何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

皇太子様が登られていない山の神が皇太子御一家をお守りしている

2018-08-28 23:51:15 | 自然
「命からがら、間一髪」 「ぜんぶ、山①」 「ぜんぶ、ワンコ 山 ②」より
 
今年も穂高神社奥宮には、皇太子御一家のお写真が飾られていた。

平成30年 8月14日 穂高神社奥宮

  



二年前の2016年8月11日、皇太子御一家は上高地で行われた「山の日」制定記念式典に御臨席された後、(明神池と報道は言うが、正確には)穂高神社奥宮の明神池を訪問された。(上記の写真は、その折のお写真だ)
四方山祭・四方山話 その壱
「山の日制定記念式典」の会場には、当然のことながら招待者しか入れないので、会場のそばに設置されたテレビ中継を見守る人も多くいた。テレビ前には多くの人だかりができており、じっくり見......


あの日、偶然にも上高地にいた私達は当初の予定(穂高登山)を変更し、皇太子御一家を奉迎場所で待っていた。
どれぐらい待つことになるかは、規制線を張っている警察関係者にも正確なところは分からないという。
勿論それは、警備上の秘密保持もあるのだろうが、皇太子御一家が式典後に河童橋を御覧になるか否かが決定していないからだという。だが、そんな事など気にすることなく、この式典のご臨席が敬宮様の初めての地方公務だということもあり、居合わせた人々は皆期待に胸を膨らませて待っていた。
そこへ、皇太子御一家は河童橋を御覧にならず、式典後すぐに、白樺荘の横の穂高連峰が望めるポイント(奉迎場所)へ来られる、と連絡が入った。
規制線の前に立つ警備関係者は、「観光シーズン真っ盛りのため、皇太子ご夫妻が、観光客が河童橋を楽しむことを優先して下さり、御自分達はご遠慮されたそうだ」と教えて下さった。

この話で思い出したことがある。

たしか常念小屋に泊まられた折の皇太子様のお言葉だ。(山を歩いていると、山小屋関係者や山の案内人や登山者から様々な話を聞く機会があるのだが、これも、そんなお話の一つだ)
「日本百名山」(深田久弥)を愛読されている皇太子様は、そこに記されている「常念を見よ」という言葉を心に刻みながら常念岳に登られたそうだが、皇太子様が常念岳に登られた日は天気もよく、穂高連峰と槍ヶ岳がそれは美しく見えたそうだ。
いつまでも飽くことなく槍穂を御覧になっている皇太子様に、山の案内人が「いつか槍にも穂高にも登りましょう」と声を掛けると、思いがけないお返事が返ってきたという。

皇太子様は、「槍ヶ岳や穂高は、人ひとりが通るのが精一杯の登山道や岩場がある。自分がそこを歩くと、警備上の問題もあり、どうしても一般の方を足止めにしての一方通行のような形態をとることになるので、一般登山者の方に迷惑をかけることになる。だから、自分は槍にも穂高にも登ることはない」という趣旨のことを仰ったというのだ。

事実、皇太子様はこの常念岳登山の折も、常念岳から蝶が岳へ縦走されているが、蝶が岳から上高地へは下山されず、三股へ下山されている。
これも、観光客が多い上高地へ大勢の伴を引き連れて下山することをご遠慮されたからだと云われている。

日本山学会の会員であり、日本百名山の半数を登られている皇太子様は健脚で、地味ではあってもかなり険しい山に多く登られている。
そんな皇太子様であれば、槍ケ岳も穂高連峰も登ることは容易だと拝察されるが、登山者の安全を優先し、飽かず眺めるほどに憧れておられる槍ヶ岳にも穂高連峰にも登られてはいないのだ。

だが、そんな皇太子様を、穂高の神様はお守りしていると、私は信じている。
奥穂高のてっぺんに鎮座まします穂高神社嶺宮には、安曇野と穂高を守る穂高見神がいらっしゃるが、その奥宮には二年前の山の日の皇太子御一家のお写真が、大切そうに今も飾られているからだ。

四方山祭・四方山話 その弐
「四方山祭・四方山話 その壱」より「山の日制定記念式典」に御臨席される皇太子ご夫妻に敬宮様が同行された今回のご訪問であったが、敬宮様が地方公務にご出席されるのは初めてのことだと......


あの日、多くの観光客や登山者が喜びのあまり皇太子御一家へカメラを向けた。
それぞれが思い出深い一枚をカメラに収めて今も大切にしていることと思うが、そんな中でも最高の一枚、敬宮様がとびきりの笑顔を向けて下さっているのが、嘉門次小屋の方が撮られた一枚だ。
明神池の側にある嘉門次小屋は、山の宮様と云われた秩父宮殿下と御縁がある。

北アルプスの神々と山の宮様に守られておられる皇太子御一家の、新たな時代への準備となる平成最後の夏であったと思う。

木炭車でしか成し得ぬこと

2018-08-26 19:33:45 | 
子どもの頃に父の本棚にあったのを読んで以来すっかり忘れていた その本を再読したのは、天下の大蔵省の看板を掛け替えさせる事態にまで発展した、あの破廉恥な事件があった頃だったが、それは、あの本の最終章が、「冬また冬」だったことを思い出したからだ。
その本を再度思い出させる記事を読み、ごそごそ自分の本棚をあさり、懐かしい一冊を取りだした。

<享年58歳、命削り働く…元財務官僚の「遺言」> 読売新聞経済部 小林泰明 2018年08月23日 07時00分
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180822-OYT8T50036.html

明確に転載禁止と記載されている記事ゆえに引用すら憚られるので、半世紀以上前の通産省を描いた本に、現在にも通ずるところがあるのだと思わせた点について、記しておきたい。

「官僚たちの夏」(城山三郎)

本の裏表紙の説明より
『「国家の経済政策は政財界の思惑や利害に左右されてはならない」という固い信念で通産行政を強引、着実に押し進め、時間への最短コースを疾走する’’ミスター・通産省’’ 風越信吾。高度成長政策が開始された60年代初めの時期に視点をすえ、通産省という巨大複雑な官僚機構の内部における、政策をめぐる政府・財界との闘いと、人事をめぐる感猟官の熱い闘いをダイナミックに捉える。』


本書は何度もドラマ化されているので、今更あらすじの説明も不要だと思うし、政財界や官僚機構の生々しい部分をノンフィクションさながらに抉りだしている作風のせいか、心を打つ名言の類は見当たらないのだが、本書が描いた時代から半世紀が過ぎ、本書と記事では通産省と財務省と舞台を異にしていても、政治の風に揺れる官の姿や、政財官が国益をかけて自由貿易派と保護主義派がぶつかるところなど、変わっていないことには驚かされる。とは云え、現在は「働き方改革」などが叫ばれているので、その点では大きな変化があったのかと言えば、読売記事によると、まだまだ木炭車は健在だったのだという感動とともに、最後の?木炭車を失ってしまったという思いも強くしている。

木炭車、それは「官僚たちの夏」で、『無定量無際限』に働く男を例えている言葉だ。
当時としては「新人類」の、テニスやヨットで休日を楽しみながら働くスタイルの省員に対し、木炭車は『余力を温存しておくような生き方は、好まん。男はいつでも、仕事に全力を出して生きるべきなんだ』『一つにポストについたら、そのポストを死場所と考えろ。その場その場が、墓場なんだ』を信条に、『無定量無際限』に働き、体を壊し職務を離れざるをえなくなって尚、『離れること、忘れることの難しさ』と詠むほどの生き様。
そうして、木炭車は最後には『戸板にのって帰ってくることになる』のだ。

一つのポストを死場所・墓場と捉え無定量無際限に働き、最後には戸板に乗って帰ることになる生き方が、個人として幸福かと云われれは、それは難しい。
本書でも、木炭車の代表格が最後には『<天下国家>は、生身の人間には重すぎる』と呻くのだが、この言葉を一般に当てはめれば、「仕事が個人を押し潰してもよいのか」という事に、繋がりうると思われる。

だが、能力のある人の無定量無際限な働きによってしか果たせないこともあると、私には思えてしようがない。

だからこそ、和久さんの言葉が甦ってくる。

「正しいことをするために、偉くなれ!」

だからこそ、正しいことをするために偉くなりたいと頑張る人を、心をこめて応援し続けたいと思っている。

ココは全部、山 人生 ④

2018-08-23 19:33:03 | 
「ぜんぶ、ワンコ 山 ②」 「個々の累積の個々が全部 ③」より

ワンコ 今月のワンコお告げの本のタイトルを見た時には、
それがワンコの意思なのだろうかと驚き悲しかったのだけど、
とりあえずは恋愛に絡めたミステリーの体を装いながら、時間と記憶の捉え方について書かれているあたり、
さすがブッカー賞を取っただけのことはあるし、
今このタイミングで読むことができたのも意味があったと思えるから、
ワンコ ありがとうね

「終わりの感覚」(ジュリアン・ バーンズ 訳 土屋政雄)

本書はね、
高校時代の友人に、初めてできた恋人を奪われてしまった男の半生が描かれているんだよ
(いや、友人が奪った、というより、恋人がエリートに乗り換えた、という方が正しいと思われる)
友人と恋人の裏切り?、友人の自殺・・・・・、
それらに影響を受けながら、いや影響を受けないように注意深く生きてきた主人公は、
それなりに結婚し子供も設け、それなりに仕事も勤め上げ、
人生の最終盤にさしかかろうとした頃、
自殺した友人の遺品である日記が遺贈される可能性が生じるんだよ
しかも、その日記を主人公に託そうとしているのが、
主人公を裏切り友人の許へ走った恋人の母親だというから、謎なんだけど
この謎を解くために、
主人公が、記憶の糸を高校時代まで遡らせ、手繰り寄せて紡ぐ話が、本書なんだよ

本書は、主人公の高校時代の歴史の授業の場面から始まりるんだけど、
そこで繰り広げられる、歴史と記憶に関して印象的な言葉は、
そのまま人生にも当てはまるんだよ (『 』「終わりの感覚」より)

『歴史とは勝者の嘘の塊』
『(歴史とは)敗者の自己欺瞞の塊でもあることを忘れんようにな』
『個々の責任の累積、(以下は最終章の主人公の感想)その先は、大いなる混沌』

味わい深いだけでなく、ミステリーの要素もあるから、本書の顛末を書くことは控えるけれど、
主人公よりも、おそらく二回りほど若い年齢で本書を読んだおかげで、
しばし、これまでの人生を振り返ることができたことは、有難いことだと思うんだよ

『人生の終わりに近づくと―――いや、人生そのものでなく、その人生で何かを変える可能性がほぼなくなるころに近づくと―――人にはしばし立ち尽くす時間が与えられる。ほかに何か間違えたことはないか……。そう自らに問いかけるには十分な時間だ。』

平均寿命という意味では、まだ半分そこそこしか生きていないかもしれないけれど、
何かを(大きく)変える可能性は、ほぼ無いような気がする年代に差し掛かっているせいか、
せめて終わりの時に、間違えたと思う事が一つでも少ないように、とは思い始めている。

考えてみると、間違いばかりの人生のような気もするが、
その逆で、間違いを恐れるあまり、しっかり生きてこなかった気もするので、
主人公の、以下の嘆きは、身に堪える

『私は――人生を注意深く生きてきた私は――人生について何を知っているだろう。人生を勝ち取りもせず、失いもせず、ただ起こるに任せてきた私は? 人並みの野心を持ちながら、その実現をあまりにもはやくあきらめ、それでよしとしてきた私は? 傷つくことを避け、それを生き残る本能と呼んだ私は? 勘定をきちんと払い、できるだけ誰とでも仲良くし、恍惚も絶望もかつて小説で読んだだけの言葉に過ぎなくした私は? 自己叱責が決してほんとうの痛みにならない私は……? 私は特別な悔恨に堪えながら、これらのことを考えつづけなければならない。これまで傷つくことの避け方を知っていると思ってきた男が、まさにその理由から、いまとうとう傷つこうとしている。』

主人公は、間違えることを恐れ、傷つくことを避けるために、
できるだけの事、だけをし、
感情すらも、誰かのものを借り、
そうして、自分の記憶を自ら少しずつ塗り替えていった

『人生が長引くにつれ、私が語る「人生」に難癖をつける人は周囲に減り、「人生」は実は人生ではなく、単に人生についての私の物語にすぎないことが忘れられていく。それは他人も語るが、主として自分自身に語る物語だ』

その、自らに都合よく塗り替えられた記憶に従い、人生についての物語を終えられれば、
それなりに幸せなのだろうが、
そうそう上手くいくとは限らない
何時どのような所から、物語の違う側面が、自分すら気づかずにいた自分の人生が、白日のもとに晒されるかは、分からない

だから、『何かを変える可能性がほぼなくなる』前に、
「少し立ち止まれ!!」とワンコが言っているだと、思えたのだよ

ねぇ ワンコ
大枠では、もう何かを変える可能性は少ない年代かもしれないけれど、
その枠のなかで頑張ることで、良い時間を重ねることはできるよね ワンコ
その良い時間、ってのが、独りよがりなものでないように、
弱い私を見張っておいておくれよ ほったん

そんなことを、
又すこしユーツの虫に憑りつかれそうになっている今、思うことができたことに感謝しているよ 
ほったん
だから、’’終わりな感じ’’なんて言わないで、これからも本をお告げしてちょうだいね

お山については、つづくよ つづく

個々の累積の個々が全部③

2018-08-21 23:42:27 | ひとりごと
「ぜんぶ、ワンコ 山 ②」

どちらが勝っても史上初の快挙となる、夏の甲子園の決勝が行われた。

大方の予想通り、史上初となる二度の春夏連覇を成し遂げた大阪代表も立派だったが、この暑いさなか投手を中心に東北魂を見せつけてくれた秋田代表も見事で、100回の記念大会はまさに記念すべき素晴らしい大会として歴史の一ページとなった。

特に秋田代表の快進撃は地元でも思いがけないことだったようで、日を追うごとに応援が白熱していったが、ニュースで「秋田、秋田」と絶叫しながら、そんな秋田の知性の一人が二年前の今日、この世を去っていることは、あまり知られていない。

そう、「たいまつ」の作者、むのたけじ氏が亡くなられたのが、二年前の8月21日のことだ。

ワンコお告げの本に、歴史の記録と記憶についての考察が繰り返しかかれていたことから、むのたけじ氏を思いだしたのには、おそらく甲子園開会式での主催社の挨拶が、ある。

甲子園やスポーツの祭典を平和と結びつけることは間違いではないが、100回の歴史を誇り平和と関連付けて何がしかを語りたいのならば、まずメディアが戦争にどう関与したのかも、率直に語り、それについて反省の弁があってしかるべきではないか、と思わずにはいられなかったのだ。
そんな時に、歴史の記録と記憶について印象深い言葉がある「終わりの感覚」(ジュリアン・バーンズ 土屋政雄・訳 )を読んだので、戦意高揚を煽った責任を痛感し、新聞社を辞め故郷 秋田に帰り、ただ一人の言論人として平和を訴え続けた、むのたけじ氏のことを思いだしたのかもしれない。

「終わりの感覚」には、主人公がしたり顔で『歴史とは勝者の嘘の塊』と言うのに対して、すかさず教師が『(歴史とは)敗者の自己欺瞞の塊でもあることを忘れんようにな』と遣り込める場面がある。
また、『個々の責任の累積』という言葉もある。

毎日新聞の記者だった山崎豊子氏は「二つの祖国」で主人公の口を借り、戦時下における日本のマスコミの無責任ぶりを痛烈に批判しているし、「小さいおうち」(中島京子)は、戦争特需を期待し戦争を歓迎している国民の様を描き出している。

勝者も、敗者も、嘘とご都合主義な記憶により記録を作っていくのかもしれない。
そして、そこには悲しけれど、ふつうの国民も含まれているのかもしれない。

それぞれの、個々の責任の累積の先にあるのが、混沌、戦の歴史なのかもしれない。

そんなことを少しばかり考えていたのだが、私が、むのたけじ氏を知ったのは、平和の伝道者としてではなく、金八先生が朗読した詩によってだ。

『生きることは学ぶこと』

『愛は自分で築くもの。真実は自分で突き止めるもの。書物は自分で探して巡りあうもの』

『より高く、より遠くへ跳躍しようとする者は それだけ助走距離を長くする』

読書備忘録に本の名言を記すのは、かなり子供の頃からの習慣だが、その手帳にはテレビで聞いた名言も時に記されている。
その最初の名言が、金八先生が朗読した、むのたけじ氏の詩だったのだ。

「書物は自分で探して巡りあうもの」だと思うけれど、
ほったん、月に一度の ほったんお告げの本を楽しみにしているから、
これからも本の紹介をお願いするね ほったん
次回は、お告げの本にあった、人の記憶と時間について考えてみるね 
おやすみ ほったん

ぜんぶ、ワンコ 山 ②

2018-08-20 09:51:25 | ひとりごと
「命からがら、間一髪」 「ぜんぶ、山①」より

ワンコ 今年は ワンコのお山に登ることを諦め、目的地を槍ケ岳にしたのだけれど、
諸般の事情で、ワンコのお山を拝することは出来なかったんだよ 
そんな、お山の話はまだまだ続くとして、
今日はワンコがお空組になって二年と七カ月の、ワンコの日だから、
ワンコお勧めの本について御報告するね

今月のワンコお勧めの本にはね、何度も『哲学的に自明』という言葉がでてくるんだよ
本書では、学生が自分達に都合よい正解を、きどって『哲学的に自明』って言っているだけだから、
あまり気にしなくてもいいのかもしれないけれど、
『哲学的に自明』って、どういうことなんだろうね?



これはさ、横尾と槍沢にある標識なんだよ

ねっ、これだけでも「自明」ではないだろう?

量や距離など数値で表せるものは、一番正確を期しやすいと思うのだけど、
どうも、そうではないんだな

そのうえ、ここに感情なんてものが加わると、数値はもっといい加減になるんだよ
急坂に喘いでいる時は、「あと○○㌔」の標識は、一番短いものを信じたいし、
歩き終わって満足感に浸りたい時は、長い距離を示しているものを信じたいし、
不思議なものだね ワンコ

数値ですら、「(哲学的に)自明」とは言い難いのだから、
人の感情に、自明のものなんてなくて当然だ、と開き直っている私だから、
今月のワンコお告げの本も難解だったよ ワンコ

「終わりの感覚」(ジュリアン・ バーンズ 訳 土屋政雄)

まずタイトルからして、ドキッとしたよ ワンコ
ワンコに、もうお払い箱にされてしまったかな?ってね

ワンコはお空で楽しくしているから、私も前へ進め! ってワンコがお告げしているのかな?とか
生まれかわって他のお家で上手くやってるから、他を当たれ! ってワンコがお告げしているのかな?とか
いろいろ考えてしまったよ

それに、本書は一応、主人公の学生時代から老境にさしかかるまでの恋愛をベースにしたミステリーのようだから、
私が好むジャンルでもないだろう
ブッカー賞をとった作品とはいえ、
ワンコお告げの本でなければ、あるいは「日の名残り」(カズオ・イシグロ)の訳者でなければ、
きっと読まなかったと思うのだけど・・・・・
やっぱりワンコのお告げにしたがって、正解だったよ

本書は、人の記憶について考察されている件が度々あるのだけれど、
今、この年齢で、本書を読んでおくことには意味があったと、そう思えるんだよ ワンコ
ありがとうね ほったん

本書は、高校の歴史の授業での一場面から物語が始まり、
そこで、’’史実の記録と記憶’’と、’’混沌’’について語られているんだけど
それが、
主人公が老境にさしかかり、生きてきた記憶を手繰ろうとしたときに、深い意味をもってくるだよ

『責任の累積があり、その向こうは混沌としている』(『 』「終わりの感覚」より)

史実の記録と記憶についても、とても印象深い件があるのだけれど、
それについては、明日また少し考えてみるね 
またね ほったん