何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

番外編 aufheben アへ単打

2017-09-30 22:00:00 | ニュース
「ニーチェに優る野球、に優るワンコ」 「球道恋々に、恋々①」より

「球道恋々」(木内昇)で、久しぶりに旧制高校のバンカラな空気にふれ気を良くしていたのだが、その当時 学生の間で流行っていた言葉が今、混沌とした永田町周辺で持て囃されているというので少々気分を害している。

「アウフヘーベン」
永田町用語の「アウフヘーベン」とは、「いったん立ち止まって、より上の次元にという、日本語で<止揚>という言葉で表現され」るモノを指すらしいが、元々これはヘーゲルが提唱した「aufheben 止揚」(否定によって高い段階に進むが、否定されたものが取り込まれて残っている状態のこと)に由来するものだという。

一見すると似ているが、立ち止まってから次の次元へのメルクマールが示されていない永田町用語のそれでは、行き着く先の次の次元が高い所でありえないのは、何を否定するのか明確にせぬまま立ち止まっているだけの築地豊洲や、否定のための全否定に走る新政党を見ればよく分かる。

とは云え、哲学の用語に過度に反応したのは、このところ読んでいた「球道恋々」に、一高はじめ旧制高校に哲学が流行りだす場面があった事と、そこで見た名前から思い出した本に現在への警鐘が記されていると考えた事にある。

まずは、君の名は?その本は?
「球道恋々に、恋々①」で、何としても三高に勝ちたい野球部と応援団が、堅守で知られる三塁手の守備を妨害するため、竹竿を手にした猛者を三塁側に並べたと書いたが、この妨害にもかかわらず試合で活躍したのが、木下道雄という三高三塁手だ。
この木下君、実は一高野球部が栄華を極めていた時代の校長・木下広次氏の二男で、父の京都帝大学長就任に伴い京都の三高で学んでいたのだが、子供時代に一高野球部員に野球を仕込まれていたことや 後に東京帝国大学で学んだこともあり、一高野球部との縁が強いものがある。
それはともかく、この木下君は本書のなかで「帝大卒業後は宮内省に入り忙しい」と書かれている通り、昭和天皇に皇太子時代からお仕えし、その貴重なお言葉を幾つかの記録に残したという稀有な経験の持ち主である。

「マリコ」(柳田邦男)の父であり 「太陽にかける橋」(グエン テラサキ)の夫でもある、外交官・寺崎英成氏の「昭和天皇独白録」は有名だが、その貴重な資料を提示したのが木下氏であり、ご自身も「側近日誌」という著書を著されている。(「球道恋々」から離れ、学生時代以降の木下道雄氏については木下氏と記す)

その「側近日誌」に記録されている昭和天皇のお考えが、今も続く日本人の不甲斐なさへの警鐘のように拝察されてならない。

「側近日誌」に収録 聖談拝聴録原稿(木下のメモ)より引用
~引用開始~
以上緒論及び本文に於て戦争の原因とその防止の不可能なりし所以を縷々述べて来たが、結論として概括的に私の感想を話そう。
先ず我が国の国民性に付いて思うことは付和雷同性が多いことで、これは大いに改善の要があると考える。近頃のストライキの話を聞いてもそうであるが、共産党の者が、その反対者を目して反動主義者とか非民主主義者とか叫ぶと、すぐこれに付和雷同する。戦前及び戦時中のことを回顧して見ても、今の首相の吉田などのように自分の主張を固守した人もいるが、多くは平和論及至親英米論を肝に持っておっても、これを口にすると軍部から不忠呼ばわりされたり非愛国者の扱いをされるものだから、沈黙を守るか又は自分の主義を捨てて軍部の主戦論に付和雷同して戦争論をふり廻す。
かように国民性に落ち着きのないことが、戦争防止の困難であった一つの原因であった。将来この欠点を矯正するには、どうしても国民の教養を高め、又宗教心を培って確固不動の信念を養う必要があると思う。又このことが日本民族の向上ともなり、世界に向かって人種平等を要求する大きな力ともなることと思う。
次に軍備のことであるが、抑々軍備は平和確保の為の一手段である。しかるに従来の有様を見ると、平和の為に軍備をするといいながら、軍備が充実すると、その軍備の力を使用したがる癖がとかく軍人の中にあった。
このことは後編に譲ることにする。
最後に為政者に付ての感想であるが、以上述べたような国民と軍人とを指導すべき人物として、この困難に当った近衛、東條、鈴木、米内に付て一言すると、近衛は思想は平和的で、ひたすらそれに向かって邁進せんとしたことは事実だが、彼は自分に対する世間の人気ということを余りに考え過ぎた為、事に当って断行の勇気を欠いたことは、遂に国家を戦争という暗礁に乗り上げさして終い、次に立った東條の最後の努力をもってしてもこれを離礁せしめることが出来なかった。
これに引きかえ鈴木首相と米内海相とは、政治的技術に於ては近衛に及ばなかったけれども、大勇があったのでよく終戦の大事を為し遂げたのである。
以上は他人に関する感想であるが、私自身としては、不可抗力とはいいながらこの戦争によって世界人類の幸福を害い、又我が国民に物心両方面に多大な損失を与えて国の発展を阻止し、又、股肱と頼んだ多くの忠勇なる軍人を戦場に失い、かつ多年教育整備した軍を武装解除に至らしめたのみならず、国家の為粉骨努力した多くの忠誠の人々を戦争犯罪人たらしめたことに付ては、我が祖先に対して誠に申し訳なく、衷心陳謝するところである。
しかし負け惜しみと思うかも知れぬが、敗戦の結果とはいえ我が憲法の改正も出来た今日に於て考えて見れば、我が国民にとっては勝利の結果極端なる軍国主義となるよりも却って幸福ではないだろうか。
歴史は繰り返すということもあるから、以上事共を述べておく次第で、これが新日本建設の一里塚とならば幸いである。
~引用終了~


昭和天皇が、戦争の原因について ご自身と、文官・武官と国民性それぞれにつき言及されている内容は、終戦から70年以上たった今も改められることなく続いている。

昭和天皇は、戦争の最大の原因として『国民の付和雷同性』をあげておられ、『それを改善するためには国民の教養を高め、又宗教心を培って確固不動の信念を養う必要がある』と改善策を提示されたうえで、『歴史は繰り返すということもあるから、以上事共を述べておく』と警告の言葉でお言葉を終えておられる。

現在の政治情勢を見ていると、この御言葉を今一度、我々は噛みしめなければならないのではないかと思われる。

付和雷同を煽る文句に、旧制高校時代に流行った哲学の用語が乱用されていることから、一高に哲学が流行りはじめる頃を描いた「球道恋々」の登場人物の御著書を思い出したのだが、そこに記されている警告が重みと不気味さを増している現在が、恐ろしい。

つづく

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「球道恋々」に、恋々 ①

2017-09-29 23:00:00 | 
「ニーチェに優る野球、に優るワンコ」で、このところの鬱々とした気持ちを晴らしてくれる本について書きかけていたのだが、お彼岸や解散の話題に触れたため延び延びになってしまっていた。

「球道恋々」(木内昇)
このタイトルからして心躍るものがあるが、読み始めて直ぐその世界に浸りきってしまったのは、本書が懐かしい空気に溢れていたからだと思う。(因みに、私が一高生であったことは一度もない、笑)


現在の六大学野球からすれば想像できないことだが、かつて東大(の教養学部の前進である一高)が日本の学生野球のリーダーだったことがある。
ベースボールに「野球」なる訳語を与えたのも一高野球部員なら、英語の解説書と首っ引きでピッチャープレートの正しい使用方法を確立させたのも一高投手だったというから、一高なくしては現在の「野球」を語ることは出来ないのだが、本書の世界にまず引き込まれた理由は、他ではあまり使用しない(懐かしい)言葉が物語のしょっぱなから ふんだんに散りばめられていたからかもしれない。

「がなる」「睨め付ける」

旧制中学の伝統を色濃く残す応援団に所属していたせいか、私にとって校歌といえば、’’がなる’’ものだった。
さすがに平成の時代に「睨め付ける」ということはなく、いささかお上品に過ぎるのではないかと思えるほど、我々の応援はフェアープレー精神に則ったものだったが、やはりアレはもう少し遣りすぎても良かったのではないかと思わせてくれる場面が本書には数々ある。

ベルト代わりの兵児帯で洋袴を腰に止め、足元は地下足袋という出で立ちで、二言目には「詰め腹を切る」と脅し合う、もとい切磋琢磨する一高野球部は、『武士道野球に悖る』プレーを何よりも嫌う。

Wの文字も鮮やかなユニフォームの学校が、異人(米国人)をコーチに召喚したりグラブや打棒まで米国で仕入れるだけでも許しがたいのに、そのうえブント(バント)なる卑劣な技まで用いるとは以ての外だと、一高(元)主将は、ちゃぶ台を拳で叩いて、こう言い放つ。
『ブントは科学的技術であると、奴らは大威張りで言っとります。しかし僕は科学なんぞ認めてなるものか、野球は精神だと、こう思っとるんです。狡猾な手で塁に出て、何が野球だ。そんな遣り方で勝って、果たして武士道と言えるのか。異人の真似をするなんざ、クジャクの真似をする烏だ!』

また一高黄金期を築いた先輩陣は、投手の資質に厳しい注文をつける。
『(投手は)先ず熱心にして運動活発、敏捷。小事に驚かず大敵に怖ず急事に遭うも平然沈黙にして決断力に富めるの士にして強肩なる者最も適当なりとする』
そして、新チームの投手には、水戸魂(水戸学)でもって藤田東湖とともに藩士を率いた水戸烈士の子孫が相応しいと、断定する。

かくも激しい武士道野球精神だが、伝統の三高戦ともなれば、野球部だけでなく応援団も常軌を逸し、かるく ’’一線を超えてしまう’’(当世流行りのアレに鑑て、ここは笑うところ)

応援団は、三高投手が有能だと知れば、投手の神経を攪乱するため、一球投げる段 小石を山ほど仕込んだ石油缶(通称、雑音発生器)を打ち鳴らす戦術をとる。
また、三高三塁手が堅守だと知れば、三塁側に六尺の竹竿を手にした柔道部員を配置し、三塁側に打球が飛んだ時に竹竿で地面を打って土埃を立てる戦術をとる。

これには、さすがに一高野球部OBでもあるコーチ銀平(本書の主人公)も「一高野球部の武士道精神はどうした」と苦言を呈するのだが、誇り高きはずの元野球部員は、恥と無念に脈打つ血道をこめかみに浮かばせ、地面に向かい、こう呟く。
『この試合は勝たねばあとがないですから。どんな手を使っても一高の面目は保たねばなりません。巌流島の宮本武蔵の心境と思し召し、お見逃し下さい』

この無茶苦茶を荒唐無稽な屁理屈で押し通そうとする様を、鼻持ちならないエリート臭だと嫌う向きもあるだろうが、バンカラな雰囲気を残した応援団に所属していたせいか、将又バンカラな旧制高校を描いた「北の海(四高)」(井上靖)「どくとるマンボウ青春記(旧制松本高校)」(北杜夫)が好きなせいか、本書の全編に流れる無茶苦茶な熱気が、私は好きだ。
そんな熱気に久々にふれ、このところの憂鬱が少し吹き飛ばされたような気がしている。

とは云え、ただ熱気に当てられ、憂鬱の虫が雲散霧消したというわけではない。
本書の主人公の生き方や考え方が、悩みの一つを考えるヒントになったという事が、復活の糸口となってくれたのだ。
そのあたりについては、又つづく

備忘録
本書の登場人物は、主人公以外はほぼ実在の人物だという。
すべての登場人物が主人公たり得るほど魅力的だし、様々に活躍された方も多いようだが、その中でも、竹竿による土埃にも負けず三塁を堅守した三高三塁手・木下道雄氏が残された本は、解散やら半島情勢やらが怪しい現在再読せねばならないと思っている。

追記
一高の寮歌といえば「嗚呼玉杯に花うけて」が有名だが、先にあげている「としはや己に」は、対三高戦 雪辱を期して初めて征西する一高野球部を鼓舞激励するために生まれた遠征歌(応援歌)だ。
『往け往け友よ、いざ往きて、あげて帰れや鬨を』などという歌詞を聞けば、血沸き肉躍る心地ぞする。
おかげで少し、やる気と元気をもらえた気がしている。



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ワンコの山&草木 道 恋々

2017-09-26 23:55:55 | ひとりごと
「たくさんの愛称を持つワン 「ワンコ道恋々」  「ニーチェに優る野球、に優るワンコ」より

今日で お彼岸も終わり、ワンコはまたお空組へ遊びにいってしまったかな?
その前に、今月のお告げの本について、もう少しだけ書いておくね ワンコ

「ニーチェに優る野球、に優るワンコ」で神様トンボのことを書いたろう ワンコ
ワンコが神様トンボになって逢いにきてくれた場所で、ワンコを撮った写真があったはずだと探していたら、
見つかったよ ワンコ
それは、今と同じ秋の写真なのだけど、今年も同じ場所に同じ秋明菊が咲いているんだよ
 

ワンコに触れることが出来なくなって、一年と8か月
ワンコのことを語らない日は一日としてないし、涼しくなると特にワンコの温もりが恋しくてならないけれど、
季節がめぐっても、
庭のあちこちに、ワンコの気配を感じる喜びはあるんだよ
それと同じ喜びを感じさせてくれる写真を見つけたよ
この写真は、物思いにふける秋のワンコ(上・左写真)と同じ年の、ワンコのお山だよ
今年は、ワンコのお山に一緒に立ったけれど、
これは8年前に蝶が岳山頂から、ワンコを想いながらワンコのお山を拝した写真なんだよ
三つのデコボコお山の、左端のお山がワンコのお山だよ (右端もワンコのお山の一つではあるんだけどね)
私の山歩きのコンセプトは、ワンコのお山に登る&ワンコのお山が拝める山に登る!なんだよ
このお蔭で、お山にいる時はいつも、ワンコを感じることができるのも、
本当に有難いことだと思っているんだよ ワンコ

こうしてね、季節が巡っても山や庭の草木にワンコを感じていると、
’’廻る’’ということを強く感じるのだけど、それをワンコお告げのもう一冊にも感じたんだよ

最初はね、「三つの名を持つ犬」(近藤史恵)と同様に、ワンコの教えが分からなかった本なのだけど、
’’廻る’’というキーワードを頭にいれて読むと、熱いものがこみあげてきたよ ワンコ
「愛犬マックス」(関口哲平)
本書はね、我が子同様に大切にしている愛犬が連れ去られ金銭の要求がされる という話なのだけど、
犬は、どれほど大切でかけがえない存在でも、誘拐罪ではなく窃盗罪の客体にしかならないという、
噴飯ものの説明から、お話が始まるんだよ
ミステリーとしては、そこそこ面白いものの、
ワンコがこの本で一体何を伝えたいのか分からないまま読み終えてしまったのだけど、
’’廻る’’というキーワードを念頭におくと、
生まれたばかりの仔犬のマックスが徐々に成長する描写の一つ一つに、ワンコが思い出され、
ワンコのおチビの頃を、も一度体験できるようにも感じたし、
「来年戌年には、いいことがあるよ」というワンコのお告げを信じることができる気もしたんだよ

なんて言うかさ ワンコ
今月のお告げの本は直接的な’’教え’’をもたらしてくれたわけではないけれど、
巡り巡って色々考える切っ掛けをくれたし、
そのお蔭で、お山にも庭の草木にもワンコを感じていると、
命の循環とか輪廻とか再生とか、普遍の愛なんてことにも思いが及び、
全てが巡り廻って、いつでも「会える」、また「会える」と信じることができたんだよ
ありがとうね ワンコ

お彼岸がすみ、天上界では お空組運動会が行われるのかな? また楽しい報告を頼むよ ワンコ 
それから読書の秋だからね、来月のお告げの本も探しておいておくれよ ワンコ
またね ワンコ

ワンコも大慌てした、
’’法事と台風と客人’’という思い出がある花が今年も咲いたよ

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気楽な稼業ときたもんだ

2017-09-25 23:57:55 | ニュース
このところ「ワンコと哲学と野球」について書いていたが、近々 戦後の憲政史上初となる解散が行われると発表されたので、今日は これを優先させようと思う。

とは云うものの、今更69条や7条について非限定説や実質的解散権を云々しようとは思わない。
今日のこれに憲法上の疑義が全くないか?と問われれば、「あるのだろう」と答えるが、もう何年も、いと高き処から そこそこ高き処まで皆々様が、憲法の根幹をなす精神を捻じ曲げ踏みにじっているのを見せつけられてきた私としては、もはやこれくらいの事では驚きもしない。

よって今日思い出した本も、解散そのものに言及するものではなく、その周辺事項の一番重要なこと、とでも云ったところか。
「進次郎メソッド~情熱を感染させる小泉流’’魅せる’’対話術」(向谷匡史)

話すより聞き役にまわる方が個人的には好きなのだが、「テキトーに場を取り繕っておいてくれ」と言われれば、テキトーに笑いを取りながら場を取り繕ってしまえる自分を、時に「巧言令色鮮なし仁」という言葉でもって戒めることがある。
こんな私なので、この手の本はあまり読む必要はないのだが、日本の未来を憂う楡周平氏が(どうやら)大いに期待しているらしい若き青年局長の’’舌先三寸’’ もとい、対話術のメソッドだというので、読んでいた、その本を今日、思い出している。「ミッション 崩壊」

巧みな話術で相手をコロリと信用させるには、「うどん屋の釜」だと見破られてはいけない、これが何よりも重要なのだそうだ。

『「やれ」と命令されたら、相手はカチンとくる。
 「すべきだ」と断定されたら、反発する。
 「黙って俺についてこい!」と言われたら、腹のなかでアッカンベーをする。
 これが人間だ。』(『 』「進次郎メソッド」より引用)

だから、若き青年局長は、情熱で引っ張ろうとするのではなく自分の情熱を聞き手に感染させようとするのだそうだ。
情熱というのは、対話術によっては、共感にもなれば反発にもなりうることを青年局長は熟知しているので、彼は「共に考えよう」「共に乗り越えよう」というスタンスに立ち、仲間意識を喚起し「共に手を携えて頑張ろう」と誘いかけるのだと、いう。

で、ここからが実践編

どんな いい話?も、耳を貸してもらわなければ始まらないので、まずは聞いてもらうための戦術

① 相手の心を開くため、第一声は、相手に関するポジティブな話題から入るべし、なのだそうだ
地方遊説の時その地方の方言で第一声を放ち、聴衆を喜ばせるのは青年局長の’’お約束’’になっている、そうだ。
実例その1(『 』引用)
熊本で、『こぎゃー集まってもろうて、だんだん(ありがとう)なぁ』と言ったかと思えば、
長崎で、『こげん、いっぺぇ来てくれて、ありがとう!』と言う。
夏の愛媛で、『こんなに暑いのに、ようけ集まってもろうて、本当にうれしいけん』と言えば、
冬の青森で、『こっだら寒いなか、よくおいでやんした』と言う。

こうして聴衆を喜ばせておいて、ちょっと真面目な感じで反省の弁など言ってみる。

② 自分の非を認めてからの発言は相手に刺さる、のだそうだ
実例その2(『 』引用)
『私(与党青年局長)が何故そこまで自民党、自民党というのか。良くも悪くも、この日本の戦後の歴史というのは自民党の歴史なんです。いい時代もありました。反省しないといけないことも一杯ある。確かに民主党はこの三年間で多くの課題を膨れ上がらせてしまったかもしれないけれど、問題の根本をたどっていって、多くの課題を作った政党はどこなんだといえば、それはやっぱり自民党なのです。』

実例その3
『震災の傷痕は癒えず、仕事は元通りにならず、故郷を追われた方も多くいる。原発事故が発生したとき、自民党は与党ではなかったとはいえ、原発政策を進めてきた政党として、まずは心からお詫びを申し上げます。』

どうですか。
当たり前のことを当たり前に言っているだけにもかかわらず、正直でいい人に思えてくるじゃないですか?
結局 どのような政策を訴えたいのかは分からないまま、政党名と いい感じが聴衆に印象付けられるというスンバラシイ対話術。
これで一丁上がりでやんす。

こう書いたからといえ、青年局長を軽んじているつもりも揶揄しているつもりも、毛頭ない。
こう書いたからといえ、青年局長が属する政党を云々(でんでんではない)しているつもりも、毛頭ない。

ただ、「国民と政治家のレベルは同じである」と自戒の念を込めて書いている、それだけの事である。

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ニーチェ に優る野球、 に優るワンコ

2017-09-23 12:00:00 | ひとりごと
「たくさんの愛称を持つワン 「ワンコ道恋々」より

ワンコの日なのにさ、お彼岸でもあるのにさ、
愚痴めいたものばかり聞かせてしまって ごめんね ワンコ
でもワンコが別便で送ってくれた本のおかげで復活しつつあるんだよ
そう信じることができるのは、忍法変身の術をつかったワンコのおかげだよ

今年はアッという間に秋になったから、大急ぎで夏野菜の後始末と秋冬準備をしていたのだけど、
その時、私の指にとまったトンボが、ほんとうに長い間 私の顔を見つめてくれたんだよ
それは、神様トンボと呼ばれるものなんだよ

9月はじめに高齢犬ブログで、その存在を知って以来、
ワンコもトンボになって会いに来てほしいと願っていたのだけど、
ちょうど彼岸の入りの日・ワンコの日の翌日、
神様トンボになって、会いに来てくれたんだね ワンコ
だから、あの本もワンコが別便で届けてくれたのだと信じることができるんだよ ワンコ

亡くなった人の魂が姿をかえたものと云わる「神様トンボ」について検索していると、
蝶も同様の言い伝えがあるのだと知って驚いたよ ワンコ
やっぱりワンコは、今年の夏も一緒にお山に登っていたんだね
<指の先には、憧れの常念岳>
 
涸沢まで もうひと踏ん張りというところに、
雪渓が融け出した水が川となり流れ始める場所があって、いつもそこで最後の休憩をとるのだけど、
今年もそこで休憩していると、私のまわりを ずっと飛んでいる蝶がいたんだよ
私は蝶が苦手なんだけど、
その蝶は、あまりに私に寄り添い飛んでくれるので、指を差し出すと、
長い間、じっと私の指にとまっていたんだよ
あの蝶は、忍法変身の術をつかって応援に来てくれたワンコだったんだね 
そんなことを思いながら、別便の本を読んだら、迷いに対する答えのようなものを見つけたんだよ

「球道恋々」(木内昇)

現在の六大学野球からは想像もつかないけれど、
本書は 東大(一高)が日本の野球のリーダーだった頃の野球狂の話なんだよ ワンコ
本書はまだ半分ほどしか読んでいないから、全体についての感想は書けないけれど、
「三つの名を持つ犬」(近藤史恵)冒頭で感じた戸惑いへの答えのようなものは見つけたんだよ

このところ、あまり望まない方向で、責任やら立場やらが重くなりそうな事に憂鬱になっていたせいもあり、「三つの名を持つ犬」のしょっぱなにある言葉に拘っていた。
『人には身の丈にあった幸福というものがあって、それ以上を望むものではないのだと』
『でも、その幸福が身の丈にあっているかどうかなんて、どうやって判断するのだろう。
 洋服の袖の長さをあわせるのとは違うのだ』
『結局、それが分かるのは、望んだ幸福が身の丈を越えていて、手痛いしっぺ返しを喰らってからなのだ。』

その憂鬱が、「球道恋々」を読むことで少し晴れたというと、天下の一高 野球部とはいえ二十歳前の若者の言動に救われたようで小っ恥ずかしい。
だが、遊撃手(ショート)に憧れながら左野手(レフト)に指名された経験がある者と、やはり遊撃手に憧れながら二塁手を命じられた経験がある者の会話が、チビッ子野球で一番ショートだった私の心の琴線に触れたのは確かだ。

後輩の守備位置を検討する元二塁手は云う。
『己の欲するところと、自分にふさわしい場所とは、異なるものです。守備を決めるには技量は無論、資質も重要であります。強烈な打球が飛んでくる三塁に気弱な人間を置くことはできん。投手は屈強な精神を持つ者、捕手は冷静沈着な者と、それぞれの性分に合った役割を与える必要がある。しかし、たいがいの者は己の性分を把握しておりません。ことに高校生は自分に対して手前勝手で都合のいい解釈をしとるものです。ですから、第三者の客観的な目で選んだ方が正しい場所に収まるということもあるやに思います』

これを聞きながら、万年控えに甘んじた元左野手(現コーチ)は、親父の言葉を思い出す。
『人は、求めに応じて働くのが本当だ。てめぇのように何がやりてぇとほざいているうちは、世間の立派な一員にゃあなれねぇのよ。相応の人物には必ず他所から役割が与えられる。与えられたその役割を、四の五の言わずにまずこなせ。そこで使いものになってはじめて、己の道ってもんが開けてくるんだ。ええか、世の中に出たらつまらん毛嫌いをするなよ。与えられる役割があるだけ果報と思え。』

確かにね ワンコ
これは、自分に都合のいい解釈をしがちな学生に向けられたもので、
いいかげん分別ってものを弁えて然るべき年の自分などが感じ入る言葉ではないはずなんだよ
でも、懐かしいバンカラな空気と野球の喩は、私の胸にストンと収まったんだよ ワンコ

これから「球道恋々」の話がどのように進むのかは楽しみだけど、
このところの鬱々とした気持ちが少し晴れたこと、
鬱々とした気分に、考えるテーマを与えてくれたワンコお告げの「三つの名を持つ犬」に感謝しつつ、
又つづく、とするよワンコ

追記
今回の題名は「球道恋々」のある場面から思いついた。
明治も半ばをすぎ野球熱が一巡した頃、一高では哲学が流行りニーチェが有難がられるようになる。
その理由を知るため、ニーチェの原書を読んだ野球部コーチは、『ここに書かれているようなことは、野球をすれば自ずと学べるじゃないか』と独りごちる。
果たして、その視線の先には<人は自分に己の試練を与えねばならぬ>という一文が、ちんまり座っている。
この場面が気に入ったため、今回の題名に使わせていただいた。

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