものなのかと思わせるほどである。

親の意に沿わぬながらも、親の財により芸術を学んだリーチ先生とは異なり、カメちゃんは母と二人で横浜の大衆食堂に世話になる少年であった。8歳のときには母も亡くし彼自身が食堂で働くのだが、店主に可愛がられ時間を見つけて絵を描くことを許され、また客から覚えた英語で店を切り盛りするようにもなっていた、そこへ訪ねてきたのが洋行を直前にした高村光太郎だった。彼はカメちゃんの英会話力と絵の才能を見い出し、高村家に寄宿するように勧め、住所を記した紙をカメちゃんに手渡し外国へ旅立つ。この光太郎がイギリスでリーチ先生と出会い、やはり訪日した際には是非とも高村家に立ち寄るようにと住所を記した紙をリーチ先生に手渡すのだ。
高村光太郎に手渡された紙を握りしめ、高村家を訪れた二人こそ、本書の主人公であるバーナード・リーチとカメちゃんなのである。

芸術を通じて日本とイギリスの架け橋になりたいと願うリーチ先生は、カメちゃんを通訳に活動範囲を広げていく。
イギリス仕込みのエッチングを日本に導入する一方で、日本の陶芸にのめり込んでいくリーチ先生。
イギリス人のリーチ先生が日本の伝統美を高く評価するのに対して、開国から間もない日本の若者が貪欲に海外の芸術を学ぼうとする、この対照的な姿勢はおもしろく、特に、日本の若者が世界に先駆けドイツの絵画を評価する場面では、大日本帝国憲法の制定過程が影響しているのか等と考えさせられ興味深かったが、ここで海外の芸術を貪欲に学んでいる若者たちこそ白樺派として名を馳せる、柳宗悦・志賀直哉・武者小路実篤らであった。

大正デモクラシーの空気のなか、芸術の垣根を取り払い白樺派や民藝の活動が興っていく過程は読みごたえもあり興味深いのだが、リーチ自叙伝と捉えるには冗長的であり、芸術論と捉えるには中途半端だと感じたことを残念に思っていたため、ブログに載せず読書備忘録に、ひっそりと一文だけを記していたのだ。

それは、本国イギリスに陶芸を広めるために帰国したリーチ先生と、その伴をしたカメちゃんが、陶芸に相応しい’’土’’を見つけることができずに途方に暮れる場面で、呟かれる言葉である。
『それは、どこかにある。そして、どこにでもある。
 だから、きっとみつかるはずだ』  (『 』「リーチ先生」より)
・・・・・それは幸せに似ている・・・・・

これは、イギリスでカメちゃんが親しくなった女性シンシアの言葉であるが、シンシア自身は陶芸の何たるかも知らなければ、陶芸における土の重要さも分かっているわけではない。
だが、この陶芸とも芸術ともほど遠いカフェの女給さんの言葉は、リーチ先生が生涯をかけて追い求めた想いに近いのではないだろうか・・・・・。
特別な人による特別な芸術ではなく、’’名もなき花’’による’’用の美’’を重んじたバーナード・リーチという芸術家を描いた「リーチ先生」を読み、印象に残った言葉が、この一言だけだったことに寂しさも感じていたが、それを覆す出来事があった。
そして、それは「ナナフシ」(幸田真音)に新たな気付きを与えたのだが、そのあたりについては又つづく

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする